延命十句の「我」については、
やはり、禅門でいう「主人公」「無位の真人」「本来の面目」、或いは「仏性」「仏心」、
或いは、関係性から立ち現れる(→他に依存する)世間的自己でなく、
瞬間瞬間に明滅する「いのち」としての「自己」としていくしかないかな・・とw
 ※ここが、一番のネック。 ただ、2500年の間にも、宝珠のような考え方を許容出来ないが故に
  阿頼耶識なり何なりがでてきたりしながらも、彼らの言う「我」を認めることができなかった。
  2500年間、膨大な人数の行者が、その方向性を採れなかったことを、もっと重く受け止めるべきだろう・・。