第十二則 【厳喚主人】 がんかんしゅじん
瑞厳の彦和尚という人は毎日自らを主人公と呼び、また自らそれに答え、ひとりでこんなような問答をしています 「はっきり
と目をさませよ・・・はいはい。いついかなる時も、人にダマされてはいかんぞ・・・わかったわかった。」
無門いわく 「瑞厳の老和尚は自分で買って自分で売り、幾多の神の頭や鬼の面を手品のように出して見せます。どうしてなの
でしょう、その本質 (さんずい+斬+耳) にあるものとは? ひとりの呼ぶものの本体 (底)、一人のそれに応じる本体、ひとり
のはっきりとした意識の本体、一人の人にダマされないようにする本体。
もしそれらを認識してしまうと、結局もとにもどって目指しているそのものではなくなってしまいます (不是)。もし他のもの
を認めて成りきってしまうと (若也他に傚わば)、すべてそれは百丈和尚に出会った野狐のように、カン違いの解釈となって
しまうのです。」頌にいわく 學道の人眞を識らざるは、只だ從前より識神を認むるが爲めなり。
無量劫來生死の本、癡人喚んで本來人と作す。 「せっかく仏道を学んでいても真理を理解できないのは、ただむかしより
別の人格を認めてしまうからで、無限につらなる時間の中で、生死のもとになるものを、カン違いの人はそれが自分である
(本来人) と思って?も私の世界を見る眼は△かんけいで今は辛い世とそれを逃れる煩悩の方角を見ている。ご主人は辛い世
のたすけにならず今の世では無料でもテレビやネットで遊べるし一方を照らす時は今は暮らしで主人公を観る眼は向こう空
観えるだけで此方から跳ね返りもなくブラックだ世。暇があったらそのうち坐禅するよ今はバイバイ今朝もやる気なく書け
ぬけた。明日からは△は参画するのだろうか?坐禅は楽しく無いからなあ5分だけするか