(つづき)不死の門を守る二つの恐ろしげな像は、仏教の観点からすれば、単純に次のように解釈されるのでしょう。それは聖域
への進入を阻む外的な神の意思をあらわすものではなく、むしろ人間の意志そのものに内在する現世の肉体への執着、肉体の死
に対する脅迫的な恐れを表現していると。聖域に入ることを阻むのはこの人間の意志なのです。なぜなら仏教の教えでは我々は
すでに不死性を獲得しているのであつて、ただ現世的な目標に対する精神の執着ゆえにのみ、我々はこのことを忘れてしまうの
です。物質的欲望の恐怖(ゴータマ・シャキーャム王子が仏陀の境地に到達した夜に克服したのは、この二つの誘惑でした)のた
めに、私たちは楽園からー皮肉なことに、私たちはそこに住んでいるのですがー自分を追い出してしまうのです。仏教の教えで
は<楽園追放>などということは起こらなかったのです。イエスもまた次のように言ったと伝えられます(最近発見され翻訳も出た
グノーシス文書『トーマス福音書』のなかで)、「王国は汝らの中にある」、そして「父の王国は地上に広がったがったが、人間
はそれを見ない」と。実際のところ偏見の無い目で人類の宗教を見れば、誰でもいたるところで地球の諸民が我共有している神話
的な主題を認めざるをえないでしょう。たとえその解釈は様々に異なるとしても、主題の同一性は明らかです。・・
?という事ですが人間は年取ると体はどんどん傷んでいき心と言うよりもあち腰痛いが駆け回りお互い何時まで今此処に痛いが
通用するのか宗教なんてどんな場合でも医者には叶わず痛み止貼ればめ遥か。我々は情けないけど何時も小○の中に居る