>>315 麦師匠へ
>禅僧って己の為の修行ってイメージが強かった

↓(仮設としての)我が強いと

野狐禅(やこぜん)
自ら覚り終ったとする
独り善がりの
増上慢(ぞうじょうまん)の禅をたとえて言ったもの

その原因は
仮設としての
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して

我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として
それを自分であると考えて執着し続けて

(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して

このような因縁果報によって
野狐禅(やこぜん)とかも現れ(そして滅す)る場合もあるらしい

誰もが成仏するわけではない(五性各別)