悔い改めのない者が投げ込まれるというのは
死んでからの、地獄のイメージから来ていそうですね。

また、水ぜめ、火ぜめの拷問や、洪水、火災の災害の事が、

聖霊、霊性の炎とまぜこぜになっているような気がいたします。

さらに、理的な観点からも、火が水を打ち消すではなく
火は水を生かしている大いなる側面があります。

人間の体は、水分でできているけれど、
循環させたりするには、熱量が必要で
身体は冷やしたら、故障が生じやすい。
水分補給は常に必要ですが、それは冷える事とは違います。

大自然も、熱が海の水を蒸発させて空に上がり、
森林や河、湖など、生物が住むところに慈雨をもたらす
大循環系も、熱がなければ起こせない。

イエスキリスト以前から、水による洗礼はあるのです。
新生に関わる大事にな事であり、世界のあちこちの宗教にも
共通するものがあります。

しかし、それでよいなら、イエスは来られなかったはずです。
まことの聖霊は、炎です。

また、人による災害や自然災害を火の洗礼と呼ぶのであれば、
大洪水などの災害も、水の洗礼と呼ばなくてはなりません。

個々人が受ける霊的な、段階、聖霊、と
ごちゃまぜにしてはなりません。