>>476
> 善と悪があり、その行き来がまったく自由であるなら性善説だろう
> なぜなら自分で善を意思し、そこまで辿り着けるから

自由であっても自分で悪を意思する場合もありうるから性善説とは限らないと思うよ
自由であった場合には人間は本質的に悪に向かわず善に向かう存在であると観念されて
初めて性善説ということになると思う
キリスト教でそのように観念されているのであれば、性善説だね

> その行き来がまったく自由でなく悪しか取れないなら性悪説だろう

この場合は、人間の現実的な性向を「性」と定義するなら性悪説になるね
現実的な性向が悪であっても発現されない本質は善である、という論理も
「性」の定義次第で成り立ってしまうのではないか

まあおそらくキリスト教界隈で言われる性善説・性悪説というのはもっと単純に
現実の人間は神の恩寵なしで神に一致できる、
あるいは神の恩寵だけでなく人間の本性として神に一致する傾向を持つというのが性善説
神の恩寵なしには一致できないというのが性悪説というみなし方かな