外道の独り言 9
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします 「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です 極めて恣意性の強いスレであることを了解願います 上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく (むしろその逆で過疎って欲しいくらいです) 「真摯なる碩学」が パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です 自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください 昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです 自由に書き込みしたい方は↓こちらへ ひだ =^・ ・^= まり ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2 ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524 前スレ ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/ ログ保管庫 ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>100 より 奈良さん草柳さんはあるがままを受け止めることが涅槃への道であり涅槃に到達してもそれは変わらないと。 決して涅槃では真我が実現するとか言ってるわけではない。 >>80-83 の涅槃に関係しない対話から言質を勝手にとって涅槃とはこういうところに違いないと言われても2人とも面食らうだろう。 こういうのは個人の言葉遊びの範疇に止めるべき 「当然」だとかこれが真説だというようないうような言い回しはしないほうがいい また、宝珠が・・www 「涅槃」というのは、あくまでも覚者の心的状態を指して言う語。 苦を滅した心的状態をいうのであって、真我など関係ないし、どこやらにある場所とも関係ないw >セブン ちと聞くんだが・・・・ 現在の臨済宗って、碧巌録の扱いってどうなの? 圜悟克勤は、馬祖的な文字禅否定して、公案に対するスタンスがかなり変わったじゃん?w ああいう姿勢を是としているのかな? それとも、唐代のように、それぞれの公案の「意味解釈」中心なの? ↓難しくて意味がわからないけどとりあえず 馬祖の思想 経典や観心によらずに 日常生活の中に悟りがある大機大用の禅を説き 「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう) 「即心即仏」など一言で悟りを表す数多くの名言を残している また 相手に合わせて教え方を変える対機説法(たいきせっぽう)を始め これによって多彩な弟子を育てる ttp://d.hatena.ne.jp/deku_dec/20151229/p1 禅思想史講義 - 日々の読書を糧にして-備忘録と駄文感想 … 『碧厳録』の著者である圜悟克勤の弟子大慧宗杲が看話禅を確立 唐代の問答は一見不可解だが 己れ自身がその答えだと「自覚」させようというやりとりが仕組まれていた 『ところが宋代になると、問答は、初めからいかなる意味も論理も含まない 絶対的に不可解なコトバ――「公案」――として扱われるようになる』 そうした公案は 『知的分別を奪い去り、その心を追い詰めて捨て身の跳躍を迫る』ために 理屈抜きに一気に悟らせるために、利用された 『ありのまま(0度)⇒ありのままの完全否定(180度) ⇒本来のありのままへの回帰(360度)―― このような円環の論理は ありのままの自己に対する肯定と否定の矛盾と言う唐代禅以来の長年の課題に 一つの解答を与えるものだった』 >>103 珍重すべき(自らが心酔信奉する)祖録というよりは、優れた参考書。 >>碧巌 また、近現代禅は、過去中国のような家風の相違はなく(優劣序列もなく)、それこそ意味解釈中心。 理由1、すべて白隠系(≒馬祖・六祖系)だから。 (それ以前はまだ、多少なりとも各法系毎の差異はあったと思う。) 理由2、(上記理由1のせいでもあるが)、「公案の網羅」=「修行の仕上げ」になってるから。 理由3、そもそも、碧巌自体が様々な家風の寄せ集め(逸話の集成)だしw 理由4、「論理的な禅、言語に依存する禅、修辞的手法の禅」は、宋時代には既に下火。(勿論、廃仏毀釈もあったにせよ) 日本の禅はほぼ例外なく「言語道断」の系譜だから、「沢山の事例」以上でも以下でもない。 ※鎌倉時代に輸入された禅は、それでも、言語重視な色合いをまだ残してはいたけれども。 ※その意味では、馬祖も圜悟も、きちんと言語は尊重してる方では? あの時代はまだ、ほぼ全ての禅家が、言語表現する(或は理に沿う)ことに意義を置いてる。おそらく圜悟に於いても。 体験重視にせよ、その伝達には言語が必須、と。 唐時代後半からの禅家乱立から廃仏あたりが、 近現代に通ずる姿勢・方向性を決定づけた面があるのでは? 碧巌の否定は、(岩波の解説にあるように)圜悟以後の反省(言語への過度の依存への反省)に始まるのでは? (禅思想史ってわかりづらいんだよね・・ややこしくて) 皆の衆、寝言は寝てから言うにゃん♪ ひゃっひゃっひゃ!*(^o^)/* 碧眼録ねぇ。 提唱のテキスト以上でも以下でもないし、老師によって扱いも違うし。 今時は朝課の時にホテルとかに置いてある仏教聖典を黙読したりするしねぇ。 公案に視座を置けば、碧眼も無門関も基本は法身・機関・向上の三種に分けて捌くだけだし。 一つの則を法身で見るとこう、機関で見るとこう、向上で見るとこう、って感じだね。 釈宗演、円覚寺管長、が超高速で公案を透過したことで有名となった。 >近現代禅は、過去中国のような家風の相違はなく(優劣序列もなく)、それこそ意味解釈中心。 まあ、そうなるんだろうねえw ある種のことを了解しようとすれば、言語というツールは必須なわけで、それをいきなり 不立文字で行っても、分かるわけがないw だから唐代禅的な意味解釈の方向性も当たり前なんだが、そうすると時代と共に 決まったパターン化が必然的に起きることとなる。 例えば、百丈 野鴨子の公案などは弟子たちが皆、師匠の前で「いてててええ」と 鼻をひねられたまねをするのが正解とされてたらしいww 近代になると各公案の正答集など虎の巻まで作成されたとかw ・・・・・圜悟の批判もまさに、それが一端なわけで。 かと言って、圜悟の言う、問いと回答の間を完全な意味的断絶と解する・・・つまり「活句」の 方向性は、難易度が高すぎるw これは何十年も修行した者のうち、ほんの僅かでしょう? これで達するのはw (ある作家が、「禅は百万人に一人の天才の道」と言ったが、まさに然りw) また、圜悟の方向性でも、初学における意味解釈の理解は必要なわけで、そこを「理解」できないと そもそもスタート地点にすら立てないわけで。 ・・・・しかし、殆どの者が、公案の意味解釈を「理解」した時点で「分かったぞおおおお」 となり、「なんちゃって覚者さん」となる。ww そこがスタート地点なのにw そして「山は山でない」をとことん自己に落とし込んで頷き、了解出来て180度。 そして戻って360度か。 ・・・・・こうやって見ると、禅はつくづく罪作りだなあw 手を出した100のうち、99人は何も分からず途中でやめるか、もしくは「分かっちゃって」w その境地を他人に語りだすw (まあ何といっても、雛が殻をつついてまさに破ろうとしているとき、それを外から助けてやる 親鳥・・・・即ちほんまもんの老師の絶対数が不足していることが一番の問題なんだろうがw) 109. 悟っていない人の感想である。 覚者になれないバカと言うことになる。 例えば、臨済のワキとされる普化などは、まず間違いなく何かしらの境地に達して いたと思うのだが、あれでは後進の者が彼から何かを教えられるのは難しい。 臨済ほどになって初めて、普化のすごさがわかるのだろうが。 ・・・・・確かに、普化は「偉大なる狂人」で、まさにある意味仏法の体現者と 言えるともおもうのだが、後進に対しての良き導師であったか? と言う側面については、どうしても疑問符がつく。 (まあ、彼の生き方そのものが、仏法の教示 であるとも言えるのだが) >手を出した100のうち、99人は何も分からず途中でやめるか、もしくは「分かっちゃって」w その境地を他人に語りだすw 爆笑、ジャンキーとやらが来てるしな笑。 >圜悟の言う、問いと回答の間を完全な意味的断絶と解する・・・つまり「活句」の 方向性は、難易度が高すぎるw 前世紀の一流処の禅師なんかの行いなんかをみると、 公案禅をやったから、一流政治家以上の人間間の交渉技術ができるんだろうな・・と最近。 >また、近現代禅は、過去中国のような家風の相違はなく(優劣序列もなく)、それこそ意味解釈中心。 ジャンキーの大好きな、ハッタリ評論の鈴木大拙とかか? そんなに俺が気になるかw 何度も言うが悟りとか知らんし、まだ参禅中だよw 銀椀裡に雪を盛るってな。 空じる事に終点はねーし、転じて色も同じこと。 いつまでも成り切れねーで分裂してろ、糞でおーw 成り切ってる時、自分はあるか? あると言えば成り切ってないし、ないと言えばいったい何が成り切るのか? 糞でおーw お前に気の利いた返事なぞ一生無理だわw 魔法陣でも書いて糞でも垂らしとけw www ↓難しくて意味がわからないけどとりあえず ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1312823018 山は山に非ず 仮設としての 無明薫習に依存して 我癡・我見・我慢・我愛に依存して 遍計所執性に依存して 山を見て実有である。と「妄想している」 − これに対して − (縁起している世界を手放して超えて) (無の世界も超えて) 仏そのもの 平等性智をもって 仏性からの真如縁起をもって 移り行く世界の様を ありのまま見つめている 円成実性の世界から観照する → 依他起性している世界の「ありのまま」を見る junkie- ooyama師匠↑こんな感じでつか? >100 涅槃が、「心の安らぎ」や「安心立命」とされることは確かに間違いじゃないけれども、 それらは涅槃の持つ特性についてのほんの僅かな一端の部分にしか過ぎない。 そしてまた、学者が涅槃をこのように紹介しようとするその訳というのは、 彼らの涅槃に対する理解の限界性の現れなのだということ。 そもそも仏教学者というのは、確かに兼僧侶であったり、 資格僧侶としての最低限の修行は経験したかもしれないけれども、 所詮は、その殆どが単なる唯物論者か物理的次元を超えた現象についての未経験者たちだ。 だからどうしても、その程度の平易なことしか述べることも伝えることもできないのです。 まっ、涅槃についての理解ならば、この私の方が彼らよりも何倍もわかってるものと自負する。 >>102 私は、これまでに涅槃のことを物理的な、 または、霊的な次元における何処かにある場所であるとしては一度たりとも述べたことがない (パ−ピは私の今までの投稿の一体どこを読んできたの?)。 私がもしも涅槃を「場所」という言葉で述べるときというのは、 あくまで『ウダーナ』の経文の表現をそのまま使用してのこと。 要するに、涅槃を指し示す表現にはどうしても言語的な限界があるために、 ただ便宜上として「場所」(処)や「世界」などという言い方を使用しているだけのこと。 『比丘たちよ、その場所(処)は存在する』(8.1第一の涅槃に関することの経) >>68-69 世界(現象界)が「空」、 人間/生命-五蘊-はすべて「空」 そんな(仏教としてはごくごく)当たり前の話はどうだって良い。 問題は、「涅槃」も“涅槃に住する如来”も空などと語る僧侶たちの馬鹿さ加減だ。 そう語る者たちというのは空を理解していない。 たとえ教団の内外では阿羅漢と讃えられようとも、所詮はそのレベルだってこと。 現代日本では、本当に宗教を必要としている人は、 禅みたいな仏教クイズや、上座部みたいな仏教パズルはやらんだろ。 それで悟ったとしても、悟りの正体は薬物中毒まがいの変性意識にすぎないと お偉い修行者が暴露しているし。 現代に釈迦が生まれ変わったとしたら、間違い無くキリスト教徒になる。 >その殆どが単なる唯物論者 確かに仏教学者は馬鹿だが、これは凄まじく酷い評価だねえ まともに認識論をやった人間なら、普通観念論者になる。 荘子の混沌の寓話 と観念論 http://tapanulifever.hatenablog.com/entry/2016/11/22/173718 「南海の神を?(シュク)といい、北海の神を忽(コツ)という。中央の神を渾沌(コントン)という。 ?と忽があるとき、渾沌の治める土地で逢うことになった。渾沌は彼らをとても良くもてなした。 ?と忽は渾沌の徳にお礼をしようと相談して、語り合った。「人間には皆七つの穴がある。 それにより感覚し、食べ、息をするのだ。しかしこの者にだけはそれがない。試しに渾沌の体に 穴を開けてあげよう」と。一日に一つの穴を開け、七日目に渾沌は死んでしまった。」 この場合の渾沌=物自体 体に穴をあける行為=人の認識 渾沌が死んでしまった事実=認識の不可能性 仏教よりもよっぽど奥が深いと解釈できる。 >>117 ですね。 色即是空、空即是色。 空仮中。 混沌とはアフォリアの外の世界と思うけどね。 仏教は混沌に穴をあける様な事はしませんからw 要するに、こういうこと 唯物論 物があるから、人がある 観念論 人があるから、物がある 仮に観念論の立場に立ったとしても、 実際は、 人(認知主体)があろうがなかろうが、物がある しかし、その物は、もはや客体と言えないから、何物でもない では、我々の感じている物の本質とはいったい何であろうか 片山さんや奈良さんを唯物論者とかwwwwwwwwwwww ビルマの長老方を、わかってないとかwwwwwwwwwww >>118 どんだけぇ〜〜〜(by Ikko どんだけ盲だよ(泣怒 >>118 >何処かにある場所であるとしては一度たりとも述べたことがない 場所でないなら、境地でしかないだろw パーリ仏教に於いて「場所」(→「処、ThAna」と言われるものは、 空間的に場所を占めるものも、【要素として】【内包される、含意されるもの】も、双方ともに含むんだよ。 さて、涅槃はどっちだ?w I. Connotation. As one of the 4 iriyApathA (behaviours) 1. Contrasted(a) as standing position with sitting or reclining; (b) as rest with motion; 2. by itself without particular characterization as location. II. Meanings (1) Literal: place, region, locality, abode, part ( ---Th. of, or belonging to) (a) cattAri ThAnAni dassan?yAni four places (in the career of Buddha) to be visited (b)); ThAnA cAveti to remove from one's place Sn 442; J iv.138; PvA 55 (spot of the body). - (b) kumbha? (the "locality of the pitcher," i. e. the well) q. v.; araNNa? (part of the forest) (c) In this meaning it approaches the metaphorical sense of "condition, state" (see 2 & cp. gati) in: dibbAni ThAnAni heavenly regions (d) In its pregnant sense in combn with accuta & acala it represents the connotation I. 1 (b), i. e. perdurance, constancy, i. e. NibbAna Vv 514; Dh 225. - 2. Applied meanings<-> (a) state, condition; also (b) (part=) attribute, quality, degree: aggasAvaka? (degrees of discipleship) (c) (counter -- part=) object ( ---Th. for), thing; item, point; pl. grounds, ways, respects. With a numeral often=a (five)fold collection of . . . (d) (standpoint=) ground for (assumption) reason, supposition, principle, esp. a sound conclusion, logic, reasonableness (opp. a? see 4): 特に、宗教的事柄に於いては、 推薦、伝達、教導、助言、或いは提示、紹介、等々の際には、そこに 「ああ、そうか」「ああ、確かにその通りだ」という頷き があってのことだ。(通常は。) で、実は、ナンチャッテ覚者さん(や、各種新興宗教の教祖様方)も、 『自身の(神秘)体験』をべーすにした「ああ、そうか」の上に言葉を重ねている。 大王だって閻魔だって不説だって一代だって、(てすとやその他だって?w)皆そうである筈なのだ。 勿論、私も。 そりゃ、全く同じ追体験とはいかない、というか、そうであったらブッダだからw けれども、相似形としての体験が、必ずそこにある筈なのさ。 その文脈で、 宝珠には、そういう (神智学的、ヒンドゥ的)『ああ、そうか』 は、あるのかな? という疑問があるわけさ。 そして、 「仏教」の文脈、価値観、論理においては、 ≪経験的に「無我」≫なのさ。 【例外なく】ね。 で、 延命十句でも言われる常樂我浄は、まさに、 片山さんがコメントするような側面での常樂我浄なわけさ。 (^。^)どうも。その他の一人です。(笑) 示された月には成れないけど、 三十七品を「あぁ、なるほど」と腑に落ちない行者なんて駄目でしょ。(笑) そこはもう少し自信持とうよ。(笑) いやいや、大智度にもちゃんと大力の菩薩と小力な菩薩があるって記されてんだから、 少なくとも、バカカルトみたいな全く違うことをやって詐称している訳じゃない、(笑) ちゃんと師から継承したんなら、それなりの責任と矜持がないと。(笑) (^。^)まぁ、あんたも俺には言われたくないだろうから、もう止めとくがな。(笑) 第一 蛇の章 <11、勝利> 200. また身体が死んで横たわるとき、膨れて、青黒くなり、 墓場に棄てられる。親族もこれを顧みない。 201. 犬や野狐や狼や虫類がこれを喰らい、 烏や鷲やその他の生き物がこれを啄む。 202. ブッダのことばを聞いて、智慧ある修行者は、 この(身体の)ことを完全に了解する。あるがままにのみ観る。 203. <かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう>と、 自分の身体に対する欲をも、他人の身体に対する欲をも、離れるべきである。 204. 愛欲を離れた智慧ある修行者は、 不死・平安・不滅なるニッバーナ(涅槃)という最高の境地に達した。 http://juryoku.blogspot.jp/2017/04/blog-post.html?m=1 第五 彼岸に至る道の章 〈学生ヘーマカへの質問〉 1085 聖者さま。あなたは、妄執を滅しつくす法をわたくしにお説きください。それを知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えましょう。」 1086 (ブッダが答えた)、 「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪(むさぼ)りを除き去ることが、不滅へのニルヴァーナの境地である。 1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩(わずら)いを離れた人々は、常に安らぎに帰(き)している。世間の執著を乗り超えているのである」と。 ナーガルジュナの仏教は、意外なことには、或る意味では最初期の仏教の正当な発展であると解してもさしつかえないであろう。 『龍樹(中村元著)』より引用 ところが、ナーガルジュナにいたって、一大展開がなされたのであった。いやあるいは、釈迦の本心に返ったというべきか 『宗教原論(小室直樹著』より引用 もともと(禅)問答は、ライブで相手の分節された世界をぶち壊し無分節の世界に導く為の活作略だったと思う。 それが、集められ語録という文学書となり一時期禅は形骸化したけど、ライブの追体験という公案の方法により息吹を吹き返したのでは? 碧眼録はそうしたライブを記録した文学書だけど、無門関はライブの追体験、公案を前提とした問題集になってると思う。 公案は否応無しに無分節の世界を最初から相手に投げ掛けて、相手の分節の世界を否定しまくり追い詰めてぶち壊す。 もちろん、ぶち壊した後でまた分節の再構成をするんだけど。 junkie- ooyama.師匠へ >>136 難しくて意味がわからないけど ttp://d.hatena.ne.jp/deku_dec/20151229/p1 唐代の問答は一見不可解だが 己れ自身がその答えだと「自覚」させようというやりとりが仕組まれていた 『ところが宋代になると、問答は、初めからいかなる意味も論理も含まない 絶対的に不可解なコトバ――「公案」――として扱われるようになる。』 そうした公案は 『知的分別を奪い去り、その心を追い詰めて捨て身の跳躍を迫る』ために 理屈抜きに一気に悟らせるために、利用された _ _ _ 臨済宗とかは (今でも?) こんなに難しいことを実践してたんでつね? 知らなかったでつ ちなみに おじゃるにとっては 中論 中観帰謬派とかも難しいという感じがします (初心者向けにわかりやすく説明するのは難しいと思いまつ) 余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐 この実践も(「簡単ではない」という意味で)難しいと思いまつ junkie- ooyama.師匠へ >>140 の続き ↓難しくて意味がわからないけど 中論 第二十七章 見解(邪見)の考察 集合体(蘊)の連続体(相続)は バターランプ(灯明)の炎のようなものなので その有限性(有辺)も無限性(無辺)も 意味を持ちえないことになる いかなる意味も論理も含まない絶対的に不可解な という感じもするけど 有限性である。という『想い』 無限性である。という『想い』 この仮設としての 『想い』を手放して超えていくのなら 『想い』という意味を持ちえない これなら おじゃるにも 意味が、わかる場合もあるかもしれない 間違っていたら スマソ m(_ _)m [日本ショー] こころの時代〜宗教・人生〜「禅の語録を読む」 https://www.youtube.com/watch?v=EP50s1dj9mg& ;t=7s 面白いよ。 3度目だ。 このバイセクシャルのホモ豚は、嘘をついてでも 自演ではない、と、言いたかった 涅槃が心的世界なら、無我で間に合うだろ。 別に空を持ち出す必要性は無い。 空理空論ここに極まれり。 言葉に限界があるからなぁ^ ^ 例えば腹が減ったの心的状態を言葉にできないように空性の心的境地を言葉に出来ない^ ^ >>140 >>141の続き 一休「婆子焼庵」の公案を解く? 一休は 「婆さんは 泥棒に梯子を貸してやるように 清浄な修行僧に女を与えようとした その老婆心を無碍に断るのもなんだ 孫娘は、青年僧に惚れていたのかもしれない その情をはねのければ、乙女心を傷つける 仏道とは、ただ独り 枯れ木のように修行してればいいというものではない 人の心に添い、衆生を済け導くのが僧の勤め 孫娘は「甘露の仏性」であったかもしれない 「枯れた楊(柳)の木も、陽春を受けて 新芽を生ずるか」と これが正解なのかしらん? (答えを求めることが間違っているのかもしれないけど…) ちなみに おじゃるは いつでも煩悩の渦に巻き込まれているので 外見上 美人で可愛くて優しい性格のように見える孫娘なら 我癡・我見・我慢・我愛の赴くままに 『彼女にしたい』という想いが現れ(そして滅し)ているのでつ 146.婆子焼庵、か。 それは生活の問題である。 愛憎は、生活の問題である。 その生活を否定したものが宗教である。 だからして、その両者は、両立しないものである。 その断絶を、どうするのか。 そこが公案である。 一休さんが、その愛憎を肯定すれば、失格である。 >>144 「空」とは、もともと「無」とか「空しい」という否定の意味を含んでいます。 しかし、「般若経典」の「空」の世界は、現象世界の相対的な姿や価値観を、否定して否定して、否定しぬいて、 この世のあらゆる現象や存在はわたしたちが五感や自我の意識でとらえるような常住、不変な実体としては存在しないことを見据えていく中で、「無」とか「空しい」という観念の世界をものり超え、 千差万別の姿(差別相)をもつ現象や存在の奥底に、それらの差別相を超えて働くただ一いろの絶対的な真理というか、絶対的な法則というか、絶対的ないのちというか、 そういう究極の実在見定めていくのです。 ーー略ーー また、原始仏教の「諸行無常」の法則は、固定的・常住の自我を否定しますから、ここから、「すべてのものごとは他とつながりがあり、他と無関係に存在しているもの(すなわち「我」はない」という、 相互依存の関係を示す「諸法無我」の法則が発展してきたのですが、この無我法をより深く見据えるならば、自分のいのちも他人のいのちも、動植物や虫のいのちも、水や石のいのちさえも、 同じ一つの根源のいのちに生き、生かされている平等ないのちであるという、差別想対立関係、あるいは相互依存の関係をも超えて、絶対平等の一体の世界が開けます。 「諸法の実相」を「無相」というのは、あらゆる現象や存在の奥に絶対の平等相を観る究極的な「無我」を見極めたものだったのです。 したがって、「諸行無常」と「諸法無我」の法則に導かれる「涅槃寂静」の世界も、原始経典に説く「一切の煩悩を断ち尽くした状態」にとどまらず、 究極の実相としては「千差万別の差別相を持つ諸々の存在が、一いろの平等相に融け合って、同じ根源のいのちをとこしえに生かし、生かされる大調和の世界」という、 一切肯定の広々とした世界、すなわち「寂光土」として示されます。 ※寂光土 https://kotobank.jp/word/%E5%AF%82%E5%85%89%E5%9C%9F-525439 >>148 の続き みなさんも、「般若心経」の「色即是空、空即是色」という句は耳におなじみのことと思います。 この、「色即是空」と、「色(目に映るいろいろな存在)」を否定して否定して昇り詰めたところに開ける「空」の世界とは、つまり、「大調和の寂光土」のことなのですが、 しかし、その「寂光土」の世界が日常生活に具体的に生かされなくては、人間の幸福に役立ちません。 たんに「空」を観じて「空」に執着しているなら、それは形而上学的な「空」を認識しているにすぎず、もはや「空」でなくなってしまいます。 「空」と昇り詰めて、そこから「空即是色」と「色」の世界に還ってきてこそ、「空」すなわち「諸法の実相」は人生に大きな意味をもち、完成されるのです。 (立正大学学長 中村瑞隆) >>150 日常生活の幸福を求めないのであれば「空即是色」のフレーズを入れる必要はない。 ごとく ち [3] 【後得智▼】 〘仏〙 現象界の個々の物事の相違を認める智慧(ちえ)。あらゆる物事が無差別であると知る根本智ののちに得られる。 仏は衆生の差別を知って救済しようとするので,衆生を救済するのは後得智とされる。 https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%8C%E5%BE%97%E6%99%BA 根本智→色即是空(勝義諦) 後得智→空即是色(世俗諦) >>146 まぁ、婆さんに指図されてのこのことやってくるような世間知らずの娘さんですからねぇ。 そうした純朴さはかわいいと言えばかわいいんですが。 世間はもっと広いんだし、婆さんにはお世話になったんで、 「こんなかわいい子を持って婆さんも幸せだなぁ、じゃあ婆さんに宜しくって」去るでしょうね。 それが公案の答えかどうかは知りませんけど。 >・・・・・・人間の幸福に役立ちません。 >・・・・・・人生に大きな意味をもち、完成されるのです。 まあ、一般世俗 に対する解説なんだろうから、こういう言い回しも許容されるんだろうが、 ・・・・・w ⇒「元々、人間の幸福など問題にしてません」 ⇒「人生に意味などありません」 これ言っちゃったら、誰も聞く耳持たないしw >「空」と昇り詰めて、そこから「空即是色」と「色」の世界に還ってきてこそ・・・・ 誰の言葉だが忘れたが、これを「禅に生きる」という言い回しで表現していた奴がいたなw これが非常に難しいんだがww 一旦「色即是空って」空じられて無住処涅槃に至ったら、幸福を求めるのは自然じゃないのかなぁ? 勿論、それは自他が無い幸福の追求ってなるんだけど。 154.自他のない幸福、か。 そんなものは無い。バカ丸出しである。だまし、か。無知、か。 >>147 > 愛憎は、生活の問題である。 > その生活を否定したものが宗教である。 > だからして、その両者は、両立しないものである。 > その断絶を、どうするのか。 > そこが公案である。 否定しないし両立するのが大乗仏教なんだよw そのためには公案という手段を使って空じるんだよ。 分節された世界(分別)を一度はぶっ壊して(色即是空)、無分節の世界(涅槃、彼岸、無分別、根本智)に至り、 再び分節の世界に還って来るんだよ(空即是色、無分別の分別、後得智)。 行ったきりっていうのが小乗仏教。 行きもしないのがお前、なw >>空、があることを証明せよ >レスしてるだろ 仮設としての 縁起している世界の中で 縁起に依存して 「問いがあり」 この問いに対して 「レスがある」ということでつね? ポッタン師匠には 意味が わからないかもしれないけど 「空性である」からこそ 「縁起している」ということが… 「無とはない事」とか、「〇とは円」とか、「隻手とは片手」とか・・・ そうした観念を禅定て休めて、無は無、〇は〇、隻手は隻手の世界に行くんだよ。 勿論それだけじゃ唯の三昧境だからダメ。身動きが取れない。 それさえもぶっ壊して、これはもう表現不可能な世界にね、自由自在というか、真空というか。 そこから逆戻りして〇は〇、「〇とは円」の世界に戻って来るんだよ。 ビールジョッキがあって「ビールが入ってない事を証明しろ」って言われたら、 ビールを入れてやるでしょw そんなもんよw 諸行無常−−− すべての存在は移り変わる 是生滅法−−− 是がこの生滅する世界の法である 生滅滅已−−− 生滅へのとらわれを滅し尽くして 寂滅為楽−−− 寂滅をもって楽と為す 幸福は求めておらん^^ 照見五蘊皆空したのになぜ幸福を求めるのか^^ >>164 >照見五蘊皆空したのになぜ幸福を求めるのか^^ ??? 照見五蘊皆空したのになぜ幸福を求めないの? すべての執着を断つ事が目的であり・・ 幸福を求めることが目的ではない^^ う〜〜ん^^ 幸福を求めるとか・・・^^ まだ現世に執着があるようだな・・・^^ 五蘊があって幸福がある・・ ということは・・・^^ わかるな^^ となると・・・^^ 無我の境地では幸福なるものは存在しない^^ なぜなら・・^^ それこそ^^ 「色即是空 空即是色」 だからだ^^ 山は山→山は山でない→山は山と同じ。 山を幸福に当てはめりゃわかる。 般若心経は無我の境地で書いているからね^^ 我執がある境地で読んでみても解らないと思うよ^^ 中村瑞隆でググった結果、 中村 瑞隆(なかむら ずいりゅう、1915年2月23日[1]-2003年11月15日[2])は、日蓮宗の僧、仏教学者、立正大学学長を務めた。 青森県出身。1941年立正大学文学部仏教学科卒、同大学院修了。45年専門部講師、48年助教授、49年立正大学講師、50年助教授、 61年教授、66年「如来蔵思想研究」で九州大学文学博士。73年法華経文化研究所長。1977年仏教伝道文化賞受賞。1983-86年立正大学長、 名誉教授。日本学術会議会員。 たいした情報はない。頭はいいしだろうし、人もいいんだろうけど、ただそれだけ。 池田大作みたいにSGI作ったわけでも、大川隆法みたいに2000冊本を書いたわけでも、 麻原彰晃みたいに解脱(刑務所で正気を失ったこと)したわけでもない。宗教家としては三流。 「寂光土」とやらに行って戻って来たけど何もやらなかった現実世界で全く御利益の無い人で終わりだろ。 で、「空」って実際の役に立つのかな? 幸福ではなく寂静の境地なんだよな^^ 戯論寂滅や・・^^ >>176 空が無けりゃ色は成り立たいと思うし。 虚空があるからものが存在する様にね。 >>175 現世の幸福に対する仏教側の解答 貧困→自業自得 病気→心を空にしろ 騒動→暴力反対 こんなの実践したら、普通はアウトだろ 実際創価学会は、「灰身滅智」を身を灰にし教えを絶やす小乗の教えとして テロ思想と変わらないと教えているよ。 >>177 >戯論寂滅 で終わるのが小乗仏教。 大乗は無住処涅槃。 こう考えると・・・^^ 一切の執着から開放された境地が空の境地かもしれん^^ >>179 それは空信奉者の考え。 ゴッドもアラーもアマテラスもブラフマンも、空無くして君臨している >>183 > ゴッドもアラーもアマテラスもブラフマンも、 > 空無くして君臨している ??? 空は非有非無なのに、「空無くして君臨」って意味が分かりません。 どういう意味ですか? 「我執から開放されればその境地は空となる^^ 」 まぁ・・その境地に到達した人でなければわからんね^^ これだけは^^ 「我執から開放されればその境地は空となる^^ 」 まぁ・・その境地に到達した人でなければわからんね^^ その境地に到達した人 ↓ 照見五蘊皆空 https://www.e-sogi.com/sp/arekore/kyo1.html 上記サイト中段 「空」の思想 より抜粋 (Aは色不異空・色即是空、Bは空不異色・空即是色) (A)は言葉によって実体に執着することを否定する智慧の段階を表現しています。 それに対して、(B)は何も存在しないという極端な考え方を否定すると共に、言葉のない体験に執着することも否定する智慧の段階を表現しています。 (B)は大乗仏教が重視する智慧で「後得智」と呼ばれるものです。 言葉による 認識はあっても、それらを実体視せず、執着もない状態であり、最終的には、言葉のない直観的な認識と言葉をともなう認識が完全に一致・両立します。 この智慧があってこそ、人を救うことができるのであって、小乗仏教の阿羅漢とは異なる大乗仏教の仏の智慧であると考えられました。 A 無無明亦(勝義諦)…根本智 B 無無明尽(世俗諦)…後得智 A 無老死(勝義諦)…根本智 B 無老死尽(世俗諦)…後得智 だね >>184 『修証義』第四章「発願利生」より 或は無量劫(むりょうごう)行いて衆生を先に度(わた)して自からは終(つい)に仏に成らず、但(ただ)し衆生を度し衆生を利益(りやく)するもあり。 http://www.zen-essay.com/entry/hotsugan-risyou この箇所は無住処涅槃の教えだろうね >>186 絶対的な存在に、非有非無の仮説なんか通じるわけないだろ。 >>192 私はサイトの紹介をしただけですが、どういたしまして(^。^) 「幸せとは何かを知ることこそが、人生において究め尽くさなければならない もっとも重要な事柄なのだ。」 道元ちゃんがこんなこと書くわけないだろ^^ 友達だからわかる^^ >>194 空は、絶対的という相対では捉えられないんだけど? 193. 仏にならないで、衆生を先に度しうる、と思うバカである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる