そうか。。。

敢えて、誤解・語弊を恐れず 「場所」 的表現をとるならば、

「涅槃に入る(を見る)」とは、
(公営の)公園に行くようなもんだ。

さて、その公園は、
≪誰の(家の)庭に≫あるのか?
≪誰の所有する≫公園なのか?
≪誰それの好みに合った≫もの(ある特定の個人にだけ合う(該当する)もの)なのか?
だとするなら、他の人間には合致しない、該当しない、他の人間は所有しない・使用できない・・・etc.etc.
めんどくせ・・w

そういう【限定的な】要素を持たないからこそ、正しく一心に行じた者が、
(例外なく)【見る】ことができる、そのような境地として【常に】【ある】、と言われるのではないかい?
>>ALL


>>360>>372
自分でどっかサイト探して、>>332 の過去レス読んで来いよw
西洋的思考そのものが、反仏教的なんだよ。


>>367
仕返しという漢字・言い方になったからといって
「復讐」「やり返す・やり込める」という意味で受け止めるお前の金玉の小ささに笑うわw

子供をあやす・構う時は、
単純にリアクションが可愛らしくて、
(それを期待して、そのリアクション・反応を感受することが幸福だから(それらを欲するから))
大多数の大人(或いは兄弟姉妹、親戚の(その子よりちょっとだけのw)お姉さんお兄さん)は、
子供を構うのさ。