>>907
サーティ比丘の言う識は常・一・主・宰の識であり、唯識でいうところの識とは全く異なります。
唯識でいうところの識は、

 > 是諸識轉變 分別所分別      是の諸の識転変して 分別たり所分別たり
 > 由此彼皆無 故一切唯識      此に由りて彼は皆無し 故に一切唯識のみなり
(唯識三十頌)

というように、”縁起・空”に拠っており、言わずもがな三性(遍計所執性、依他起性、円成実性)を説いてます。
また、

 > 前異熟既盡 復生餘異熟      前の異熟既に尽きぬれば 復余の異熟を生ず

というように、阿頼耶識の蔵する種子は”刹那生滅”するものとされております。
したがいまして、

>唯識派の人々は「変わらない実体はない」という真理を説明することができなかったのです。

> なぜなら「阿頼耶識という根本識があるのだ」という思考は、インド思想から言ったら、
> 根本魂、アートマンと同じ話だからです。明白な実体論に陥っているのです。

というのは誤解ですね。
(続く)