<『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。>

この説明にある「生じる」「成る」「作り為される」「形成される」というのは、素朴な直感による認識(例えば、肉体が生じるというような)、すなわち、感覚器官と知識とに基づいて自動的に私たちの心に生じる認識を意味していると解釈します。
人間社会で育つ過程で私たちは自然に「この肉体は私のものだ。この肉体が私なのだ。そう考えている心も私の心なのだ」というような認識を持つようになります。
そして、この認識が正しいと確信するようになるのです。

8-3の感興の言葉は、そういう世間的な認識は誤りであり、そういう認識の仕方をしないのが「涅槃」なのだとお釈迦様は説明しているのです。

正しい理解の仕方ではないかもしれないが、この立場は、例えば肉体は有るのかそれとも無いのかというような考え方をしているのではないということだとも言えそうです。
認識の対象の有無や本質、性質などを云々しているのではないのです。
認識の仕方そのものについて追求しているのだと思います。