ブッダは私たちに我見(自己という実体があると信じること)を取り除くことを説いたのです。
もし、我というものは施設(暫定的な概念)にすぎず、本当は無我なのだということを理解したのなら、私たちの問題は終わります。
より正確に言うなら、問題が終わったというより、解決法が必要なくなったのです。

自らの身体が空であると知るとき、私たちはその中に住することなく、死王は私たちを捕らえることはできません。
私たちはもはや死なないのです!違いますか?
「私たち」というもの、我(アッタン)が存在しないとき、私たちは死なないのです。

存在するのは、ただこの五蘊のみなのです。
「人」というものは、本当はどこにも存在しません。
人とは、単に地(パダヴィー)、水(アーポ)、火(テージョ)、風(ワーヨ)のあつまったものにすぎません。
これら四大のあつまりを、施設(パンニャッティ)として「人」と呼んでいるのです。
ブッダは、無我(アナッター)を説きました。
けれども、この無我についての話を聞くときには、どうか注意をして聞くようにしてください。
この無我という言葉の本当の意味は、私たちの世界のどこに「人」というものが存在するのか?ということなのです。

アーチャン・チャー
https://twitter.com/AjahnChahBot