【臨時】悟りを開いた人のスレ 1
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本スレは、荒らししか居ないので、
マジメな話、ここでしましょう。 本スレの基地外はコジ、ジャンキー、123、まこと、あと誰だっけ? 晃もそうだな。わらっちゃうおもか。
ああいう状況になるべくしてなったんだよ
悟った人間が居るとしたら、そこに集う人もそれなりなんだよ。
ああいう連中にはそれなりの人間しか集まらない。
真剣に悟りを熱望するならあんなスレから離れていくから https://www.youtube.com/watch?v=cFpnZldsIXM&feature=youtu.be
気分なおしにエンタメを笑。
うっ、今は天台浄土教に関心が・・・・。
1000年から900年前の天台浄土教は。
ファンタジーがあるわなあ・・・・。
叡山浄土教の研究 (1979年)
佐藤 哲英
を読む、後半に、その頃の源信著と言われる(そうでない)本の現在語訳があって、楽しい。 天台浄土教と後の真言念仏の違いを感じつつ・・・・。
恵心以降の天台浄土教の最初は観想の念仏で・・・・。
ファンタジーを感じる・・・・。
光明の観想やらで・・・・。
天台教学との無理やりの接合感なんか、すごく面白い・・・・・。 それ以前は、正式密教である真言密教、空海の即声吽の三部を読んで・・・・。
正式でない、高野聖、真言念仏と山伏、がどの部分を引用し、
どこに力点を置いていたか?・・・と調べてていた・・・・。
高野聖、真言念仏と山伏は、真言、梵字の持つ神秘的な力に集中していたようだ・・・。
と今更に気づいた・・・笑 http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-6.html
声字実相義
のあたりで、真言、梵字の持つ神秘的な力、超越的な力、呪術的な力を追及し始め、広がったようだ。
悟りの教相は、ほとんど探求されることが少なく、有名な学者はいたが・・・・。 叡山浄土教の研究 (1979年)
佐藤 哲英
は、マジで天台浄土教の三昧感に溺れる感じがあって・・・・相当にはまっている・・・笑。ほぼマイブーム笑。 後白河法皇時代に、絶世期があった、仁和寺の真言密教は、謎が多い・・・・。
神仏習合と真言念仏があるんだろうけども・・・。
いまだに謎だ。 >>1乙
こちらも参加するか。
仏教で使われている言葉の解釈は時代によって変遷しているというのが一般的な見解だよね。
時代だけでなく宗派によっても違うかもしれないし同じ宗派でも個人によって解釈が異なる場合もある。
龍樹の空と禅の空は違う、なんて意見もあるしね。
仏教には本当にたくさんの宗派がある。
こうなってくるとブッダが説いた教えにもっとも近いものだとされているいわゆる初期仏教を知りたくなる。
けれど仏典の中で比較的成立が古くブッダの教えに近いと考えられている原始仏典でさえも編纂会議を経て様々な付加や削除が行われているとある。
同じ経典でも古く成立した部分と後から付け加えられたものがあったり。
漢訳の阿含経のほうが古いと推定されることも多いとあるサイトには書いてあった。
そしてそもそもその原始仏典とされるものもブッダの入滅から400〜500年ほど経ってからのもの。
こういう前提がある。
さらに。
こちらは仏教はもちろんその歴史にも疎い、上記のものもさっき適当に検索かけて繋げたもの。
という前提もある。
それらを考慮して聞いてほしいんだけど。
釈迦の教えにより近いものを捉えようとした場合、特定の仏典を取り上げて考えるよりも複数の仏典を見比べてそれらに共通するものに着目するってやり方は1つの方法としてアリだと思うんだ。
そしてさらっと検索したらこういう意見があった。
「空」「縁起」「無常」の法が共通しているかもしれないと。
これについてどう思う?
これらの言葉の解釈はひとまず無視して、これらの言葉が表すであろうある概念が仏教の根幹を貫いているといってもよさそう? >>12
原始仏典自体の意義は、どうなのか?
という議論は、割愛させていただく。
ただ、原始仏典は何なのか?は、
****************************************
「阿含経」、?gama アーガマ
ウイキペディア・フリー百科事典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%90%AB%E7%B5%8C
****************************************
と、紹介させていただく。
その「阿含経」の日本語訳の大御所は、
増谷文雄 博士
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E8%B0%B7%E6%96%87%E9%9B%84
その弟子の、中村元 博士
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%83_(%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
だ。という事を、紹介させていただく。
私は、増谷文雄 博士の、辞典集である「阿含経典」全6巻を入手し、読んでいる。
阿含経典 全6巻(筑摩書房 1987年)→新版 ちくま学芸文庫 全3巻、2012年
私は、
阿含経
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1514771346/
のスレ主です。
ネットに阿含経典の一部分を載せているので、それを読んでみられるのも、よかろう。 >>13
そういう指針を示してくれるようなレスはありがたい。
原始仏教に詳しい人と話がしたかったんだ、そちらが気が向いたときに智恵を授けてもらいたい。
もちろん会話を重ねるときはこちらも最低限の知識をもつ(阿含経などを読む)のがマナーだということは承知している。
そういう礼儀を守らないことを許してほしい。
あとで読むつもりではあるけれど他の読み終えていない本を優先する必要があるんだ。
あと、阿含経のスレはチェックしていくよ。
1つだけ質問があるのだけれど。
「死ぬのが怖い」
という人に対して行った釈迦の説法って阿含経の中ではどのようなものがあるのだろう?
検索しても検索方法がいまいちなのかなかなか、自分の言葉(自分の解釈)で語るサイトが多くて。
キサー・ゴータミーの話などから方向性はわかるんだけどね、彼の言葉であるとされるものが知りたい。 ここからは皆に向けての書き込みになる。
阿含経についてちょっと検索してみたが解説でこういうのがあった。
釈迦は「なにかの世界観を示したのではなくこの世の苦から解脱する道を示した」と。
その解脱するための道具としての縁起の法は最初はきわめて素朴な形で書かれているとある。
――――――――――@
これあるがゆえにこれがあり、これ生ずるがゆえにこれが生ずるのであり、これなきがゆえにこれがないのであり、これ滅するがゆえにこれが滅するのである。
――――――――――南伝相応部経典
これは相依性(単独で自立してそれ自身で存在しているものはない)のことを示すと。
――――――――――A
比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。
比丘たちよ、生によって老死がある、という。
このことは、如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているのである。
法として定まり、法として確立しているのである。それは相依性のものである。
――――――――――B
比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。
……
如来はこれを証りこれを知ったのである。
これを証りこれを知ってこれを教示し、宣布し、詳説し、開顕し、分別し、明らかにして、しこうして汝らも見よというのである。
――――――――――南伝相応部経典
ここで気になることがある。
Aの「このことは、如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているのである」の部分。
これは認識する人の有無に関わらず縁起は世界の原理として存在することを示しているように見えるんだ。
これは一般的にはどのような解釈がされているのだろう? ここでさらに皆に聞きたいのだが。
仏教ってそもそもなんなのだろう、という疑問がある。
阿含経を解説したサイトを見てる感じではこうなる。
釈迦は生・老・病・死などの人間が生活を営む上で生じるであろう苦しみを滅することを最優先の課題として捉え、縁起の法を説き理解させることによりそれを達成させようとした。
と。
自分も現時点ではこの視点とかなり近い考え方であるんだ。
「真理の一部を開示する形で作られた苦の制圧マニュアル」なのではないかと。
ここでいう真理とはこの世界の原理のこと。
仏典すら読んだことない奴がなにを言ってるんだと思う人もいるだろうけれど、仏教という森に足を踏み入れていないからこそ見えてくるものもあると考えている。
ここで「真理の一部」としたのには理由がある。
真理というピラミッドがあるとする。
真理の一部開示とはこのピラミッドを横からみたもの△を示すこと。
このピラミッドは真上からみれば□となる。
このように真理というピラミッドは『視点』により形が変わる。
釈迦はあえてピラミッドそのものではなく△または□のみを使って説法した可能性があるのではないかと考えている。
これらの根拠を列挙することもできるけれどあくまでも自説のため今は控えておく。
というか>>1はどこにいったのだ。
このままではこちらの独壇場になってしまう。
ま、こちらは過疎ってる方が好きだから一人でもここを利用するが。
パチンコもさ過疎ってるのが好きなんだよ、皆はぼったくりを警戒して行かないだろうけど。
俺からしたら人が少ないのは贅沢なんだ。
子供の頃、近所の寂れた映画館によく行ってた、そして本当に誰もいない映画館で大スクリーンを独り占めする。
そのときの癖が抜けないのかな、それとも人より欲張りなのか。 一応名前を伏せておいたが、
>>1はどこにいったのだ。
というレスが有るため、
>>13が、>>1です。
と、名前を明らかにします。 わからなかったw
まだまだ洞察力がなってないなこちらも。
あまり長文ばかり書くのもどうかなと思ったんだけど、ごめんね。
ちなみに鬼和尚がよく投稿してた2年前くらいの本スレの雰囲気が個人には好きだ。
バカっぽい書き込みもあれば、熱い討論してる人たちもいたりして。
眺めてるだけで本当に楽しかった。
今の本スレもあれはあれでよいんだけどね、勢いがついててもう追えなくなってきた。
読むのが苦痛になってきてたから潮時かなと思ってたらこのスレが。
わりと緩い話も好きだから、そういうのも書いていくと思うが。
スレの状況をみてかな。 >>20
住人になるならいつでも歓迎するぞ。
今日は町内の作業でくたびれた。
これから始まるんだよな草刈りとの格闘が。
釈迦に相談したらなんて言ってくれるかな。
そういえば阿含経の中のこれに笑った。
「世尊よ、わたしどもは、女人をどのようにすべきものでありましょうか」
「アーナンダよ、見ないがよろしい」
「世尊よ、見た時には、どうすればよいでありましょうか」
「アーナンダよ、話をしないがよろしい」
「だが、世尊よ、話しかけられた時には、どうすればよいでありましょうか」
「その時は、アーナンダよ、用心するがよろしい」
こちらがアーナンダなら二行目で吹いてしまうんだが。 このスレの参加人数が少ないのでこちらの仮説を提示する形にする。
あと、こちらは仏教のことをあまり知らないということを伸べておく。
阿含経を検索してみてふと疑問に思ったことがある。
釈迦の言う「無我」とはそもそもなんなのだろう?
とりあえず軽く検索してみたからそれをまとめてみようと思う。
どんどんツッコンデもらって構わないし、これはそのために作ったものである。
テーマ:無我
A――――――――――
ラーダよ、色(肉体)は無我である。受(感覚)は無我である。想(表象)は無我である。行(意志)は無我である。識(意識)は無我である。
―――――――――――南伝相応部経典23-17
B―――――――――――
比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有ものにあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
―――――――――――南伝相応部経典22-15
このように実際に釈迦は「無我」(アナートマン)とされる言葉を使っていた。
このアナートマン(anatman)という語は「我、自身」を意味するアートマン(atman)に否定を意味するアン(an-)を付けたもの
このアートマンとはウパニシャッドの言葉であり、まとめるとこんなとこ。
アートマンとは?
@真実の自己である。
Aあらゆる生物の根底にあるものである。
Bこれは生物のように滅びることがない。
C人はこれを中心にして生存を繰り返す。
D具体的なものとして認識できないものである。
無我とはこのアートマンの否定であるわけだけども、一般的な見解ではこうなっている。
・釈迦はアートマンの存在を否定したことはない。
・アートマンは真実として捉えることができないものだからそのような仮定(妄想)を用いて作られた教えは愚かなものである、と相手にしなかった。
釈迦はいわゆる形而上学的問題に対しては沈黙したとされている。
つまりはアートマンそのものを否定する立場をとらない(同じ土俵に乗らない)はずであるから、この一般的な見解にはそれなりの説得力がある。
そもそもアートマンというよりウパニシャッドそのものを相手にしていなかった、と思われる。 では釈迦の言う「無我」とは一体なんであるのか?
これは先ほど述べたように否定の言葉であるわけだが。
それはアートマン(我)を否定したものではなく「真実として捉えられないもの」を否定したものではないのかと。
ここでいう真実とは形而下(時間・空間の中に形をとって現れるもの)のことね。
それならなぜわざわざ「我」を否定したのか。
釈迦はウパニシャッドが描く宗教世界の中で生まれ育ってきた。
いうなればウパニシャッドが世界そのものだったわけである。
その世界の根本にあるのが「我」というわけで。
こういう視点からいくと無我はこう言い直せるんだ。
無我とは「真実として捉えられるもの」または「時間・空間の中に形をとって(感じられるものとして)現れるもの」と。
この言い直した言葉で南伝相応部経典から引用したABをみてほしい。
なんだかよくわからなかった文章がすっきりする。
A
色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意志)、識(意識)は「真実として捉えられるもの」である。
B
色(肉体)は無常で、無常なものは苦で、苦なるものは「時間・空間の中に形をとって現れるもの」である。
「時間・空間の中に形をとって現れるもの」は、自分たちの自由にならないものだし永遠不変なものではないのである。
どうだろうかな。
実は無我に関するものは阿含経のこのABしかみてないんだ。
他の説法ではおかしなものになるかもしれない。 ここで提起された疑問なりテーマは、倶舎論を紐解くといい線まで行くと思いますよ。 自殺教唆の邪鬼がくる意味はなんだ?
せっかく日本鬼子がいい問題提起したあと
邪鬼がしゃしゃるか?自殺教唆の邪鬼
坐禅年数自慢の邪鬼 愚者論の題材は邪鬼で十分だ
自殺教唆の愚者よ。坐禅年数自慢の邪鬼よ >>32
HN付けてくれ。透明あぼーん処理するから。
そうすれば無駄にスレを消化しないで済む。
根拠のない非難中傷を繰り返し、議論の阻害をするのはやめ給え。
邪魔だよ、坊やw >>12 ・・・「空」「縁起」「無常」の法が共通しているかもしれないと。
これについてどう思う?
これらの言葉の解釈はひとまず無視して、
これらの言葉が表すであろうある概念が仏教の根幹を貫いているといってもよさそう?
12の人は、「これらの言葉の『解釈』」と、
「これらの言葉が表すであろうある『概念』」とは異なると思っているようだが。
どう異なるの? 35.
空、縁起、無常、とかは対象の問題である。
宗教は対象の問題ではない。
それでは何か。 ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て万有引力の法則を見出したのと同じなのでは?
お釈迦様は深い禅定より、諸々の現象から真理として空だの縁起だの無常という法則を発見された。 >>29
Wikipediaにこちらの質問に対する答えであろう記述があった。
――――――――法
釈迦のさとった法は釈迦のドグマではない。
「仏がこの世に出ても、出てこなくとも変わりのない法」と経典にあるように「世間の実相」「世界の真理」であるというのが釈迦がみずからの所信であり仏教の主張である。
――――――――
それはいいとして。
無為法と有為法について。
仏教の知識が乏しいこちらからすればなかなかに返答に困るんだ。
こちらは仏教の本は一冊も読んだことはないのである。
無為法と有偽法の意味をこちらが知るためには2つの言葉の理解が必要となる。
「無為と有偽」と「法」について。
賢者Wikipedia先生のお言葉である。
――――――――法
法則・真理、教法・説法、存在、具体的な存在を構成する要素的存在などのこと。
本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」など様々な事柄を示す。
――――――――無為
特定の原因や条件(因縁)によって作りだされたものではない、不生不滅の存在のこと。
――――――――有為
さまざまな因果関係・因縁のうえに存立する現象を意味する仏教用語。因縁の和合によって造作された現象的存在のこと。
――――――――
『法』についてさらに検索したらなかなかよさそうなサイトが。
ダンマ(法)はインドでは仏教用語ではなく日常で使われるものらしい。
言葉が持つ意味は時代によって変遷していくものだけれども1つの参考になるだろうから紹介しておこう。
@当たり前に起こる出来事。
どうしてもそうなってしまうこと、朝がきて夜がくるとか。
Aあるべき姿
これは道徳的な意味合いをもつもので。
嘘はついてはいけないそれがダンマである、という使われ方をする。
B守るべき信条
人は何に従うべきか?
ダンマに従うべき。
という使われ方をする。
C生き方の教え
釈迦の説法など、人々の心を育てるような従うべき教え。
D法則
これは自分たちの世界のそれと同じ。物理法則とか。
E法律の理念
法律などを作るときの基盤となる思想(理想)みたいなもの。
F現象
ありとあらゆるもの。 問題はこれである。
――――――――――
仏教は一切の法を、無為と有為に明確に二分して、両者を全く異質なカテゴリーとして扱う。
――――――――――
法を2つに分類したらしいがそれの基準として無為と有為を使ったとある。
どういうことなんだそれ、と読み進めていくと。
――――――――――
縁起については、品類足論に「縁起法とはいかなるものなりや。謂く有為法なり」とある一方、倶舎論では「有るが説く縁起は是れ無為法なり」とあり、同じ説一切有部の中に複数の考え方が存在している。
――――――――――
基準ぶれてないか。
よって頼みがある。
上記のものについて時間があるとににでもジャンキー大山が説明してくれないか。
倶舎論については参考にさせてもらう、後程おそらく利用するだろう。
あとこれは原始仏典を読んだことある人たちに尋ねたいのだが。
この有為無為という言葉については原始仏典でも用いられているらしいんだが、検索してみたが上手いことひっかからない。
該当するであろうと思われる箇所を知っている人はぜひ教えてほしい。
もちろん>>16で書いたものもその1つとなりうるのかもしれないが。 >>33
お前さんはやはりなかなかいい奴だったな。
>>35
これは書き方がまずかったかな。
>>これらの言葉の解釈はひとまず無視して
>>これらの言葉が表すであろうある概念が仏教の根幹を貫いているといってもよさそう?
これは、
『空』の意味はとりあえず考えないで、どの宗派にも『空』と呼ばれるような概念がある?
って尋ねている。
>>これらの言葉の解釈はひとまず無視して
わざわざこれをつけたのは宗派によってその解釈が異なる可能性があるから。
話が膨らみ過ぎないように、そういう話はまた別の話だよと線引きしたというわけ。 >>39
無為法とは縁起しないもの。
有為法とは縁起するもの。
ですかね。 >本スレの基地外はコジ、ジャンキー、123、まこと、あと誰だっけ?
栄進は入ってないのか?ww >>41
>無為法とは縁起しないもの。
>有為法とは縁起するもの。
おそらくわかった。
こちらは何がわかってなかったのかようやく把握した。
法(ダルマ)の概念だ。
虚空とかも法になるんだよね?
それなら納得できる。
とりあえず法を2つに分けた、縁起の内にあるものと外にあるものに。
これはブレるから縁起という法が無為法になったり有為法になったりするわけか。
違うのか……? 法(ダルマ)の概念ってこれどう言えばいいんだろうね。
これやはり『保持するもの』ってのが一番しっくりくるのかな。
何かしらのもの(現象)Aがあるとする。
そのAをAとして存在させている背後にあるもの。
って感じ? >>43
ダルマに該当する日本語はないし、様々な概念があるからねぇ。
法である時もあれば、対境(外物)である時もあるし、実相である時もある。
でも、ここでいう法は、(分類概念としての)法でいいと思いけど。
例えば、輪廻転生するものは有為法、輪廻転生しないものは無為法に分類されます。 >>44
仏教では大きく、人と法に二分してます。
その場合の法は、自分は、自身を取る囲むもの(対境)として受け止めてます。 43.
縁起するもの、と縁起しないもの、か。
仏教では、縁起しないものは、存在しない。
だからして、その分類をすることは無意味である。 このスレは、
「悟りを開いた人のスレ」
なのです。
そこを、よろしく。 >>12
原始仏教、大乗仏教、禅、チベット密教、南伝仏教など多彩に学ぶのは基本でしょう
仏教は、なにしろ
空
でしょう
空 >>16
縁起を知ろうが知るまいが、変わらないものが真理です 人間本当に「あっ参った」ってなると
「神さま」ってなるわな。 私が悟ったというよりも、誰でも下記の本を読めば、宇宙の真理が悟れるとのことです。
2000年の少し前頃に発刊され、アメリカで異例のベストセラーになり、日本でもベストセラー、
いまや30数カ国以上に翻訳されて読まれているニール・ドナルド・ウォルシュ氏の『神との対話』シリーズ。
もし本当に「神の存在と恩寵」を確信したいなら、まず正しい「神の理解」が必要です。
そして、その「正しい理解・認識」によって、この現世で「神の体験」が可能になります。
すぐには信じがたい話だとは思いますが「運命は全て完璧・(深い意味で)成功のみ」とのことです。
また「我々の魂は永遠に不死」です。
そして、世の多くの宗教は同じ一つの神からのメッセンジャーにより発生したものとのことです。
一見、少し怪しい題名の本ですが、誰にも身近な共通の一つの神様です。
思索的な哲学書として読んでも面白いと思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome
スレ主の意向に従いたい。
こちらの書き込みはスレの趣旨にあってないと考えられる。
よってこちらの会話については終了の方向にもっていく。
素っ気ないレスになってしまうが許してほしい。
>>45>>46
色々とありがとう、話に付き合ってくれて。
知識があるだけに視野が広いのがいい、頼りになる。
倶舎論はいずれ目を通すよ。
>>47
それもよくわかる話だ。
>>51
空は原始仏教から使われていたようだね。
その意味は大きく変わっていっているみたいだけど。
>>52
それが真理の定義であるとも言えるか。
話を中途半端に終わらせる形になってしまうため、まとめておこう。
と思ったが眠くて頭が働かないな。
また後日、こちらがなぜああいうやり取りをしていたかもしかしたら書くかもしれない。
意図があってのことなのだが。
どの道、こちらは悟っていないから退場かな。 >>53
以下の句はご存知でしょうか?
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。
如来の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。
如来は、この法を自ら覚し、等正覚を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発顕示するのみなり。
(雑阿含経) スレタイに【仏教】って入れた方が良かったかもね。
仏教では常・一・主・宰のものを否定するから>>55のような方は来なくなるでしょう。 ↑この人は人に「クビを吊れ」だの「坐禅しろ!坐禅!」「脳の萎縮」など
自殺教唆や威張り散らした命令、罵倒を繰り返している悪い人ですから要注意です。 >>59
こういう人も、いる。
本スレNo.276より。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1518418079/438
************************************
438一人の人 ◆ncKvmqq0Bs 2018/02/17(土) 03:11:34.61ID:s9NETn4d
>>433
ゴータマ・ブッタは、ゴータマ・ブッタの道を行った。
私は、私なりの道を行く。
もちろん、2500年前の先駆者、ゴータマ・ブッタの意見は参考にする。
ゴータマ・ブッタの意見を参考にしながら、私は私なりの道を歩む。
それで、先駆者ゴータマ・ブッタの意見と同じになるかも知れないが、
ゴータマ・ブッタがすべてではない。
私は、私なりの道を行く。
************************************ 770ジャンキーと、こじの病んだ部分、ほとんど該当笑。2018/03/23(金) 11:15:41.37ID:+b+e4cJQ
煩悩の心所は6つの心所に分かれます。
慢の心所・・・自己を驕り、他者を侮る心
無明の心所・・・愚かな心
不正見の心所・・・間違ったことに固執して、真実の道理を知らない心
悪い考え方、よくない考え方、曲がった考え方、とらわれた考え、とらわれた心
不正見の心所は5つに分けられる
薩迦耶見・・・自己中心的に自他を峻別し、自己に執着する心「我見」「身見」
辺執見・・・極端な考え方をする心「断見」、「常見」
見取見・・・誤った考え、因縁因果の道理を信じない考えを正しいものと思い込む心
随煩悩の心所は20の心所がある。
忿の心所・・・立腹して杖で打とうと思うほどに怒る心
恨の心所・・・人を恨む心
悩の心所・・・立腹して人を恨んでひがみ、心中不安で剣呑な物言いをする心
覆の心所・・・名利を失うことを恐れて罪を隠す心
誑の心所・・・名利を得たいがために、徳を装い偽る心
諂の心所・・・人をだまして丸め込み、自分の過失を隠す心
驕の心所・・・わが身を素晴らしいものと思って、驕り高ぶる心
害の心所・・・人を憐れむことのない、うんざりするほど軽薄な心
嫉の心所・・・名利を求める気持ちが強く、人の繁栄をねたむ心
慳の心所・・・人に施す気持ちがなく、蓄財趣味のけちな心
無慚の心所・・・自己と教法に対して恥じない、罪をつくる心
無愧の心所・・・他者に対して恥じない罪を崇める心
不信の心所・・・貴くめでたいことを見聞しても、忍び願わない、穢れ濁った心
懈怠の心所・・・善事を行うにあたって、怠けてぐずぐずする心
放逸の心所・・・ほしいままに罪をつくる心
掉挙の心所・・・騒がしく動いて、定まらない心(禅定中に現れる)
失念の心所・・・ものを忘れる心
不正知の心所・・・知るべきことを間違って理解する心
心乱の心所・・・一つの対象に集中できず散乱する心 ジャンキー君は公案よりも人間の躾を一からやり直しなさい笑。
禅と見性スレ歴代、発狂一位ジャンキー様確定祝!!
(_):___::|_
(_)〔座〕(_)この紋所が目に入らないアルか!
(_)〔禅〕 :::| ∧∧
( )::: ̄ ̄::|ヽ : ∧_∧ /瞋\ ∧_∧
 ̄ ̄(  ̄`\\<`∀´; > (`ハ´ #) (@∀@ ∩
) ヽ 貪 ) (~__((__~) (つ癡 丿
● //( ( /__ \ ( ヽノ
巛 <_) <__)(_) (_) し(_)
538ジャンキー大山2017/06/28(水) 02:40:37.66ID:g63M09zL>>539
>>533
>あなたの取り組みは、どうですか、どうなってますか。
坐禅だよ坐禅!
坐禅しろ坐禅!
坐禅!坐禅!坐禅!
戦闘力判定、貪・瞋・癡(信長の野望の武将才能数値風w)
ジャンキー大山、三毒力、むさぼり、貪、100
愚かさ、癡、100
怒り、瞋、100 (豊田真由子議員レベル)
ジャンキー様の、その実力とは?
病的自己愛で発狂公開オナニー
@禅語を水戸黄門の印籠みたいに使い、ジャンキー君の哀れな虚栄心と自己愛を満たす(自己完結一人遊び水戸黄門笑)
A液状化の意味不明な回答、質問をして、病的自己愛を防御。 マルチポスト発狂、犬の習性マーキング的レス笑。
B相手を精神病扱いして、怒りを発散して、脳内勝利感を哀れに味わう(金正恩、トランプ参照)
C病的自己愛と発狂で、ついに自演笑。
このループしかない発狂ジャンキー君
ぼったん、三毒力、むさぼり、貪、100
愚かさ、癡、100
怒り、瞋、80 >>58
自分で出してなんだけど、後半は出典が違う気がする。
多分前半は正しい。 ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て万有引力の法則を見出したのと同じ。
お釈迦様が深い禅定より、諸々の現象から真理として空だの縁起だの無常という法則を発見されたのと同じ
お釈迦様が現れようと現れまいと真理はある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています