>>101
(1) 私は聖書翻訳者ではありませんし、ましてや聖書の編集者でも著者でもありません。
ただ神学書やコメンタリーを通して、歴史の教会が積み上げてきたいろいろな解釈を学んでいるだけです。
ギリシア語やヘブライ語を学ぶのも、それらの神学的成果を理解するための手段にしか過ぎません。
(2) 旧新約聖書を、救済史を導いておられる生ける神から独立した一種の企画書か設計図のように、人間の屁理屈で分析したり説明したりしてみせることに私は興味がありません。
(3) >>101 のような愚問を弄ぶ暇があったら、学問的に権威のあるコメンタリーの一二冊にでも先ず目を通すべきでしょう。
(4) >>108 も、聖書原典の校訂という際立って高度な学問の世界を、まるで小学生か中学生の英語の学習と同じレベルのように見くびって口出ししているようなものです。

聖書を読む人たちの中には、それによって 「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を」(IIテモ 3:15)得る人もいますが、
教会の信仰とも救いともなんの関係もない、ただの議論屋で終わる人も多いのです。