・・・思考が我から生起するとすれば、それは我を認めることになるので、仏教の無我説に反するな。

唯識説によれば、思考(第三能変中の第六識である意識)は心所として遍行に分類され、

触〜認識対象との接触
作意〜心の起動
受〜苦・楽・それ以外の判別
想〜自己の枠組みへの当てはめ
思〜認識対象への働きかけ

というはたらきに分けられる。

ところで、第六識である意識は「我」に他ならない。
また、第六識である意識(=我)は、阿頼耶識が転変して見分と相分に分かれた際に生じるものなので、「無い」、まさに無我。

つまり、「思考」と「我」は、阿頼耶識が認識対象と接触し見分と相分に分かれた際、その転変・遍行により同時に生じる。

我から思考が生じるのではない。