弁道話。・・・六問。ある人はこのように言っている。「仏法には即身是仏(心そのものが仏)という教えがあって、その
主旨をよくよく体得してみると、口には経典を読まず、身は仏道を行じなくとも、すこしも仏法に不足な所はない。ただ
仏法は本来自己であると知る。これこそ道を得る事の完全円満なものである。この他に他人に向かって求めるべきではない。
まして坐禅弁道のような面倒なことをする必要があろうか」
答え。このような主張は、もっともなさけない。もとおまえのいうとおりであれば、心を持つているものに、この主旨を、
教えれば、だれとて理解することは無いであろう。よくしるが良い。仏法は自他の対立観をなくして学ぶのである。もし、
自己がそのまま仏であると知ることが、道を得た事になるならば、釈尊は昔、衆生を教化するのに苦労されることは
なかったであろう。ともあれ、古い高僧の公案によって証拠だててみよう。(つづくのか)
?まあ金持ちのむすこは答えをそのまま教えてもらって医科大に入れる。まあ医者として医院を継げるしお家安泰な仕組み
まあお寺も僧なんだろうか?苦労して山登りして頂上で見上げる景色と、登山電車に乗って来て観る景色は同じ七日も?