心身学道 ・・百丈大智禅師が言うに「本来清浄・本来解脱であつて、自己そのままが仏、自己そのままが禅道であるという
見解に執着するものは、自然主義の外道に所属している」と。この言葉は無用の壊れた道具のようなものではない。学道にお
いて、功徳を重ねた結果である。俗界を飛び越えて、八面玲ろうの玉のようであり、また真脱落して、藤が樹に絡まるように、
安心立命している。「あるいはこの身を現して、みずから解脱し人のために説法する」場合もあり、「あるいはあの身を現わ
して、みずから解脱し、人のために説法する」場合もあり、また「人のために説法しない」場合もある。そういう場合である
から、身を捨てれば「声を揚げて響きを止める」ほどの大音声の説法をすることもでき、命を捨てれば二祖慧可のように腕を
切て諸祖達磨の髄を得ることも出来るたとい威音王より以前学道始めたとしても、やはり自分みずからが仏祖の児孫として
仏道を進めていかなければならないのである。 ?とこんな事本書き写しても我々は僧言う生き方出来ない。心が落ち着い
て居られない立場であれやれこれやりで我身家族周りのお付き合いで色々考え人間の共同生活で学ぶのは心の乱れだけど
それが今の修行なのか。今書き終わったホットしてコーヒー飲んで人休みしたら後はまたバタバタと心身も忙しく働く