光明 こういうわけであるから明々白々たる光明はいかなる草(事物)にも現れている。百草(あらゆる事物)の光明というのは、
すでに根や茎、枝や葉、華や果、光や色そのままであって、さらに加える事も奪う事もない。五道(地獄、餓鬼、畜生、人間、
天上)の迷いの世界のままで光明がある。また六道(五道に修羅を加える)のままで光明である。この光明の内にありりながらい
かなる所在のために光明を説こうとするのか。説く必要は無い。すべての所在が光明である。またどうしてたちまちに山河大地
を生ずる事があろうか。光明の他に山河大地はないはずてある。招賢大師の言う「全世界はすなわち自己の光明である」という
言葉をよく参学すべきである。また光明の自己が全世界であることを参学すべきである。
迷いの生死去来は、実は光明の往来である。凡夫を越え聖者をも越えるという事も、光明の藍であり、朱である。
仏祖となると言う事も、光明の黒であり、黄である。修業と悟りも無いわけではない。それは光明に染められている。草木や
垣根や壁、あるいわ皮肉・骨髄などすべての光明の赤白である。また煙や露、水や石、あるいは空飛ぶ鳥の跡無き道、悟りの深い
世界など、悉く光明のへめぐりである。
自己の光明を見聞するのは、仏に出会い、仏にまみえるたしかな証拠である。全世界はすなわち自己である。そこを避け
て通る余地はまったく無い。たとい避けて通る余地があるとしても、そのままが世間を越えていく活舞台である。今日只今の
骸骨のからだ、そのままが全世界の形であり、すがたである。仏道を修行し、悟りを聞いていく全世界とは、すなわちこの骸骨
であり、肉体であり、骨肉・骨髄である。・・・今朝は梅雨の晴れ間の光明にクーラクーラ