https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/764
>>前スレ764
>最初から自我はなかったのです。
>自我があるとは人間の錯覚·幻覚です。
>覚りに達する人には、自我の錯覚が消えます。
>覚った人に、今までなかったアートマン (自我)が突然現れるはずはないのです。
>涅槃も無我です。

8.3 第三の涅槃に関することの経
 【比丘たちよ、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。
比丘たちよ、もし、その、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が有るこ
となくあったなら、ここに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離は覚知されないであろう。比丘たちよ、
しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が存在する
ことから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知される」と。】
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html

はい、
では『〜からの出離が覚知される』というのは、
つまり、誰が覚知してるのか?
涅槃を涅槃であるとして覚知するのは誰か?
涅槃を認識している主体は誰だ?

もしも、本当に無我(自我意識の主体がないこと)ならば、
涅槃を出離したことを認識できない筈ですが。。。

長老さんよ、
この決定的な経文と矛盾することを仏法として語るでないと、
この私はいいたいね。

そもそも最初から、
ゴータマは無我(我は無い)などとは説いてないのだから。
「我は無い」として述べている経文といものは何処にも見つめることはできないのだから。
無我を我は無いという教えにしたいというのは、
あなた方の感情論(バラモン・ヒンドゥーとは異なる仏教の決定的な一大特徴にしたいという想い)に過ぎない。
所詮、それは部派が勝手に言い出したことに過ぎないから。
もしも、ゴータマが今ここにおられたら、
唖然として、「私はそんなことはいってない」というでしょうね!