【壊れた】生命教【スピーカー】
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生命教は、人類、いや、すべての生物の発生以来の唯一の
普遍の宗教だ。その意味で、もはや「宗教」とは言えない。
釈迦もイエスも、その他のいかなる宗教者も、「生きた」と
言う点で生命教の信者だ。「生きなければ」、彼らの誰も
存在しなかったのである。 ちなみにキリストの教えでは>>57の解は後者になりまつ
fin〜 >>36
>.にも関わらず教皇はそれらの蛮行を包括的に懺悔した
馬鹿か。元凶であるイエスを主と仰ぎ続ける限り、懺悔にはならない。 隠居の十字架・・・我が子が川で溺れているのに見殺しに。 隠居さんのまとめページでしたね、すみませんm(_ _)m 隠居よ、きみが我が子を見殺したことは既にばれた。
そして君は既に裁かれてる。イエスを神と信じれられないという罰を
いま君は受けているのだ そのマザーの言葉ほど、無礼な言葉はない。今でも忘れられない。
招待された他国で、「あなた方は心が貧しい」とは何事か。
己の宗教エゴ故に、「イエスの苦しみを味あわせるために」、
極貧の中で死にゆく人々に、医療も薬剤も与えなかった
己の「心の貧しさ」はどうなのか。己の病気の時は、最新医療で
治療を受けた己の心の貧しさはどうなのか。己は、数十億円の
預金をしていたという心の貧しさはどうなのか。
いかにもクリスチャンらしい上から目線の思い上がりと冷酷
さである。「ふざけるな」と言いたい。 先の大戦の敗因を一言で云えば、「日本人が、イエスやパウロの思想の
真の恐ろしさ」を理解できなかったからだと思う。彼らの目的は、「世界
征服(神の国化)」以外にはないのだから。かの現実感覚あふれるローマ
大帝国さえ、キリスト教によって滅びた。 イエスに隣人愛などない。イエスは、最も近い隣人である
家族や仲間のユダヤ教徒も愛せなかった。「俺を信じる
ためには、親も子も棄てよ」。彼のユダヤ教徒に対する底
知れぬ憎悪を見よ。
隣人愛も、例によって旧約の猿真似。旧約は、隣人に「同胞」
という重要な制限を設けた。愛とは、生存共同体における
最も身近なものから始まるという創造の原理を知っていた
からである。己自身が創造主に成るという狂気の野望を
抱いたイエスは、「神になった積りで」軽薄にもこの制限を
取り除いてしまった。その結果、創造主が与えた隣人愛が
破壊され、人類の大殺戮という現象が生じたのである。
イエスは、創造主が与えた隣人愛の破壊者だったのである。
彼の言う隣人愛とは、すべて己のこの肥大し切ったエゴの
産物であることが、明らかではないか。イエスにとっては、
人に仕えることも、「己が一番になる」というエゴの産物だった
のである。 「科学」としての聖書学の進歩により、キリスト教は遠からず
消滅する。既に。復活はペトロの幻覚で、事実ではないとし、
神概念は大昔の人間の妄想で、現代では「生命」が相当する
という学者も複数いる。 隠居に隣人愛などない。隠居は、最も近い隣人である家族や我が子もも愛せなかった。
「俺は医学を学んでいる。もしもの時は俺が救ってやる」。
彼のイエスに対する底知れぬ憎悪を見よ。
医学も、例によって猿真似レベル。医学は、隣人を救う仁術。
しかし隠居は医学を学ぶ身で我が子を見捨てた。
愛とは、生存共同体における最も身近なものから始まるという
創造の原理を知っていても、溺れる我が子より、恐怖が勝ったのだ
己自身が医者に成るという素っ頓狂な野望を抱いた隠居イエスは、
「医者になった積りで」軽薄にも誰を救えると豪語していたが
実際は我が子を見殺しにするという「子殺し」の現象が生じたのである。
隠居は、創造主が与えた隣人愛の破壊者だったのである。
隠居の言う隣人愛とは、すべて己のこの肥大し切ったエゴの
産物であることが、明らかではないか。隠居にとっては、
人に仕えることも、「己が一番になる」というエゴの産物だった
のである。隠居は我が子も救えないエゴの化け物なのだ。 神だのイエスだの愛だの、余計なことを「考える」からいけない。
創造主は、人間の肉体を作り、それに生命(聖霊)という己のすべてを
吹き込んだ。生命は、肉体の隅々にまで存在するのだから、肉体そのもの
が聖霊だ。肉体から発する生命の指示に従い、懸命に生きる。これが創造
(神)を生きる唯一の道。創造主は人間を、人間の感情と理性を以て、
自立的に生きることが出来るように創った。「考える」ことは、生きること
ではなく、もはや死んでいることである。それはそのまま、創造の冒涜で
あることを知らねばならない。
肉をしきりに否定するイエスは、創造主(神)を知らなかったのである。 生命教は、40億年前の生物の発生以来の、すべての生物
にとっての唯一の普遍の宗教。生物であるイエスもその
信者。生命の指示に従い、食い、かつ飲んだ。夕食にも、
ワインは欠かさなかった。「肉」を否定するイエスも、たっぷり
肉のついたデブであったw。 「キリスト神話は、罪の自覚とそれにもかかわらず赦されて在る人間
という洞察を象徴しつつ、同時にまたキリスト信仰を救済の条件と
するエゴイズムをも内包している。それは「キリスト神話」成立時点で
すでにそのようなものであり、今日においてもなおそうであり続けて
いる。これらはすべて表象を絶対化し、その絶対化された表象に
固着化する自分を正当化しよとするエゴイズム(=我執)である。
人間のエゴイズムを克服するために生まれたはずの宗教、いのちを
生かすためにあるはずの宗教は、それ自体が宗教エゴと化して、
いのちを殺すようになった」(「宗教の倒錯」上村静著、岩波書店)。 >「自分を正当化しよとするエゴイズム(=我執)」
ところで隠居さんや村上さんはこのエゴイズムから解脱できているのかね。
「まあ、そのう」といって頭をかくわけでしょ。 イエスの言葉は、旧約の言葉の猿真似に幼稚浅薄な精神性を付け加えただけで、
内容は全くなく、しかも論理矛盾と裁きによる脅迫に溢れている。
彼の病気の症状としての知能低下と極端に肥大したエゴの結果である。彼の言葉の
意味内容は、洗脳された信者があれこれとでっち上げたもの。どんな狂人の言葉であっても、意味のでっち上げは可能である。
イエスの関心はただ一つ。己が旧約の神になること。そのため、創造主の創造に
よるあるがままのすべての人間を憎悪したのである。すべての人間の死を求めて
いるのは、それが理由。 一神教だから、神は一つ。ヤハウェのみ。アラーも当然、ヤハウェである。
ナザレ村のイエスは、ヤハウェを冒涜して処刑された犯罪者だから、
神であることなどはできない。
旧約の「主」とは、ヤハウェのこと。イエスではない。クリスチャンは、
イエスについて、旧約の「主」を使ってはならない。
すべての人間が、神の似姿、神の子なら、人間イエスもその一人
とlして当然含まれる。
以上が、一神教における神理論。罪人イエスだけが余計なのである。 キリスト教だけは、神の冒涜者の狂人イエスを、こともあろうに創造主
の地位まで祭り上げるという冒涜の行為を犯したため、神の怒りに触れ、
すべてのクリスチャンが狂乱状態に陥ったのである。これほどの冒涜
を犯した一神教は、他にはない。
イスラムテロも、すべて、キリスト教の過去の蛮行に対する報復なの
である。すべては、イエスの「生命(肉体)を忘れた精神性という狂気」
が原因である。 統合失調症の最大の症状は妄想。イエスの「俺は神の独り子」という
巨大妄想の症状だけで、イエスは教科書的な統合失調症。
キリスト教とは、イエスの狂気の集団的一大感染という、精神医学的
現象以外の何物でもない。
イエスの言動を一つ一つ批判的に観察すれば、その幼稚浅薄な内容
空虚と論理矛盾と創造(あるがままのすべての人間)に対する果てしない
憎悪から、この病気の症状としての知能低下および疎通性の欠如(冷酷
さ)は、一見してあきらかである。
「復活」も「贖罪」も、イエスを神に祭り上げるための「聖書の嘘」である。 そんなことは毛頭ない。イエスはユダに向かって、「お前は生まれてこない
ほうがよかった」と言ったのだぞ。聖書を、初めから有難がらないで、聊かでも
知性的に(批判的に)読め。
「謙遜」という言葉も、イエスの辞書にはない。イエスにとっては、人に仕える
ことも、「己が一番」になるというエゴの目的のためだった。
その統合失調症の症状としての、イエスのエゴの極限までの肥大に目を背けるな。 「死」とは、「全脳の機能の喪失」だから、死後はいかなら思考も感情も
生じない。
クリスチャンは、イエスが十字架によって自分たちの罪を償ってくれた
などと、寝言のように言っているが、イエスはそんな重要なことを、生前に
聖書のどこで言っているか。贖罪は、パウロの発明に過ぎない。「贖う」の
原義は、身代金を支払って奴隷を買い戻すことである。イエスが「贖う」と
言ったとすれば、それは奴隷を買い戻して、己の奴隷にするという意味に
過ぎない。イエスが人間を罪人呼ばわりしたとしたら、それはイエス自身の
罪である。 適齢期の男性が女性に、女性が男性に近づくのは、創造主が
人間に与えた恩寵だぞ。近づいて、何が悪い?君は、神を
冒涜していることになる。
聖職者に痴漢行為が特に多いのは、彼らが、イエスによって
奪われた神を取り戻そうとする本能的な努力なのだ。 イエスは、群衆が社会秩序の維持のために石打ちしようとしていた
娼婦を、「罪のない者だけは、石を投げよ」と群衆に罪悪感を
植え付けて助けた。しかし、イエスは、すべての犯罪者を、
同様に助けたのか。その場合、社会秩序の維持はどうする
積りだったのか。イエスが娼婦の性的魅力故に助けたのなら、
彼は「心の中で姦淫の罪を犯した」ことになる。群衆に罪悪感を
植え付けたイエスの行為は、罪ではないのか。
イエスも女に石を投げなかったばかりか、女と仲良くなってしまった。
イエスも「罪ある者」だったのである。 セクハラは批判するが、キリスト教による数十億人の人間の大殺戮は
批判できない、狂人クリスチャン。
キリスト教による人間の大殺戮は、専ら、己が創造主の座を簒奪した
かったイエスの、創造(あるがままのすべての人間)に対する限りない
憎悪による。少なくとも、岩波キリスト教辞典の「宗教戦争」の項目で、
キリスト教による人間の大殺戮の歴史を一覧せよ。
創価がそんない嫌なら、キリスト教も「生命の尊厳」の教義を掲げて、
創価に対抗して見よ。それが絶対にできないのが、殺人鬼イエスを
神と仰ぐキリスト教だ。 隠居さんは掛け軸の民(創価学会員)ではないかと囁かれていますが。 思い返すと
どこに向かって走ってもそこにはイエズスの影があった。
隠居さんはその度に舌打ちしてツバを吐いてきたんだ。
そろそろ今生にケリをつけなければいけませんわな。
旧約の神とマリア様に取り入っておけばなんとかなりますかね。
恐ろしい掛けですよ。苦笑。 ハァイ♪
さいきん悟りを開いちゃいました!(笑)
ブログやってます。
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/
お気軽にコメントくださいねー。(´艸`*) イエスの処刑は、弟子たちにとっては、単に「イエスは死んだ」だけで。
恥ずべきことに過ぎなかった(佐藤研)。復活は、ペテロの幻覚であり、
事実ではない(上村静)。イエスの処刑は、ローマの記録にもあるが、
復活という「大事件」については、一切ない。復活も、「聖書の嘘」で
あることは明らか。
パウロの伝記に付いては、大昔に読んだだけなので、記憶は乏しいが、
パウロが容貌怪奇な小男で、特に目が悪く、宣教の同行者とはすべて
喧嘩別れしたことだけは覚えている。 狂人イエスを首にして、人間の持つ神性、即ち生命(聖霊)、又は
ユダヤ教へ回帰する以外には方法はなかろう。
そのような提案も、キリスト教内部で既になされているようだ。教皇
レベルでは、理解していることだろう。
イエスの狂気が、イスラム教、共産主義、ナチスという、人類の巨悪を
生み出したという事実だけでも、恐ろしいことだ。 例えば、イエスの「隣人愛」という言葉を考えて下さい。ユダヤ教は、隣人に
「同胞」という枠をはめていた。愛とは、生存共同体における最も近い者に
対してから始まるという、創造の意味を知っていたからです。イエスは、最も
近しい隣人であるはずの、己の家族やユダヤ教徒を限りなく憎悪した。
イエスが、隣人愛とは何かを知らなかったからです。
愛とは、「顔の見える相手」に対してから始まる、その生存を守るための
「行動」です。顔も見えない相手に対する「空想の感情」ではありません。
孟子に出てくる話だが、ある中国の王が、屠所に引かれて行く牛を見て
哀れになり、部下に、「羊に代えよ」と命じました。王は、羊を見たことが
なかったのです。これが隣人愛の真髄です。 ここは人間界だから、空想上の架空の神の愛など不要・有害。神の愛が人間の愛を
破壊しているのが、キリスト教による人間の大殺戮という実状。
神の愛は、人間には計り知れないもの。人間が神になった積りで、神を解釈し、語る
ことが原罪である。キリスト教は、この原罪を犯したため、神の怒りに触れ、果てしない
殺し合いを続けているのである。 まだ神など口走っているのですか。神は、人間が科学について無知蒙昧だった
時代の古代人の妄想。妄想だから、どこにも実在しません。空想の存在です。
人間の魂には、人間としての秩序があります。人間に非ざる神の愛は、人間の
愛を破壊します。キリスト教による人間の大殺戮を忘れているのではないですか。
聖路加病院が、神や聖書で治療していますか。すべて、人間による最新の治療です。
あなたの教会は、一体何を教えているのですか。教会は、聖職者の生計のための
営利なのですから、教会など一切信じてはないません。 イエスは、人間がまだ無知蒙昧だった2000年前の「癒し主」「救い主」。
科学が宗教のいかなる奇跡も及ばない驚異的な発達を遂げた現代では、
イエスの癒しも救いももはや通用しません。現代において人を癒し、救う
ことが出来るのは、科学だけです。
イエスの神霊による病気治し自体が、現代でも医学の父と呼ばれるギリシャの
ヒポクラテスが、イエスより数百年前に批判していた代物です。イエスは当時でも、
ヒポクラテスのことも知らなかった偽医者なのです。聖書のイエスの病気治しは、
すべt嘘です。ラザロの腐乱死体が生き帰るなど、現代人の常識で考えただけで
嘘であることが明らかでしょう。イエスが治した(自然治癒力で治った)患者よりも、
殺した患者のほうがはるかに多かったのが事実です。しかし聖書は、そのことは
書きません。聖書は、キリスト教の宣伝広告文書に過ぎないからです。
あなたのご主人は医師のようだが、ご主人が宗教で病気を治していますか。すべて
最新医学によっているはずです。 イエスやクリスチャンは、未だ、ユダヤ教徒だ。大昔のクリスチャンたちは、
創造主以外の神を信じることに対する「孫子の代までの裁き」に恐怖する余り、
三位一体という屁理屈をでっち上げだのだぞ。ナザレ村の大工の子倅を、
こともあろうに創造主の地位にまで祭り上げようと企てるクリスチャンたちは、
「孫子の代までの裁き」を恐れないのか。 皆、神を己の外に求めようとするから、このような狂乱状態と争いが生じる。
すべての人間は、その創造時に、創造主の息吹を生命(聖霊)として受けている。
創造主は、己のすべてを生命(聖霊)として人間に与えることにより、創造を
完成した。創造の大役を果たした後は、創造主はもはや存在する理由はない。
人間は、生命という己の聖霊を己の教祖として、その指示に従いひたむきに
生きればよいだけのこと。他己である他者の生命(聖霊)を崇めるのは、当然
のこと。己自身の生命(聖霊)を己の教祖として、人間としてひたむきに生きること。
それがまさに創造主の意図であるかとは、明らかであろう。 キリスト教という、あるがままの人間に対する憎悪と呪いに満ちた異常な宗教が、
何故発生したのか。「はじまりのキリスト教」(佐藤研著、岩波書店)を読めば、
ある程度、理解できる。
ユダヤ教の「血に対する絶対的なタブー」を、「イエスの血を飲み、肉を食らう」
ことによって破壊したのが、原因の一つだね。
同書によれば、バートランド・ラッセルは、「なぜ私はキリスト教徒ではないか」
というエッセーの中で、聖書の「枯らされる無花果の木」の話に触れ、イエスの
理不尽な身勝手さを強く批判し、「聡明さの点でも、徳の点でも、歴史に知られて
いる他の人々ほど高くキリストがあったと思う気は私にはしない」と言っている。 かの人の蘇生は、かの人を棄てた弟子の罪悪感にもどづく幻覚。事実ではなく、
信者獲得のための聖書の嘘。これが、聖書学者の結論。
完全に死んだ人間が生き返ることはない。ピラトも死を確認し、改めて槍で
十分に突かせている。
万一、完全に死んではいなかったとしても、大怪我はしているはず。復活後の
第一声が、「腹減った。何か食う物ないか」とは、一体、何の冗談だ。
科学について無知蒙昧だった古代人の妄想ではなく、現代人の知識レベルで
考えよう。 科学について無知蒙昧だった古代人の妄想に過ぎない神概念から
いい加減で卒業しよう。神概念は、厳しい自然と闘いながらひたむきに
生存努力を続ける古代人たちが、生存を助け、または妨げる自然現象を
引き起こす不可知な力を、便宜上、神々と呼び、感謝し、又は憎悪した
のである。科学のいかなる宗教の奇跡も及ばない驚異的な発達により、
自然現象の原因が解明された現代では、神々は消滅したのである。
創唱宗教における神は、すべて、開祖の精神病の症状としての妄想。
本来の宗教の生存との関係を断ち切ってしまっている。現代人が信じる
ものではなない。時代錯誤は、現代人の罪である。 クリスチャンは、ナザレ村大工の子倅で、まともな教育も人生経験も無い、
気の狂った若者イエスに洗脳されてしまっている。これ以上、恐ろしい
洗脳はない。ヤハウェには、少なくとも、イエスのような精神病理は
見当たらない。クリスチャンが、史上そして現代でも、もっとも多くの
人間を、もっとも残酷な方法で殺し、殺し続けているのは、イエスの
この狂気による。 イエスには、哲学など皆無。その頭脳もなかった。イエスに在ったのは、他者を排除して、
己が神になるという狂気の野望だけ。存在論も生命論も皆無。イエスから人間が得られる
のは、現実否定、生命否定の、幼稚な精神論という、独りよがりの狂気のみ。
イエスには、「わたし」「わたし」と、「わたし」が多過ぎるとは思わんか。
その心の病ゆえに、極限までに肥大したイエスのエゴが、すべての他者を排除
している姿だ。
「最も小さな者にしたことは、わたしにしたこと」。イエスが言いたいのは、
己が「最も大きな者」であることが、見え見えではないか。
イエスに洗脳された哲学者たちの、専らイエス正当化のための哲学だろ。
それは「宗教」であって、「哲学」ではない。
ナザレ村の大工の気の狂った子倅自身に、一体どんな哲学があったのか。
哲学自体が不可能だろう。 イエスで狂わされたクリスチャンたちは、イエスの律法(キリスト教)に従わない人間を
大量殺戮した。まさに、「人間がイエスの律法のために造られた」ではないか。「人間」は
一体どこえ行ったのか。
「裁く勿れ。裁けば己も同じ理由で裁かれる」などと言いながら、最も人を裁いたのが
イエス。「裁く権限は、俺だけが神から与えられている」などとほざいている。
イエスは、己の言葉通り、十字架によって神に裁かれたのである。
イエスはまさに「悪と罪そのもの」である。 人間が、裸であること(自然状態)を恥じ、神のようになって善悪を知ったのは、
善悪の木の実を食べたからである。
肉の人間が、神が創った人間。その生命は、神の命の息吹、即ち聖霊である。
神は、理由のない禁止命令は、絶対にしない。
これらの禁止命令の「すべて」に違背したのがイエスである。新約は、イエスの
聖霊の捏造・冒涜を隠ぺいするために、Sacred Spiritと語頭を大文字にして
いるが、そんな小手先の業で、聖霊(sacred spirit)の意味を変えることはできない。 イエスは、創世記さえまともに理解できていない。旧約は、思想的に高度だから、
ナザレ村の大工の子倅には、初めから無理だったのだ。
イエスが、創世記の原罪をすべて犯したことで、キリスト教は終了。
イエスもクリスチャンも、未だユダヤ教徒だ。旧約も聖典としてるだろ。
正式に破門されてもいない。十戒に掟にすべて拘束されていることを
忘れるなよ。創造主にあらざる神を崇めたため、死後はすべて「孫子の
代までの裁き」が待っているのだ。 嘘をついては駄目だ。イエス自身が罪を犯したからこそ、処刑されたのではないか。
イエスの宮清めや「俺は神の独り子」という神の冒涜が、罪ではないとでもいうのか。
ピラトやその妻がイエスに同情的であったような描写は、キリスト教のローマに
対するすり寄りであり、聖書の嘘であるというのが、現在の聖書学者の見解。 人間は死ねば塵になり、土に帰る存在。創世記を読め。イエスの「永遠に生命」は、
創世記における原罪である。
人間が死ねば、思考器官も感覚器官も運動器官も記憶器官も、腐敗するか灰になり、
一切消滅するから、いかなる知覚も感情も意識も生じない。永遠の暗黒に過ぎない。
「天の幸せ」とは、宗教が金を要求するときの常套文句である。いい加減で、
イエスの嘘を自覚し、離脱しよう。 殺戮?人間じゃ真似事や似せ絵、偽の問題に悩むだろう。 日本の「刑法」には、セクハラ、痴漢という言葉はありません。
セクハラ(sexual harassment)は、アメリカの判例の言葉に過ぎません。
犯罪の成立には、犯罪構成要件該当とともに、違法性及び責任という
厳重な制限があります。なお、強制わいせつ罪は、男女ともに適用されます。
法律を語るなら、正確な言葉を使いましょう。 イエス キリスト 何か違った動くものなんだよ。
将来は刑法待遇もいいなあ。 「虚偽告訴等の罪(誣告罪)」は、人に刑事または懲戒の処分を受けさせる目的で、
虚偽の告訴、告発その他の申告をした者は、3月以上10年以下の懲役に
処せられます。 奇跡については、くどくどと議論する前に、「バチカンの嘘」という結論で
よいのではないか。キリスト教とは、イエスの正当化のためには、あらyる
嘘を付く存在であることを、忘れてはならない。ヨセフスの歴史書の捏造や
フィリオクエだけからでも明らか。
バチカンが、こんな科学では認められないことを言い出すから、多くの
カルトが発生し、無数の人々が被害を受けているのである。現代人として
許されないこと。 >罪の無いイエス様
嘘をついては駄目だ。イエス自身が罪を犯したからこそ、処刑されたのではないか。
イエスの宮清めや「俺は神の独り子」という神の冒涜が、罪ではないとでもいうのか。
ピラトやその妻がイエスに同情的であったような描写は、キリスト教のローマに
対するすり寄りであり、聖書の嘘であるというのが、現在の聖書学者の見解。 他人の麦畑に入ってその穂を摘んで食べるのは、現代でも窃盗罪だぞ。
イエスはここでも、罪を犯している。 まちこさんやシャンロンさんは、神、神、神と、神という言葉を安易に使いすぎ。
神とは人間には計り知れない存在。人間に理解できるような神は、神ではなく
「人間の考え」にすぎません。その神で人間を洗脳し、金儲けの道具に使うとは、
以ての外の行為です。 イエスの処刑の罪状は、宮清めと神の冒涜罪。
衣を引き裂いて憤った大祭司の気持ちが、あなたには分からないのか。 「神」を語る前に、まず神の実在を証明せよ。どこの動物園にいるのか。
人間の生命の機能としての空想力による、空想の産物に過ぎないではないか。
死者には、神概念は存在し得ない。従って、人間の生命が、常に神概念に
優先する。
思考停止の典型がキリスト教。ナザレ村の大工の子倅から、1mmも動くことはできない。
滑稽極まりない。
イエスは、「最も近い隣人」である、己の家族やユダヤ教徒さえ愛することが出来なかった。
イエスに在ったのは、「己が旧約の神になる」という、極限の野望による自己愛と狂気のみ。 「世界で最も奇怪なカルト宗教」は、ナザレ村のしがない大工の子倅で、まともな
教育も人生経験も無い気の狂った若者を、こともあろうに創造主の地位にまで
祭り上げるという冒涜の行為を犯したキリスト教である。
罪人イエスの汚れた血を持ち出すのは止めましょう。聞くだけでも汚らわしい。
旧約では、血は絶対のタブーです。そのタブーを破ったのが、殺人鬼イエス。 己を信じてくれない人間をすべて悪魔呼ばわりするイエスが悪魔。イエスを信じる者による
数十億人の人間の大殺戮という歴史上の事実が、イエスの悪魔性を如実に証明」している。
己に最も近い隣人である家族やユダヤ教徒も愛せなかったイエス。何が隣人愛か。
「俺を信じるためには、親も子も棄てよ」。悪魔の言葉以外の何物でもない。 >「主の山に備えあり」の御言葉を知らないの?
「信じない者は殺す」という備えなのか。ますます悪魔だ。
シャンロンさんは、イエスの猿真似をして、すぐに「脅迫の言葉」を使うのは、止めたほがよいぞ。
何が「イエスの愛」か。「脅迫の宗教」ではないか。 >>ご隠居は強姦魔だし、愛息ヨサク君を見殺しにしたからなんとも言えない。
隠居は出来損ないだった息子の与作を水死させたのだよ。
生きようとして溺れ苦しむ様子をだた指を咥えて見ていた。
内心では死んでほしいと思っていたからだ。
やがて息子は水底へ沈んだが、父親の隠居は自ら助けようとしなかったので、
偶然に居合わせた見ず知らず人達が救助したが息子の与作は蘇生しなかった。
救助した人らはクリスチャンだったらしく、自分の子供を助け上げるように隠居の息子を助けようとしたのだ。
このことが隠居とキリスト教の最初の出会いとなったのである。
隠居は、己が息子が、最期の瞬間まで「生きる努力」をしていた
ことに、思い至っていない。
父親とは、偽らぬ勇気があってこそ美しいのである。
隠居の言葉は、「すべて」誤り。 出来の悪い息子でも、父親が見殺しにしたら殺人罪だぞ。君は、「殺してもよい」と思っているようだな。
己の最も近い隣人である息子さえ見殺しにした隠居には、隣人愛のかけらも無かった。
隠居は、出来の悪かった息子に付いては、2chの中で他家の子供と嘘を吐いている。十戒では、「人殺しした
者は、死刑」である。隠居は、このことだけでも、死刑相当の犯罪者。 >>98 偽隠居黙れ
高校受験さえ受からない国語力の君が、何を言っても無駄。俺の息子はぴんぴんしてるがw。 >>857
>>俺の息子はぴんぴんしてるが
死んだ息子がいまだにぴんぴんしているとは驚きだ。
イエスの復活よりも奇跡ではないか。
さすか創造主になった積りの隠居。 ( 誰がそんな馬鹿な話を信じるだろうかw
「生命教」なる奇怪なカルト宗教を創唱して創造主になった積りの隠居。
最も近しい己が隣人であるはずの出来損ないの息子を見殺しにしてしまった隠居にとって、隣人愛を説いたイエスを抹殺することが人生の目的。 >>ご隠居は強姦魔だし、愛息ヨサク君を見殺しにしたからなんとも言えない。
隠居は出来損ないだった息子の与作を水死させたのだよ。
生きようとして溺れ苦しむ様子をだた指を咥えて見ていた。
内心では死んでほしいと思っていたからだ。
やがて息子は水底へ沈んだが、父親の隠居は自ら助けようとしなかったので、
偶然に居合わせた見ず知らず人達が救助したが息子の与作は蘇生しなかった。
救助した人らはクリスチャンだったらしく、自分の子供を助け上げるように隠居の息子を助けようとしたのだ。
このことが隠居とキリスト教の最初の出会いとなったのである。
隠居は、己が息子が、最期の瞬間まで「生きる努力」をしていた
ことに、思い至っていない。
父親とは、偽らぬ勇気があってこそ美しいのである。
隠居の言葉は、「すべて」誤り。
出来の悪い息子でも、父親が見殺しにしたら殺人罪だぞ。君は、「殺してもよい」と思っているようだな。
己の最も近い隣人である息子さえ見殺しにした隠居には、隣人愛のかけらも無かった。
隠居は、出来の悪かった息子に付いては、2chの中で他家の子供と嘘を吐いている。十戒では、「人殺しした
者は、死刑」である。隠居は、このことだけでも、死刑相当の犯罪者。 九九も覚えられなかった様な出来損ないの息子与作が溺死して内心で喜んでいるような卑劣漢の隠居。
それから何十年も経って命の尊さと隣人愛を説いたイエスを心底から憎む悪鬼となり果てた様はまことにおぞましい限りだ。
その憎悪に満ちた心が敬虔なクリスチャンであるシャロンさん個人へ向けられているのだから危険だ。
シャロンさんは命を狙われているのだから余程用心して身元を特定されないように注意を払うべきだろう。
隠居の様な人でなしは、十九歳の少年警察官に射殺されて重体になればよいのだ。
自ら痛みを知らぬ者は他人の痛みも理解できないからである。 どんなに記憶を改竄しようとも、息子の与作を見殺しにした過去が書き換えられるわけではないよ。
あくまでも己の罪を認めたくない隠居なのであるが、その為の心的補償行為が徹底したイエス批判なのである。
つまりだ、真実はイエスが狂人なのではなく隠居こそが狂人なのだ。
イエスが人殺しなのではなく隠居こそが溺れる息子を見殺しにした。 これが事実だ。 殺されてもイエスは絶対に批判できないクリスチャンの君が、何を言っても無駄だ。 旧約聖書では、神は、「肉の人間」と契約を結んだのだぞ。イエスは、幽霊とでも
新約を結んだのか。「死と殺しと呪いの宗教」は、人間界にはお断り。
神は人間が創った概念に過ぎないので存在しません。
聖母と称されるマリアが処女のままナザレのイエスを身ごもることは無
いし、そもそも生物学上あり得ません。
医療技術や設備など無い当時に一度死んだ人間を蘇生させることなど
できないし、ナザレのイエスのように磔刑に処せられて完全に死亡した人間
を蘇生させることは現代の最先端医療をもってしてもあり得ないことです。
もちろんナザレのイエスには魔法は使えないので他人の病気を治したり、
目が見えない人を見えるように治したりすることはできませんし、あり得
ません。
ナザレのイエスは他の人と同じ普通のユダヤ人で人間です。
ナザレのイエスを特別な存在として扱うために創られた数々の言い伝え
は一定の教育を受けた現代社会の人間であれば全てデタラメであることは
容易に判別できます。
マグダラのマリアはナザレのイエスの愛人で、普通の人間と互いに欲情
して体を求めあい本能のままにセックスしたことでしょう。 聖書に書かれていることは全てデタラメで教会が信者からカネやモノを
を集めるのに都合が良いように創られたものに過ぎません。都合の悪いこ
とは全て封印しました。
信者はナザレのイエスの弟子たちによって創られた迷信に惑わされて
カネやモノを教団にむしり盗られているだけに過ぎません。
医療技術や設備など無い当時に一度心肺停止に陥った人間に救命処置を
施すことなどできない。
ましてやナザレのイエスのように磔刑に処せられて死亡し、何日も放置
されている人間を蘇生させることは現代の最先端医療をもってしてもあり
得ないことだ。
聖書は人間が記した荒唐無稽で非科学的な創作に過ぎないので、神の
存在を証明する根拠にはならない。
ようするに聖書はデタラメだであって神などいないということ。
一旦イエスで狂わされた者は、イエスについていかなる客観的な判断も
不可能になる。無数の殉教者を見よ。クリスチャンの意見など、初めから
ナンセンス。
言葉ではなく、歴史の「事実」により判断せよ。イエスはまさに「罪そのもの」
ではないか。 十字架贖罪説は、パウロがパウロ教を設立するためにイエスの十字架を「利用した」
ものに過ぎない。贖罪など、誰一人としてイエスに頼んではおらず、イエスは己の
大罪で勝手に処刑されただけ。贖罪など、生前のイエスの念頭にもなかった。
「贖う」の原義は、「身代金を支払って奴隷を買い戻すこと」。しいて言えば、イエスは、
奴隷を買い戻して、「己の奴隷」としたのである。
人類史上、キリスト教による数十億人の人間の理由のない殺戮以上の罪はない。
その殺戮は、すべて聖書のイエスの言葉から生じている。
殺人鬼は、いかなる主にも成りえない。
要するに、聖書のすべての記事は、知識と知恵が現代の幼稚園児にさえ遠く
及ばなかった「当時の人々」に対して書かれたものである。当時でさえも、
イエスを直接によく知るその家族、郷里の人々、仲間のユダヤ教徒は、
イエスを気違い、悪霊憑きと判断して信じなかった。
現代人が大真面目に信じるべきものではない。
「罪」を植え付けて脅迫し、「救い」という甘言で入信させる。これがキリスト教の
営業手段。
神の生命の息吹(聖霊)を有するすべての人間には、罪などない。神は「罪の創造主」
ではない。アダムの原罪は獲得形質。獲得形質は遺伝しない。
キリスト教は、そのままで犯罪である。 イエスの十字架処刑は、宮清めと神の冒涜罪という己の大罪の結果。
犯罪者イエスの汚れた血で、他者の罪を贖うことが、できる訳がない。
かえって、罪の血が、己に払拭し難く染みつくだけ。
旧約を聖書の一部とするイエスもクリスチャンも、未だにユダヤ教徒。
十戒の掟の下にある。
神の冒涜者イエスを、こともあろうに神として崇めるクリスチャンには、
死後における「孫子の代までの裁き」が待ち受けている。
新約聖書は、イエスを神にするというイエス自身の野望のための「嘘」にまみれている。
新約聖書による虚偽の証言は、十戒の罪の一つであり。死刑に相当する。
さらにイエスは、十戒の最重要な掟てある「殺す勿れ」を。明示的に否定した。
赦されざる罪である。
人類界に最も巨大な罪を生み出したのは、イエスの「肉体(生命・聖霊)を忘れ精神性」
という狂気である。この狂気は、イスラム教、共産主義、ナチスという、更なる巨悪を
生み出した。イエスは、人類界における「最大の罪」の元凶である。
シャロンさん、イエスはあなたの息子か孫の年代の未熟な若者ですよ。
イエス、イエスと奉るのではなく、あなたの豊富な人生経験で、少しはイエスを
指導して、正しい道に立ち還らせたらどうなのかね。あなたは、何のために
歳を取ったのかね。 「イエスは無罪」は、「人間の認識」として到底無理。聖書とキリスト教の歴史には、「イエスの
罪」は無限に出てくる。イエスは「宮清め」「俺が神の独り子発言」という罪の直後に逮捕され、
即刻処刑だぞ。これが「罪でない」とは、「人間の認識」として、天地が逆さになっても
言えないことだ。なお、「復活」は、信者の幻覚であり、事実ではないといいうのが、聖書
学者の見解。贖罪は、イエスに会ったこともない自称弟子パウロの独自の見解。いずれも
「現代の人間の認識」として、問題にならない。 そうやって、「人間には図り難いはずの神」を、判った積りになってペラペラと語る
イエスやクリスチャンは、その時点で、神を冒涜していることを、片時も忘れないで
下さい。
イエスは、その神の冒涜の罪で、十字架で処刑されました。
すべて神の子である人間を、サタン呼ばわりしたイエスが、唯一の悪魔だったのです。
悪魔イエスを信じると、人間は、良心の呵責なく、大量の人を殺すことが可能になります。
歴史の事実が、如実に証明しています。 今日の産経新聞(ネット)に、上祐が麻原の死刑執行について書いてるね。
信者の精神状態は、キリスト教と全く同じ。処刑されても、麻原の死を信じない。
これが、キリスト教の「復活」である。そして、殺された人間の人数は、キリスト教
による者のほうが、数十億倍多い。
クリスチャンは、オウムと全く同じ、己の精神病理を理解しよう。
あなたこそ、キリスト教による人間の大殺戮の歴史を学んでください。
殺人鬼の宗教を信じるあなたも、殺人鬼なのです。オウムが殺した
人間の数は、キリスト教が殺した人間の数の数億分の一にも及びません。
麻原は、今でも、あなたと同様、聖書の言葉を口走っているのですよ。
ならばあなたは、あなたの宗教エゴ故に、判断力もない純真な子供に、キリスト教を
植え付けることは、絶対に止めなさい。神概念を植え付けると、子供の生存に不可欠な
現実感覚が破壊され、子供の大切な一生を破壊するのですよ。これほど大きな罪は
ないのです。
あなたは、聖書など読む前に、ます、岩波キリスト教辞典の「宗教戦争」の項目を一覧して、
キリスト教が、イエスの名の下に、一体何十億人の人間の生命を理由なく奪ったかを、
推定してください。計算不能なほどの多数ではありありませんか。
その殺戮の指示は、すべて、聖書のサタンイエスの言葉から出ていることを、理解して
下さい。日本人なら、異国の邪教に近づくことは許されないのです。 「神の座を乗っ取ろうとした」イエスが、「神を信じていた」訳がありません。
神を信じる者には、そのような「冒涜の行為」はしないし、またすることも
出来ません。イエスは、「俺は神の独り子」などと思った時点で、まさにサタン
だったのです。
ペラペラと神を語るイエスやクリスチャンとは異なり、無神論者は、神とは
人間には図り難い存在であることを知っているから、神を語ったり、解釈したり、
崇拝したりすることをせず、神の被造物としての「あるがままの人間と自然」とに、最大の価値を認めます。「神のために人間を殺す」という、犬猫にも劣る愚かな
行為は、絶対にしません。
このどちらが神に近いかは、あまりにも明らかでしょう。 アガペーは、創造主が与えた愛ではないぞ。ギリシャ人たちが、労働は奴隷に任せ、
だらしなく寝そべって飲み食いしながら語り合った「人工愛」「観念愛」に過ぎ
ない。それは「愛」ではない。愛とは、生存の維持のために、生存共同体における
最も近しい者に対してから始まるべきもの。それを知らなかったのが、イエスだ。
イエスは、「最も近い隣人」である家族や仲間のユダヤ教徒さえも愛せなかった。 私が高校生なら、イエスは赤ん坊以下だろ。そんな人間を、こともあろうに
神として崇める君は、完全な気違いだ。教会などより、精神病院で治療を
受けよ。
牧師や神父は、例え殺されてもイエスを批判できない人種だぞ。そんな人間の
話を有難がって聞いて、一体どんな意味があるのか。全く無意味ではないか。
「世界の終り」(終末論)とは、精神医学では、「世界没落体験」と呼び、イエスの統合失調症の
症状の一つに過ぎない。聖書など読む前に、精神医学の基礎を学べ。
人類界における最大最悪のカルトは、キリスト教(イエスパウロ教)だよ。共同体においては、
宗教とは共同体を維持するための他者に対する「行為」であるのに、彼らはその行為を
取り除いてしまった。共同体においては、他者の「内心の信仰」など、何の意味もないのだ。
すべて、「己のみが義人」であろうとする、エゴの行為以外の何物でもない。
イエスもパウロも、ユダヤ教社会の裏切り者。キリスト教とは、「裏切り者の宗教」である。
超カルトであり、「人類に対する裏切り者の差別主義の宗教」であるキリスト教の精神
病理の原因は、主としてパウロのエゴイズムだが、その根源は、イエスの「肉体(生命)を
忘れた精神性」という狂気にある。 人類の発生以来の生存努力という巨大な現実に宿る真理が理解できず、己の
独善で、取るに足りない些細な点に目くじらを立てるイエス。そのイエスを
「信じるだけで」義とするパウロ。これは、現代の反日リベラルの思想と
全く同じである。
そうやって、己を信じてくれない者、己を批判する者をすべてあぼんしたのが、
まさにイエスの排他性だw。要するにイエスは「独善性の塊」に過ぎなかった
のだ。
神様、神様と、神概念は科学に無知蒙昧だった古代人の妄想。
科学のいかなる奇跡も及ばない驚異的な発達によって、古代人の神々は消滅したのだ。
君の生活は、科学と人間の努力によってのみ維持されている。君は一体いつまで狂ってる
積りなのかね。
幼い子供に神概念など植え付けたら、子供の現実感覚を破壊し、一生涯、君のように
狂ってしまうのだ。これ以上、罪を犯すのは止めなさい。 イエスは、暴力犯罪宮清めの直後に逮捕されて即刻処刑。イエスは、前もって
鞭を作成し、しかも人出の少ない日を狙ったとの説もある。極めて悪質な計画的
犯罪。直接の罪状は、「俺は神の独り子」という神の冒涜罪。衣を引き裂いて
憤った大司教の気持ちは、一般人には手に取るように理解できるのだぞ。
定義もできないのなら、イエスもクリスチャンも、善悪を語るな。
自分でも理解できない言葉に、自己陶酔しているだけ。人前で自己陶酔をやるな。 イエスは、「昔の人は、殺す勿れなどと言ったが、悪人は殺してもよいではないか」などという。
彼は十戒を全く理解していない。「たとえ自分が悪人だと思う相手でも、殺してはならない」
という「絶対的禁止」が、十戒の「殺す勿れ」なのだ。「自他の生命を救う場合」のみに許される。
これが、現代の法律での「正当防衛」だ。
イエスは、十戒さえ正しく理解できなかった。彼の知能低下は甚だしい。彼はもはや廃人で
あった。
ユダヤ教の血や死に対するタブーは、絶対的なものだった。血の付いた肉を食べることも禁じられた。死は罪であり、祭司は死体に触れることも禁じられた。
このユダヤ教の絶対的タブーを、「十字架」や「イエスの血を啜り、肉を食らう」ことですべて破ったのが、まさにイエスである。
このことだけでも、キリスト教に比べてユダヤ教が格段に高度な宗教であることを示すものである。
イエスが十戒の猿真似をして、わざわざ山に登って作った「山上の垂訓」と十戒とを比較してみるとよい。前者の弱者にすり寄る浅薄で人間差別の内容は、後者の人間の共生にそのまま適用可能な骨太の真理に遠く及ぶべくもない。
前述したイエスによるユダヤ教の死と血の絶対的タブーの完全破壊は、聖書学的に重要な
問題だよ。これがユダヤ教とキリスト教との分岐点だ。それにイエスは、「永遠の生命」は
創世記における原罪なのに、何故それを唱えたのか。生命は、そしていかなる物事も、限り
があるからこそ尊く、価値があるのに、生命が永遠であったら、地上には生命が溢れ地獄化し、
新たな生命の発生も不可能になるではないか。イエスの統合失調症の症状としての認知
機能障害(知能低下)により、イエスが精神的にはもはや廃人化していた所以である。
従って、イエスの「すべての言葉」には論理矛盾と幼稚浅薄さがあり、一発で論破可能なもの。 イエスの「復活」は、弟子の幻覚、心理現象に過ぎず、事実ではないというのが、聖書学者の見解。
ピラトによるイエスの処刑については、ローマの正式の記録があるのに、大事件であるはずの
復活に付いては記録は「皆無」なのが、その証拠。それに、若し復活したのなら、何故イエスは
その余生を宣教に費やさなかったのか。いつの間にか居なくなっている。さらに、若し復活して
いれば、「イエスを殺せ」と大合唱したユダヤ教徒たちが、黙っていたはずがなかろう。
ピラトは処刑された死刑囚の死亡を確認し、あらためて槍で完全に突かせている。若しイエスが
死んでいなかったとすれば、ピラトの責任問題が生じたはずだが、その記録も皆無である。
私の文章が分かりにくとは、今まで、日本人にも外国人にも言われた覚えがない。
君が、イエスに洗脳されているからではないのか。「ユダヤ教のタブー」を理解
しているか。
タキトゥスは、イエスとほぼ同時代人と考えてよい。そのタキトゥスが、ピラトによるイエスの処刑さえ記録しているのに、超大事件であるはずの復活を書かないはずはなかろう。ヨセフスの著書にも、復活はない。
イエスが死んだ状態からむっくりと起き上がる姿を見た者は、誰もいない。マグダラのマリアなど複数人が見たから事実だという者がいるが、基本になるフィクションは一冊だけである。
そもそも、復活後の第一声が「腹減った。何か食う物ないか」とは、何の冗談か。鑓で突かれて重傷で唸っている時期なのに、こんな言葉が吐けるはずがなかろう。
完全に死んだ人間が生き返ることなどない。これが現代医学の常識。聖書は、
ラザロの腐乱死体が生き返ったとさえ書くのだから、何でもありである。
またクリスチャンか。もう、うんざり。イエスの治療でもしてろ。 イエスは、宮清めと神の冒涜罪という己の大罪によって処刑されたのです。復活は
聖書の嘘です。十字架の贖罪は、イエスに会ったこともないパウロの嘘。誰も
そんなことをイエスに頼んではいない。いつまでも嘘を振り回すのは止めなさい。
嘘は罪ですよ。
神概念も、科学について無知蒙昧だった古代人の妄想です。現代人であるあなたが、
いつまでも神、神と口走るのは止めなさい。神など、古代人の妄想だから、どこにも
いないのです。あなたが神がいると言い張るのなら、神を一匹捕えて檻に入れ、その
写真を5chに公開しなさい。義務教育を受けた現代人は、もはや、何でも信じてよい
などということは許されないのですよ。子供の理科教育は一体どうする積りなのですか。
いい加減で、現代人として目覚めてください。
あなたは幼い子にまで神を植え付けようとしているのか。無い物が在るなどと信じ
込まされると、子供の現実感覚が破壊され、一生涯、あなたのように気が狂って
しまうのですよ。
批判力のない純真な子供の気を狂わす罪の行為は、大人として絶対に止めなさい。
それはあなたの自身の「宗教エゴ」に過ぎないではないか。己の宗教エゴのために、
純真な子供の一生を破壊するほどの大きな罪はない。あなたは、あなたの罪を悔い
改めなさい。
5chは「公共の場」だ。異国の邪教キリスト教の宣教の場ではない。勘違いするな。
そんなに神様が語りたいのなら、人に隠れて、教会でこっそりとやりなさい。人前で語るものではない。
子供たちの理科教育が破壊されてしまう。
あなたの宗教は、「エゴの極致」であることを反省しなさい。あなだは、自分の宗教エゴに付いて。
悔い改めはしないのか。
上記にコピペしたように、宗教(回心、憑依、洗脳)は、精神医学の領域です。直ちに精神科を
受診して、治療を受けなさい。はた迷惑も甚だしい。 原罪を最も犯し、いわば原罪の権化ともいえるイエスを信じれば、原罪を免れる
というのは、全く矛盾しているね。イエスの原罪違反を、聖書から列挙してみて
下さい。
原罪が地域的なものであるなら、パウロは何故、ユダヤ教徒以外の者も罪人に
しようとしたのか。
やはり、律法遵守(行為)が出来なかったパウロが、その罪悪感から、イエスの十字架を利用して打った一芝居としか考えられない。
ユダヤ人は極めて現実的な人種だから、原罪も現実に応じて適当に運用していたと
思うよ。クリスチャンとは違って、宗教を現実に優先させるなどという愚かなことは
しなかった。パウロだけが、人間的に異常だっただけだと思う。その証拠に、ユダヤ教
からキリスト教に改宗した者は極めて例外的で、ユダヤ教は、キリスト教による激しい
弾圧にも関わらず、今日でも世界の大宗教として存続している。
しかし、同じ人間という生物の一種属であるのに、ユダヤ人だけに何故それほど
執拗な「罪概念」が生じたのか。やはり、生物を殺すことが日常茶飯事である
砂漠の遊牧民族である故か。ならば、日本人には無関係な思想だね。砂漠の
宗教に執着する日本人が異常だということ。 日本のトップの聖書学者たちも、キリスト教の極端な排他性と人間の大殺戮の
歴史と現状に鑑み、キリスト教を「生命教」に変換しようと努力しているぞ。
しかし、イエスを主とする限りそれは絶対に不可能なので、私は、専ら元凶
イエスを、特に精神医学の見地から批判している。人間としてのクリスチャン
たちは、イエスの狂気が感染した悲惨な犠牲者に過ぎないからだ。麻原とその
弟子との関係と全く同じ。 勿論、私の「生命教」には、イエスの要素は微塵もない。40億年前の生命の発生以来の、
人間を含むすべての生物にとって唯一の普遍の宗教としての生命教だ。人間イエスも、
その一信者に過ぎない。 なんだお前は グノーシウスの魂思想を知らないのか ?
それでよくグノーシウスを名乗っていられるな。
イエスの父親は創世記の創造主という設定だ。
創世記の創造主の息子がイエスという設定なのである。
さて、隠居の場合はどうだろうか。
溺れ死んだ息子である与作の父親は隠居である。
隠居の出来損ないの息子が溺れ死んだ与作なのである。
賢明なスレ住人各位は、お気付きであろうと思う。
どうして隠居は、徹底的にイエスを卑しめる一方で創造主を絶賛するのであろうか、について。
隠居が己が身の上に重ねている構図を見抜いていただきたい。
最高難度の国家資格を持つと言い張る死に損ないのジジイ隠居。
隠居にとって、己が見殺しにした出来損ないの息子与作と創造主の息子イエスが、マンマ被っているのである。
これが隠居の真実なのだ! ※死に掛けている隠居、若き日々の己がプライドにすがるばかりの哀れな晩節。
--------------------
681神も仏も名無しさん2018/04/22(日) 02:33:58.70ID:BerD9hGK
聖書学の新刊書も買えない飲み屋の女に言われてもw。
私は、君らが逆立ちしても不可能な、最高難度の大卒資格と
最高難度の国家資格の持ち主。
899神も仏も名無しさん2018/04/22(日) 22:00:11.38ID:BerD9hGK
それはお前のこと。俺は、最高難度の国家資格の仕事をやって、その息抜きに
イエス批判をやってるだけ。イエスほど批判対象の多い人間はいない。
--------------------
519 :神も仏も名無しさん :2018/01/05(金) 13:05:58.86 ID:C8/k+olL
お誘いありがとう。最近は、体力も衰え、外出も難儀で、医科歯科には通院していません。
もう、何度も転んだし、大学病院の待ち時間も耐えられない。治療は近くの開業医です。
もっぱら、室内での仕事と5chへの書き込み、外国語と最新医学の勉強に専念しています。
私の見解は、5chへの書き込みがすべてです。
のぞみちゃんのお仕事は、「人間の命を救う」という最も大切な、素晴らしいお仕事。
解剖生理学をやれば、身体(生命)という複雑、驚異、神秘の中に「神」を見出せるはず。
宗教の神という人工神とは、比較になりません。医学の急速な発達もフォローして、身体
(生命)の中に、神を見出してください。
-------------------- 364神も仏も名無しさん2018/04/23(月) 23:32:51.14ID:aXGn8GqR
>>350
>イエス様は「俺を信じない者は死ね。殺せ。」なんて一言も言ってない。
それなら、キリスト教徒は何故、数十億人の人間を理由なく虐殺したのか。
キリスト教に、お前のような悪人だけが集まっていたとでもいうのか。そんな
ことはあるまい。
「自分の命を得ようとするものは、それを失い、わたしのために命を失う者は、
かえってそれを得るのである」。この章句において、「命の助かる者」は誰か。
答えよ。章句の言葉を勝手に変えるなよw。イエスはそもそも、「人が自分の
命を得ようとすること」も認めないのだぞ。初めから「皆殺し」ではないか。
他のクリスチャンも、反論できる者がいれば、反論してみよ。 イエス盲信で狂いまくっているな。聖書の第三者は、イエスの「外見から」、大食漢の大酒飲み
と判断したのだぞ。デブでアル中に決まっているではないか。 イエスの唯一無二の野望は、その誇大妄想故の、「己が旧約の神になる」ということ。聖書全体
から明らか。イエスの心理は、精神医学を知れば、手に取るように明らか。
その己の極端に肥大したエゴの実現のjために、人々の信を求めただけ。彼にとっては、人に
仕えることも、「己が一番になる」という「エゴの行為」だった。そのためには、前任者である神が
創った「すべての人間」を殺す必要があったのである。キリスト教の人間の大殺戮の歴史が、
如実に証明する「事実」である。
イエスに、人間に対する愛が人かけらでもあれば、「迫害されることが事前に分かっている」
伝道に、弟子を送り出すことなど、絶対にしない。 >>856
>俺が書いたのはイエスの話じゃなくて人間一般の話だよ
まず、イエスについて言えば、現代精神医学では、統合失調症は、時代、地域を
問わず、人口の約1%の割合で生じる。ユダヤ教社会だけでこの病気が生じない
ほうがおかしい。
この病気は、妄想を最大の症状とする。「俺は神の独り子」という超巨大妄想が
あれば、それだけで、他の症状がなくても統合失調症であると診断される。精神
医学によれば、精神病の妄想と宗教者の宗教的信念とは、資質的に同じものと
して区別されない。
精神病は感染することも、現代精神医学の常識。従って、クリスチャンとは、イエスの
統合失調症の感染による統合失調症患者と判断される。
精神病とは、あくまで健常者が判断するもの。聖書時代でさえ、イエスを直接によく
知るその
家族、郷里の人々、仲間のキリスト教徒は、イエスを気違い、悪霊憑きと判断していた。
この情報の意味は大きい。
精神医学では、祈祷精神病、禅病、憑依、洗脳なども、治療の対象となる精神病と
されている。 916神も仏も名無しさん2018/04/25(水) 03:00:27.11ID:FTAG5Msp
>>915の続き
精神病者は、健常者との共感が不可能だからこそ「病気」なのである。精神病者で
あるクリスチャンとの「共感」など語ることがそもそもの誤り。精神科医が患者と共感
できるようになれば、それは、患者の病気が医師に逆転移したことになる。精神科医は、
患者との共感、即ち逆転移を極度に警戒する。
私の反カルト対策に従事している専門家でも、逆転移が生じる者が少なくない。ある
著名な反カルト対策者は。逆転移により、すっかりカルト側になってしまった。彼の活動は、
現在、その弟子が承継して行っている。
健常者は、その生存本能故に、自他の死に対する恐れを有するが、宗教による精神
病者は、開祖のために死ぬことや殺すことに、むしろ喜びを覚える。良心の呵責や
罪悪感など全くなく、むしろ、善をおこなっている気持ちで殺し、殺される。このような
患者の感情に、健常者が共感できる訳があるまい。夫婦の一人が宗教に嵌れば、
離婚は必至である。キリスト教の場合は、夫婦がそれぞれカトとプロテである場合でも、
このような問題が生じる。宗教にとっては、信者の獲得のために家族の反対が最大の
障害だから、まず、家族関係を破壊する。イエスの「俺を信じるためには、親も子も
棄てよ」の実行である。従って、信者である家族の成員は、家族を憎悪し始め、肉親の
情愛でさえも、宗教のフィルターをとおして拒絶するようになる。いわば、「人間が
人間でなくなる」のである。
精神病者との「共感」を語ることの愚かさを自覚しよう。多くの精神病院は、一体何のために
あるのか。 39神も仏も名無しさん2018/04/25(水) 11:26:25.77ID:FTAG5Msp
この聖句を聖書に付け加えるだけで、キリスト教は崩壊する。
↓
「(神の本質としての)愛とは【人間の】情念なのであって、現代人の知性に照らすならば愛を
仮設された人格としての神と呼び変える必要性は皆無である」(グノーシス派シモン)。 まさに、「俺を信じない者は、皆死ぬ」ではないかwww。「信じない者の、皆殺し」の
教えだ。
イエスが「俺を信じない者は、皆死ぬ」と言ってる以上、殺人者はイエスである。
イエスが、神やクリスチャンを使って殺させても、主犯はイエスである。
イエスが「不誠実だと思う人間」は、皆殺すということか。殺人鬼そのものではないか。
イエスの独善のみの、恐ろしい殺人の教えである。殺人鬼と一体どこが違うか。
聖書の中で、イエスが「生命の尊厳」などを説いている箇所は一か所もない。
唯一、生命の大切さを説いているのは、「俺を信じなければ、その大切な生命を
失うぞ」という「脅迫」としてだ。話にならん。
それはそのまま、数十億人の人間を殺した殺人鬼イエスに対して
言ったらどうか。それを証明する歴史文献は多数あるだろ。
君はそれらを読んではいなのか。
俺がどこで人を殺したのか。それはお前が、私のカキコの
「他家の子供」という言葉を故意に無視して、卑劣な嘘を
付いているだけではないか。与作て何だ。そんな言葉が私の
カキコの一体どこにあったか。私のカキコをここに上げて、
皆に読んでもらえ。 「俺を信じない者は、死ね、殺せ」。イエスの思想は、
己への信と相手の死との「取引思想」。病気が治ったのは、
イエスを信じた者だけ。これは愛とは対極の、イエスのエゴの
思想。殺人鬼の思想である。この思想が、クリスチャンによる
人間の大殺戮の元凶である。イエスのエゴに憑依されたクリス
チャンたちは、己の死を免れるために、己がイエスを信じて
いないと考える人間を殺しまくったのである。
人間に非ざる架空の神などを愛すると、肝心の人間に対する愛が破壊されます。
人間界における愛とは、人間の感情です。神の愛は、人間には分かりません。
軽々しく、神の愛を説くのは止めなさい。それは、人間と神に対する冒涜です。
キリスト教のおける人間の大殺戮は、専らイエスによる神の冒涜から発生しました。
ナザレ村の大工の気の狂った子倅への執着のために、人を殺し、己も死ぬ。
これ以上の執着がどこにあるか。 ナザレ村の大工の気の狂った子倅への執着のために、人を殺し、己も死ぬ。
これ以上の執着がどこにあるか。
「俺を信じない者は、死ね、殺せ」。イエスの狂気が憑依したクリスチャンどもは、
このイエスの指示に従い、数十億人の人間を、最も残酷な方法で殺した。殺さなければ、
己がイエスから殺されるからである。
イエスのいう「愛」とは、「憎悪」の意味しかない。彼の最も近い隣人である家族やユダヤ教徒に
対するあくなき憎悪を見よ。「俺を信じるためには、親も子も棄てよ」。サタンの言葉に過ぎない
ではないか。何が隣人愛か。笑わせるな。 イエスの唯一無二の野望は、その誇大妄想故の、「己が旧約の神になる」ということ。聖書全体
から明らか。イエスの心理は、精神医学を知れば、手に取るように明らか。
その己の極端に肥大したエゴの実現のjために、人々の信を求めただけ。彼にとっては、人に
仕えることも、「己が一番になる」という「エゴの行為」だった。そのためには、前任者である神が
創った「すべての人間」を殺す必要があったのである。キリスト教の人間の大殺戮の歴史が、
如実に証明する「事実」である。
イエスに、人間に対する愛が人かけらでもあれば、「迫害されることが事前に分かっている」
伝道に、弟子を送り出すことなど、絶対にしない。
ナザレ村の大工の気の狂った子倅への執着のために、人を殺し、己も死ぬ。
これ以上の執着がどこにあるか。 まず、イエスについて言えば、現代精神医学では、統合失調症は、時代、地域を
問わず、人口の約1%の割合で生じる。ユダヤ教社会だけでこの病気が生じない
ほうがおかしい。
この病気は、妄想を最大の症状とする。「俺は神の独り子」という超巨大妄想が
あれば、それだけで、他の症状がなくても統合失調症であると診断される。精神
医学によれば、精神病の妄想と宗教者の宗教的信念とは、資質的に同じものと
して区別されない。
精神病は感染することも、現代精神医学の常識。従って、クリスチャンとは、イエスの
統合失調症の感染による統合失調症患者と判断される。
精神病とは、あくまで健常者が判断するもの。聖書時代でさえ、イエスを直接によく
知るその
家族、郷里の人々、仲間のキリスト教徒は、イエスを気違い、悪霊憑きと判断していた。
この情報の意味は大きい。
精神医学では、祈祷精神病、禅病、憑依、洗脳なども、治療の対象となる精神病と
されている。 精神病者は、健常者との共感が不可能だからこそ「病気」なのである。精神病者で
あるクリスチャンとの「共感」など語ることがそもそもの誤り。精神科医が患者と共感
できるようになれば、それは、患者の病気が医師に逆転移したことになる。精神科医は、
患者との共感、即ち逆転移を極度に警戒する。
私の反カルト対策に従事している専門家でも、逆転移が生じる者が少なくない。ある
著名な反カルト対策者は。逆転移により、すっかりカルト側になってしまった。彼の活動は、
現在、その弟子が承継して行っている。
健常者は、その生存本能故に、自他の死に対する恐れを有するが、宗教による精神
病者は、開祖のために死ぬことや殺すことに、むしろ喜びを覚える。良心の呵責や
罪悪感など全くなく、むしろ、善をおこなっている気持ちで殺し、殺される。このような
患者の感情に、健常者が共感できる訳があるまい。夫婦の一人が宗教に嵌れば、
離婚は必至である。キリスト教の場合は、夫婦がそれぞれカトとプロテである場合でも、
このような問題が生じる。宗教にとっては、信者の獲得のために家族の反対が最大の
障害だから、まず、家族関係を破壊する。イエスの「俺を信じるためには、親も子も
棄てよ」の実行である。従って、信者である家族の成員は、家族を憎悪し始め、肉親の
情愛でさえも、宗教のフィルターをとおして拒絶するようになる。いわば、「人間が
人間でなくなる」のである。
精神病者との「共感」を語ることの愚かさを自覚しよう。多くの精神病院は、一体何のために
あるのか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています