【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
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※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 >>849-850
自我を突き抜けるまで冥想実践した経験ありまするだか?
ないのであれば、まだ見えてない巨大な価値が眠ってますよ。 >>849
論点はそこじゃねーよw
介護や保育業界の待遇が低い時代が長かった(いや、今もかw)理由に、
或いは、学校の先生等も、そういう時代があったかもしれない。
聖職へと奉られるかの如き歪んだボランティア観はなかったか、という問いだよ。
「自分のことを大事にする前に他人を大事にしろという規範」の怖さも頭の隅に置いておけということ。 >>851
悟るまで他人に施しをしないという立場を取ると
ほぼ100%のひとは一生何もせずに死ぬしかない
釈迦のような元々優れた魂の持ち主なら若くして悟れるが
凡夫はどこかで見切りをつけて実践へ移行しないと何もせずに助走だけをした人生になって終わる
テキストを提示されても釈迦以降一人も釈迦の域まで悟れないんだから
諦めも肝心
あなたがいくら悟ったと言い張っても他人と関わった瞬間通用しないこともあるでしょ?
一生勝負しない格闘家も実際には山ほどいる
俺は悟るまで施しをしないと言う人は化けの皮が剥がれるのを恐れてるだけだと思う
真に知ったなら実践が伴う
身体が動かないのは悟ってないから
自我を突き抜けてそれがなんの役に立つの
悟ったと思い込んでるひとは山ほどいるが真に悟った人はまずいないでしょ?
未だに仏教の範囲から逸脱する勇気もない権威主義者の中に真の覚者はいませんよ
悟れば新しい世界宗教が生まれる
過去の再生産が悟りなわけはないよね 他人の書き込みちゃんと読まないのか知らないけど悟るまで他人に施しをしないなんて言ってる人誰もいないよね 同時に、
悟るまで、誰も「助けない」「協力しない」「手伝わない」
と言ってる人もいないけどね。 >>854
あなたは誤解している。
悟りは開かれ、万物に宿っている。
それは例えるなら隠されたことが一度もない空気の様なものだ。
そしてそれとは知らず、何も求めず、何も拒まず、慎ましやかに日々を過ごす幸せな人たちの中にも目覚めた人は数知れずいるのだ。
それらの人たちは家の柱に庭の草木にその世界中に花を咲かせているのだよ。
これ以上の救いがあるだろうか?
確かにあなたの言わんとする事は分かる。
ブッダが善を急げと言ったのも凡夫に向けてのものだ。
しかしニルヴァーナは離れた何処かの遠くではなくすぐそばにある。
だからこそブッダは説いてまわったのだ。 今対立してるのは、そうした「聖なる次元(勝義)」の極の話でなく、
日常日日の一瞬一瞬の「人助けの場面」への視線の色合い、でしょうがw >>857 >>852
思考に流されず、一点に留まる意識(気づき)がある。
その時、禅支のみがあって五蓋がない。
日常的な用語で言えば、思考はしておらず、五感の感覚もない。
(思考にも感覚にも意識を向けないから。)
妄想は思考による産物であり、
幻覚は感覚による産物であり、
夢は眠りによる産物であるから
目覚めた意識のみがある時、その意識は、
自我が生みだした妄想概念のなかにはいない。 >>854
昔は、日本仏教にも慈雲尊者のような人物はいた。
>過去の生産性
時代によって変遷していくような価値観は、普遍的な真理とは言わない。 >>859
言葉で説明できることはあくまで思考分別であるから、
この説明は無分別智の中身をなにも説明できてはいない。
これは、言語によるコミュニケーションがもつ構造的な限界によるもの。
無分別智。般若の智慧。体験智は、自分自身で感得しない限り、本当
には知ることができない。
だから、ただ黙って坐りなさいと言われる。
おれは大上段に構えて上から威圧しているわけではない。
それしか方法がないからそう言われているだけ。 その時の自分自身は、自我ではなく気づき。
その時、自分という感覚はない。 >>863
ただ座って悟れるなら達磨大師はとてつもなく悟ってるよ >>862
いや普遍的な真理とは悟りに導くものだから
時代が変われば真理のかたちも当然変わる
原始仏教は未熟な仏教という意味で
さらなる社会への適応が必要とされる
資本主義社会で原始仏教や原始キリスト教はむしろ
人を幸せにもしないし悟りへも導かない
単に執着を断てじゃダメなんですよ
キリストが語った金持ちは天国に行くのが難しい、この言葉を修正するためにのちのキリスト教は変遷した
仏教だって所詮方便ですよ
だれかが書いてるように高次の教えは絶対にあるがままに下には伝わらない
だからそれが真理であるかは証明出来ないし、理論的にも真理であるはずわない
劣化コピーを指してオリジナルだなんていう人はいないでしょ
この世界に伝えられた時点で真理になり得ないの
それが空の本質的 変わる真理のかたちって具体的にどのようなイメージなのかなあ
そもそも何をもって真理としているのかにも依るのか。 2日間の水だけの断食を終え今朝から食べ始めたけど
結局少量じゃ済まなくなりジュースやらなんやら…
食欲を制するのに失敗してしまった
また断食をやり直さないといけないな >普遍的な真理とは悟りに導くものだから
とあるので、「導くもの」のことを言っているんでしょうかね。 おれの目には地面が平らに見えるから、地動説は間違い
っていうのが人間が頭で考える仏教理解なのよね。
四諦って真理だから、自分の主観を基準に判断したら
絶対間違える。 お金への執着をなくすと金遣いが荒くなるとかのイメージがあるのかな
貯金は勧めていたし、執着を捨てた結果、その執着していた物質を
捨てたり、あると便利なものなら得ようとしなくなるわけじゃないと思うんだけど >>871
お金への執着を捨てるには浪費することではなく施すこと(布施)をせよというのが仏陀の教え 872.金への執着、か。布施、か。
それは生活の問題である。
それは宗教の問題ではない。バカには理解できない。 『ヴェーラーマ経』には
布施するより三帰依する方が功徳がある、
三帰依するより五戒守る方がもっと功徳がある
五戒守るよりも一瞬だけでも慈悲の瞑想するほうが…って書いてあるけどな 映画マトリックスで例えるのが、わりと分かりやすいかも知れない。
マトリックスの住人が、マトリックスの住人に対して、善いことをしようと努めているのか、
マトリックスの住人を、マトリックスの外側への目覚めに誘っているのか。
その違い。 ひとくちに大乗仏教といっても、
マトリックスの外側に抜け出している(般若の智慧に達している)人、つまり真の菩薩と
マトリックスの内側しか知らないでいる人、つまり菩薩の救いを待つ人とに大別できる
のではないかと思う。
マトリックスの内側しか知らない人の仏教理解は、あくまで世俗諦であって、勝義ではない。 今世で勝義に至る秘密の最高の教え=密教があるということで、密教を教えるわけだが、
その密教で教えていることって、実は原始仏教の四諦八正道なのではないかと
個人的には思っている。
(パッケージと名称を変えて同じものを提供している。) 特に禅定波羅蜜があるかないかで、ものの見方はがらりと変わってしまうので。 本当の仏教の歴史は、過去仏から劫単位で続いているものであるはずです。
ですから、たったの2500年前のゴータマ仏陀の教えを原始仏教と呼び、
未発達な原始的仏教であったと捉える、その捉え方は、あまりに人間的と言うか
輪廻のなかで生まれ変わり、死に変わりしながら衆生済度をする大乗の菩薩様
としては、あまりに近視眼的なものの見方、解釈だと思います。 それは大乗仏教に所属してはいても、まだ信者さんであって、救われる側であって
教えて貰う側の立場であって、仏教を論じたり、ましてや他宗派を批評できる段階では
全然全く決してないという自覚を持った方がいいと思います。 >>880
実際に原始仏教であり未完成だから後に
小乗から大乗への変化が行われたんだけど?
死後数百年は圧倒的に小乗が強くて大乗は下の下だった
なぜ大乗が望まれたかというと在家だと悟れないという不満、
釈迦は解脱して悟れない人間は二度と会えない不満
これら解消したのが大乗
あなたは幸福の科学の信者だろうけど
貴方よりは長いスパンで宗教を捉えてますよ >>880
釈迦入滅後500年?は釈迦の教えを守り
小乗こそ仏教として大衆を救うのを下と見下していた
自分が向上し結果として人に良き影響を与えるもので
悟ってもないのに人を救うのは馬鹿にされてたわけ
貴方はその数百年が釈迦の真意であったと言いたいわけですね
その状況が未熟で未完成だからこそ、肉体が滅んだ釈迦が
地上に使者を送り大乗仏教を発展させたんですよ
完成されて改善の余地がなければなぜ数百年も経って仏教内宗教改革が起きたと思ってるの?
つまり大乗の台頭こそが釈迦仏教は原始仏教であり未熟なまだ進化する余地のあるものであるということの証明ですよ >>883
いくら5chだからって句読点打てない長文連投とか幼稚園児かよ? >>880
あなたは悟りでもして過去仏から劫単位で続いてるものをハッキリと実感でもしたの?
だったらいいけど、そう思うってだけなら誰かの言ったことを単にあなたが信じてるってこと、単にあなたの見方ってことだよね 三昧に入ったことがない人は、自我という妄想の中から一度も一歩も出たことがないわけだから
まだ本当には仏教は分かってない。 少し冷静に考えてみて欲しいんですよ。
仏法をねじ曲げてるのはどっちなんですか。
仏説は経典に遺ってますよ。
素直に読めば、それがそのままその通りで答えなんですけどね。 日本の形骸化した仏教は、このまま本来の仏教の価値(彼岸へ導く)を
取り戻さないと、檀家離れも止まらず、時間の問題で滅びると思いますよ。 三昧に入ればいろいろわかるけど、三昧に入ったくらいでいろいろわかったと思ってしまうのもどうなのか
解脱に相当近い三昧に入れるならいいかもしれんけど >>889
原始仏教に戻したら余計に滅びると思いますよ
釈迦は身分による差別をなくした悟りの価値尺度を提示したが
逆に出家、在家という新たな差別を生み出した
形骸化してない形に戻したら極端に仏教離れを加速させますよ
実際に信者を獲得してるのは超軟弱な大乗仏教ですよ
それらが一切そっぽを向くんですからね
修行なんて言ったらまず入らない 瞑想で強烈なエクスタシーに没入できる
呼吸が自然に減少し、ときたま自然に止まる
身体の感覚がなくなり心も全く動かなくなる
しかし周囲の出来事は知覚できる
これが初歩段階で経験できるような瞑想状態だけど本当のサマディではない
ってことらしい 諸先輩方に質問したいことがあります。
@他者の幸せを祈る、強く願うことは慈悲の瞑想といえますか?
そして、それが近親者であっても、しないよりはましでしょうか
A業の浄化が、不運や困難という形をとってやってくることは仏教的にありうるでしょうか。
そして私は不運や困難に対し、どのような精神的態度をとればよいでしょうか
B悟りを開くまでには何世もかかりそうです。
しかし、仏教的な瞑想で、他者に回向をして他者が幸せになることはあるでしょうか?
ダンマがより人々の上に調和をもたらすように、瞑想も役立たせることが出来ますか?
自分ひとりも瞑想だとつまらないので、利他行になるとしたら瞑想もより身が入るのですが・・・
邪魔でしたらスルーしてください。 >>892
だから密教という形態を取るようになっていったのだろうと思っています。 >>895
直接的な答えではありませんが、法句経と慈経を読んでみるのは如何でしょうか。
もしまだ読まれたことがないのであれば特に。
仏陀から教えてもらえるのが一番でしょう。 >>892
妻帯するようになる前の大乗仏教の僧侶が、どれだけ膨大な教学と修養を
積んでいたか考えたことがありますか。
浄土宗の念仏だって、膨大な唯識教学から生まれたものだと聞いています。
どんな職業にせよ、どんな技能にせよ、プロ級の知識とスキルを身につけよう
と思ったら、数千時間、数万時間の訓練は必要でしょう。
当たり前のことです。 大乗仏教愛好家が悪いと言っているわけじゃありません。
愛好家が、素人の知見しか持ち合わせていないのに
プロを見下しているのはおかしいと言っているだけです。 >>895
先輩かは知らないけど
1 しないよりはしたほうがいいと思うけど近親者以外に対してもするのが慈悲の瞑想じゃない?
なんで慈悲の対象を近親者とかそうでないものとか分けるのかわからないですね
2 業が何なのか自分で分からないうちにそれ聞いてもしょうがないと思うけど
業とは関係なく不運や困難を自分の主観で悪いことだと判断しないでそこから何を学べるかいい面を考えてみたらいいんじゃないでしょうか
3 悟りをひらくまでどれだけかかるかなんてわからないこと気にしないで、
自分にできることするか、仏教が好きなら釈迦が何をどう言ってたのか勉強したらいいんじゃないですか?
少なくとも瞑想で自分の心が変われば現実的にその分だけ他者にも適切によく対応できると思いますよ
利他行にならないとつまらないのだとしたら自分に分かりやすい結果を求めてるんだろうからそれはいいのか何なのか心を調べたほうがいいと思うけど >>895
@なります。むしろ自分の幸せを願うことは慈悲の瞑想じゃないです。
A言葉の問題かもしれません。業が異熟を生じれば悪業は清算されます。それを浄化と呼んでもいいかもしれない。
しかし、それよりも善業を積んで過去の悪業が結果を出さないように妨害業(ウパピーラカ・カンマ)を作ることの方がハッピーだと思います。
B餓鬼道の有情には廻向することができます。だたい七世前の父母親戚で餓鬼道に落ちなかった人はいないと思うので
廻向は無駄にはなりません。仮に受け取る相手がいなくても
「功徳の廻向」(パッティダーナ)を行うこと自体が布施(厳密には施所成の福業事(プンニャ・キリヤ・ワットゥ)なのでそれ自体功徳があります。 みなさんありがとうございます
>>897
法句経は折に触れ読んでいますが心洗われるようです
慈経は初めて眼を通しました。見えるものも見えないものもというところ、硬いなにかが
融けるようです。ありがとうございます。
>>900
ありがとうございます
結果は期待せず、何かわからない自他に善いものが生まれると思って瞑想を続けます
>>901
大変励まされました
「異熟」「妨害業(ウパピーラカ・カンマ)」「功徳の廻向(パッティダーナ)」覚えておきたい言葉です
悟っていない私でも出来ることがあるのはとてもとてもうれしいことです
全ての有情が幸せでありますように
微力でも無駄じゃないと思えばうれしいです >>901
横からなんですがすごい勉強になります、ありがとうございます
瞑想はしてるんですがこういうことはどういう本で学んだらいいでしょうか、何冊かおすすめください 強い国を作るための条件をお釈迦様が語った話を日本テーラワーダ仏教協会のHPで
結構前に見たのですが、ご存じの方がいらっしゃったら内容を教えてください。
何個かの条件が上がっていました。
そのうちの一つは話し合いで和合する。もう一つは老人や女性を大切にする。
だったと思います。 >>901の
>>@なります。むしろ自分の幸せを願うことは慈悲の瞑想じゃないです。
これは明らかな間違いです。むしろ慈悲の瞑想の出発点、ステップ1が
自己の幸せを願う事で、これが十分でなければ、他者への慈悲も成り立たないと
説かれています。
アビダンマの言葉を知っているからと言って仏教に精通している訳ではありません。
こういう輩を批判してタイのブッダダーサ長老は、論蔵を蹴っ飛ばして先に経蔵を
読めと言ったのです。 五 ソーナ長老の章
一 王
このように私は聞いた。
あるとき、世尊はサーヴァッティ市外のジェータの林のアナータピンーディカ長者の園にお
られた。
さてそのとき、コーサラ国王パセーナディはマッリカー妃とともに王宮のテラスに登って
いた。コーサラ国王パセーナディはマッリカー妃に言った。
「マッリカーよ、そなたには自分より可愛いものが何か他にあるか」
「大王さま、私には自分より可愛いものは他に何もございません。それでは大王さまはいか
がでございますか』
「マッリカーよ、私にも自分より可愛いものは他に何もない」
そこでコーサラ国王パセーナディはテラスから下りて世尊のもとへ行き、世尊に敬礼して
かたわらに坐った。かたわらに坐ったコーサラ国王パセーナディは世尊に申し上げた。
「師よ、私は今マッリカー妃と王宮のテラスに登り、マッリカー妃に『マッリカーよ、そな
たには自分より可愛いものが何か他にあるか』と言いました。こう言うとマッリカー妃は、
『大王さま、私には自分より可愛いものは他に何もございません。それでは大王さまはいか
がでございますか』と私に言いました。師よ、こう言われて私はマッリカー妃に答えたので
す。『マッリカーよ、私にも自分より可愛いものは他に何もない』と」
ときに、世尊はそのことを知って、そのときこのウダーナを唱えられた。
心して至るところを遍歴したが、どこにも自分より可愛いものには出会わなかった。こ
の自分が可愛いということは他の人々にとってもそれぞれ同様である。だから、自分を
愛するものは他を傷つけてはならない、と。〔ウダーナ〕 自己愛を後にして神への愛を第一に持って来た、キリスト教国が世界に対して為した事を
見れば答えは明らかでしょう。
自己愛を先にしなければ慈悲心は成り立たないのです。
慈悲の瞑想の第1は自分の幸せを願う事からです。お間違え無く。
三連投ごめん。 そうなんだよね
自他の区別なく生きとし生けるもの全てに慈悲の念を持つのが慈悲の瞑想でその第一は慈悲を自分に対して向ける
この自分に対してというのは自他の区別をしない中でのひとつの存在(自分)
それから身内という意味では自分が好きな異性には最初はしないほうがいいとかも言われる
というのも好きな異性に対して思いを念ずると慈悲じゃなく愛欲がわいちゃうからね
でもそこらへんは全てのものに対して同じように念じられるように注意していけばまあいいかなと思うんだ
自分が慈悲を思いたい対象以外の対象(身近でないもの、自分が嫌ってしまってるもの)にも慈悲を念ずるし
自分へも他人へもその他の全てへも、全てに慈悲の念を持つのが慈悲の瞑想だよね
分別せず全てに慈悲の念を持つのが慈悲であり無分別なのに自他を分けて自分の幸せを願わないってのはおかしいよね >>906
慈悲の瞑想、慈経は、他の生命への慈愛、利他的なもので(中村元解説)。
自己愛という利己的な我執の自己になれということではないですよ。
907の引用は、他者への加害の禁止に転位させる善導の次第説法なんです。
仏教は自利だけを説いてません。
仏教は、自己愛性人格障害を生み出すものではないです。
>>909
自己こそ自分の主である、他人がどうして自分の主であろうか
(ダンマパダ160)
貴方の後世の哲学化理解だと、善法と不善法、解脱、悟りに役立つ教えと、
そうでないもの、また利益となる教えと有害となる教えを
ブッダは正邪真偽を実際に※分別していたのに、
自利と利他、道徳の説法も無分別では説けないでしょ。
無分別という精神的見解を持つ自我は、智慧なく択法覚支では説けない。
まぁ自利利他の教えなんだけど、自己を第一に渇愛で慈しみなさいなんてフレーズは
ないね。我執の克服、渇愛の克服、それが自己救済に繋がるわけで、
もちろん自己放棄、自己否定ということでもない。 >>910
誰も自己を渇愛で慈しみなさいなんて言ってないよ
自己であろうと他であろうと慈悲の瞑想において渇愛でなんて慈しまないでしょ
それから慈悲の瞑想は道徳がどうのという話じゃないと思うけど
慈悲の瞑を行ったとき一体誰が(自分の何が)一体何に対して慈悲の念を生じさせているのか考えたほうがいいと思うけどな
そもそもいまテーラワーダで行われている慈悲の瞑想は最初に自分の幸せ、自分の苦や悩みが無くなることを念じるでしょ >>911
テラワダの慈悲瞑の自分の幸せとかの部分は、原典の慈経にない後から作られた
ものです。修行メソッドですから、隨念効果もあり、それはそれでいいでしょう
けど。考えたほうがいいという観念ではなく、自発的なもので、
長部ソーナダンダ経
「智慧は道徳で清らかになる。道徳は智慧で清らかになる。 道徳から智慧が現れる。
智慧から道徳が現れる。 道徳と智慧はこの世でもっとも優れたものです。」
あれ、テラワダ教って智慧が現れるように修行しないの?
某長老さんは、智慧のある人は、慈しみがあると説いてますよね。 >>912
あなたの慈経の解釈がそういうものならあなたにとっての慈経はそれでもいいけど、
ただ慈経に自分の幸せを願うなみたいなことも書いてはないでしょ
道徳に関して道徳は無分別で説けないとあなたがいうからあなたのいう道徳が分別ある世俗的な道徳の意味だと思って言ったのです
そこで書かれているソーナダンダ経の道徳とはそういう分別あっての道徳ではなく分別をなくしていく道徳ではないですか?
智慧という言葉を使うならそれこそ無分別の立場からあらわれてくることでしょう
自分や他の様々を分別して智慧が現われますか?
慈悲の瞑想で自分の心身から苦や悩みがなくなることを思って何がわるいのかわからない
自分からも他人からも全てのものから苦がなくなればそれでいいと思いますが >>913
中部9正見経の十不善と三不善根の善法と不善法、
解脱に役立つ教えとそうでないもの、また利益となる教えと有害となる教え
正邪真偽を実際に分別(択法覚支)、分別主義とも言われてました。
>無分別の立場
貴方が、無分別という精神的見解に束縛されているので無分別を
一生懸命、正当化されるのでしょう。
そういう束縛からの解脱を説くのがブッダですよ。
原始仏典にも、無分別とは説かれてません。
ええと、修行上では無思考になることございますでしょう。
智慧の完成者が自己と他人を区別して、道徳、慈悲を実際説いております。
貴方のように無分別に束縛支配されず、思考を道具として
使えているわけです。 横から
>>914
無分別は不戯論のことだよ。
ニッパパンチャ。 >>914
慈経の全ての生きとし生けるものが幸せであるようにという生きとし生けるものに自分が含まれない意味がわからないのですが
あなたにとっては含まれないという解釈なのでしょうしそれはそれでいいです >>915
いや、私も学者先生と同じく徹底的に調べたら仏典上に無分別は説かれてなく、
修行論の説明で無分別を便宜上使っているだけなんです。 >>916
Sn.150「全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)」
Sn.149「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、
そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の
慈しみの意を起すべし。」
Sn.148「他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いを
いだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。」
すべて、〜に対して、ですよ、自己に対してとは説かれてません。
他人とも使ってますよね。 >>918
結局のところあなたは自己をあくまで瞑想する自分(主体)と捉え、私は自分の心身を他人と同じ瞑想の対象と捉えているのです
私から見れば自分は母でもあり私の心身はその私の子供であるし生きとし生けるものに当然自分が入るのです
だから慈経の解釈も変わります
あなたはそういう見方をしてないとわかりましたのでそれでいいです どちらも、相手が言ってもいない極論を相手に反論しているだけに見えて、実に滑稽。
>マッリカー夫妻への、自衛愛から他衛 >自他分別なき、大海の如き慈悲
前者は、確かに自分を優先させているけれども、
それは、他を蔑ろにして、或いは無視して、
或いは常に・必ず、自分よりも後とする・自分の利よりも下位グレードとして扱う、
ということではなくて、
他者の利益を(不害を)確かなものにし、やがてそれが、自身の最上の善なる行為となさしめるために、
気付きをうながしているだけでしょ。
決して自己中心的な思想が説かれているわけではないでしょ。
なぜ、他をがいしてはいけないのか?という理由付けとして、これほど説得力があり、
むしろ、現代社会に於いて、大層希薄となってきている
「相手の立場となること」「他者の気持ちを想うこと」そうした想像力を生じせしめるのに、
「わかりやすい」んじゃないかね・・・。
(まあ、子どもの虐待なんてのは、昔からもあったことだろうけれど、
最近のは、ほんとうに想像力の欠如に起因するんだろうな、とも思うわけで・・。
また後者は、
区別しなくていい、吟味しなくていい、無条件の平等でいい、条件・環境・状況を無視していい、
或いは、たとえ他者の不害のためであっても、まず自衛を掲げることを忌避し、嫌悪し、
更に極端に自己を犠牲にしてこそ徹底的に自己の利益を避け・寧ろ自ら不幸になることによって、慈悲の本質とする、
ということでもないでしょう?
(どっかのすれでの行き過ぎたボランティア理解と重なる話だけれど、
自分を優先して犠牲に資、不幸にしてたら、それはそれで、逆の位相で、平等無分別に外れるしw)
分別してたら、それが、扱いの相違になり、やがて単なる区別を通り越して差別と化していくから、
そうならないよう、わけ隔てない視線の投げかけが、仏法の(慈悲の)本質だということを言いたいだけでしょう。 >>919
実は貴方の言いたいことは分かりますよ。
すべては一体、全体の部分であって、部分は全体に含まれ、同質性という
=ヘーゲル哲学、梵我一如的
禅宗の悟り話的で、もう あるあるな話でしょ。
中村元の解説では、我執の克服で、こだわりがなくなり開かれた自己によって、
※他者と素通しになり、慈愛という美質が湧くものとあるけど。
まぁ自他区別ない同質性でもいいけど、ヒンドゥー的、大乗的でいいのでは。 >>904
藤本晃「仏教の正しい先祖供養 功徳はなぜ廻向できるの?」
水野弘元(監修)、戸田忠、ウ・ウエープッラ(訳注)
「アビダンマッタサンガハ―南方仏教哲学教義概説」
http://www.kotobuki-p.co.jp/nakayama/index5-2.htm#012
ですかね。前者は電子書籍しかなく、後者はアマゾンではなく出版社のHPに在庫があると思います
後者の副読本として
藤本晃「『アビダンマッタサンガハ』を読む」
をオススメします(こっちも電子書籍しかない)
あとは
バッダンタ・ニャーヌッタラ「テーラワーダ仏教が伝える慈経」
http://www.kotobuki-p.co.jp/nakayama/ryosyo_01.html#jikyou てゆうか無我が分かってないから自利だ他利だって議論になるんでしょ。
無我なら「生きとし生けるものが幸せでありますように」で何の問題も無い。
まず渇愛を無くして、無我にならないと。 >>922
おおーありがとうございます、ちょっとしらべてみますね
アビダンマ難しそうで放置してたんですがちょうどいい機会ですので勉強してみようとおもいます >>923
自利利他は、堂々と仏典上の仏陀の教えにありますけど、
無我に囚われてばかりで読んでませんでしょうか。
自己放棄でも否定でもなく、虚無化でも、極論化でもなく、
無我で実現する自己を仏典上で認めてますし。
某スマ長老は、出家者でない人に、堂々と皆と議論して下さいと
説いていますけど、さてその真意は何でしょう。
慈悲でもって根拠をもとに教え諭すのが、プロなのでしょうけどね。 >>925
自利利他と慈悲は別の話でしょう。
無我ならば、慈悲行において何の矛盾も、
問題も生じないのは確かではありませんか?
慈悲の中に自利利他を持ち込む必要は無いでしょう。
もったいぶらないで下さい。言いたいことがあるならどうぞ。
真意は何ですか? >>925
ちなみに、無我で実現する自己とは何ですか? 世間の基準と出世間の基準を、一つにまとめようとするから、おかしくなる >>ALL
世間の真理はこう、出世間の真理はこう、のダブルスタンダードでいいじゃん。
そうであることこそが、
一神教のような、ワン・スタンダードによる歪さかを回避できてる仏教らしさだと思うんだけどね・・。
マッリカーへの教えのどこがおかしいのか?
自他の分別を本当になくしてしまったら、日常のあらゆる事柄が崩壊する。
ブッダは、そのような、人々の社会の崩壊を説いたのか?違うだろ?
無分別は、あくまでも仏の視線、仏の価値観であって、
それで日常の様々な事象を処理していけると考えているとしたら、
よっぽどの世間知らずとしか言いようがない。 仏道実践は道、つまり過程なので、実践の段階によって体験内容は
違いますし、理解の仕方も違ってきます。
例えば、禅定に達していない段階での慈悲の瞑想は、どうしたって
常に自我意識があるはずです。
欲界善心ではない色界浄心の慈悲心が生じるのは、五蓋が滅して
禅定に達している時だけのはず。
自我の思考が生みだす欲界善心と、それらが一切無いところに生じる
色界善心は、まるで別物です。 仏教理解は、仏道実践者の立場によっても変わってくるはずです。
例えば、人生苦に打ちのめされた自殺寸前の奴隷と、
一国の王子に生まれついた菩薩が、同じ法門に出会っても
関わり方は全然違ってくるのではないかと思います。
出発点からすでに違うのです。 平等というのは、金太郎飴のような均一な理解ということではないはずです。 >>928
無我を悟ったからといって、自他の分別は無くなりませんよ。
無分別、つまり認識作用が止滅すれば無明が無くなるだけで、
日常生活はそのまま、業のまま、ただの人間のままですよ。 >>926
利他行の説く内容と、慈悲行の説くとこは関係している
ことが分かりますよ。学者と某長老の解説も同じです。
中部61と合わせ、利他が伴う行いを最高と推奨して説かれてます。
我有りの利己的な我執の克服の行いに繋がるからでしょう。
>>927
著名な学者や僧の専門書を読めば記述されてます。
もうあれこれ書くと、今度は貴方が抱く仏教で論戦するわけでしょ。
自分は苦悩が減少し、以前より生きやすくなれ、周りから好かれるようになり
仏教には感謝してます。どうぞ貴方も仏道で幸あれ。 >>929
禅定ではなく、智慧で自我を滅ぼした人の、
慈悲の瞑想はどうなりますか? >>933
それを言えば仏説は全て関係していますよ。
ただ、慈悲は慈悲、利他は利他で考えるべきだと思いますが。
慈悲、利他について説くあなたが、なぜ説明をしてくれないんですか。
経典、書物よりも行だと思いますがね。 仏教(上座部)も経典至上主義になりやすいからね。
初心の人は、とかく経典に文言に忠実になるし、
瞑想なり修行が進んだ人は、経典から離れて体験も交えるし、
そうした人が意見交換したって、白熱した並行線になるだけだよ。
お互いが違う所から意見を言っているんでね。 学問ばかりして、内容を理解せず、
お釈迦様に叱られた比丘がいましたよね?あれ誰でしたっけ? でもね、最初は経典に忠実に学習して
言葉とか定義とかをしっかりと勉強するのがいいね。
経典をほとんど読んでない比丘もいるしw
上座部ならパーリくらいは全部目を通して中身も憶えるくらいがいいよ。
これを土台にしながら瞑想や修行を続けて、
文言の世界とは違う実相に触れて、観念を超越して、
自我を見切って、主体の無いことを知見することだね。 >>938
でもどうでしょう。
お釈迦様は対機説法でたくさんの人に法を説きましたよね。
一個人に必要な説法は少しでいいと思うんです。
全部読んじゃうとかえって分からなくなりそうです。
比丘になるなら全部読んだ方がいいでしょうが。 >>936
オウムのように体験至上主義の罠にハマってもどうかと思うね。
三昧も実相どうの一時的なもので悦に浸っても、過ぎ去るわけで、
仏典と同化することなく、体験と同化して自我強化することなく、
手放してればいいでしょうけど。
以下、アーチャンチャー「手放す生き方−気づきの瞑想実践」より抜粋
・サマタによる心の平安は、私たちの最終目標ではない。
ブッダは、自身がサマタによる心の平安に執着しなくなるまで、
存在の真実を探求し続けた。サマタは修行の途上の一段階にすぎない。
・ブッダは、智慧を通じた解脱とサマタを通じた解脱の2つを説いた。
教えはシンプルで、ただ物事を手放すこと、物事をあるがままにしておく
ことだから、多くの努力やサマーディ(定)を必要とすることなく、
彼らはとても自然な形で手放すことの実践を始めることになる。
このシンプルな実践は、最終的に彼らを我(アッタ―)を超えた、もはや
手放すものも、つかむものもない場所へと導くことができる。
一方、サマタを通じた解脱を目指す人は、その経歴次第でより
多くのサマーディを必要とすることになる。彼らはとても厳格な方法で、
長い期間坐る瞑想をしなければならない。 >>936
だからw そう言ってるだろ。
それをわかってない二人が言い争ってるんじゃないのかい? >>941
七清浄
1. 戒清浄
2. 心清浄
3. 見清浄
4. 度疑清浄
5. 道非道智見清浄
6. 行道智見清浄
7. 智見清浄
1は戒律、2は禅定(サマタ瞑想)、3-7はヴィパッサナー瞑想と関係している。
在家でもできないことはないようだが。あくまで出家向きではあると思う。 >>942
>無分別は、あくまでも仏の視線、仏の価値観であって、
あー、禅宗のバイアスがあるんだ。
そういうものを価値観として重んじるなと仏典にあるけど。
>無分別、つまり認識作用が止滅すれば無明が無くなるだけで、
そして、お決まりのように、これ一点もってくる、毎度おなじみ
のあるあるパターン、いえ、そこだけが焦点でないでしょ。
あのー、無分別研究している学者先生がいて、
なぜ無分別の一点を重んじるのか、そのルーツが分かったんですよ。
無念無想、不思不観、無分別、不二へと陥った原因が解明された。
でもね、そこに固執している方と論争になるので、書きません。 オウムは帰依の対象が仏陀じゃないから仏教ではないので、比較対象としてどうなのかね。 >>945
学者の研究はいいですから、
無分別になってみてから言ってください。
たしかに無明が無くなります。 八正道
1. 正見
2. 正思惟
3. 正語
4. 正業
5. 正命
6. 正精進
7. 正念
8. 正定 ←サンマーサマーディ(九次第定)
サマタできる人は、出家でも何割か程度らしい。
なので、それ以外の人に向けたメソッドも開発されてきたということでしょう。
でも、仏陀が出家した高弟たちに教えた方法は経典の通り。 三学
1. 戒
2. 定 ←サマーディ
3. 慧
仏陀が教えた修行法はサマタ、ヴィパッサナー双修であって、
ヴィパッサナーオンリーのサマタ否定ではないはず。
ただ、一生掛けてもサマタが成功せずに挫折してしまうよりは、
続けられるメソッドで続けた方がいいのかもね、という理解。 修行寺の出家って、毎日朝から晩まで10時間くらい座禅ばっかりやる生活なんですよ。
それを何年もやる。
それでもサマタが成功して(禅定に入って)、禅定の定力を支えとしたヴィパッサナーを
修行していける人は、全体の3割程度らしい。 サマタ否定しようとしても、そもそも戒律がすでにサマタの始まりだと思うのよね。
個人的には。
サマタ否定の本当の意図を、その前後の文脈や背景と共によく検証してみると、事情が見えてくるんじゃなかろうか。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。