【壊れた】生命教【スピーカー】
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生命教は、人類、いや、すべての生物の発生以来の唯一の
普遍の宗教だ。その意味で、もはや「宗教」とは言えない。
釈迦もイエスも、その他のいかなる宗教者も、「生きた」と
言う点で生命教の信者だ。「生きなければ」、彼らの誰も
存在しなかったのである。 前にも書いたが、生物40億年の歴史は、生存努力の歴史で
である。生存とは、「肉の維持」のこと。生存のために、環境に
応じて肉体まで変化させた進化の歴史を見よ。精神とは、
肉の維持のために肉から発動される機能、肉の奴隷、侍女に
過ぎない。
従って、生物における真理は、すべて生存努力のみから
発し、生存努力の中のみに宿る。生存に無関係な創唱宗教
には、いかなる真理も宿らない。
宗教者は、何ゆえに、「外部の神」を求めるのか。己が己自身の
神であることを、何故拒否するのか。十字架で処刑されてまで
己が神になったイエスの野望と努力を見習えw。 個の「死」とは、種属としての人類の生命を維持するための
不可欠な新陳代謝である。すべての人間に等しく公平に表
れる神の摂理だ。
個の死がなければ、この地上には人間が溢れ、居住不可能な
地獄となることを自覚せよ。個の死があって、初めて、新たな
生の誕生が可能になる。イエスも君も、創造主の摂理を知
らない。 「生存」は、すべての生物の発生以来の「唯一の」目的である。
いかなる生物も、具象物に100%依存しない限り一瞬も生存できない。
従って、生存と具象を否定する宗教には、いかなる真理も存在し得ない。 それは、創世記2:7から、あまりにも自明。イエスは、知りながら、
その聖霊を捏造・冒涜したのである(ヨハネ福音書参照)。
「聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。
創造主は、その命の息吹(聖霊)を、人間以外の動物には
吹き込んでいない。 旧約には、創造主がその命の息吹を動物に吹き込んだという
記述はない。従って、動物は、聖霊を持たないことになる。
だから動物は殺せるのである。
動物まで考えないで、まず人間の聖霊性から考えよう。常に、
己に身近な対象から考える。これが創造の秘儀である。
従って、イエスのアガペーは、創造的に誤りなのである。 生存が生物の究極の目的である以上、生物は「生存する」
ことによって、既に救われているのである。
生存は、具象物に100%依存することのみにより可能だから、
生物は、具象物に接して初めて精神の安定と平安を得る。
無や死は生存に反するから、生物はいかなる関心も持たない。
生物が今日まで生存を継続し、ますます発展しているという
事実は、生物が「総体として善」であったことを示す。 イエスの統合失調症の症状としての誇大妄想から、イエスの
唯一の野望と関心は、己が旧約の創造主になることである
のは、聖書を一読しただけで明らか。そのためには、創造主
を信じるすべての人間を殺さない限り、己は創造主になれない
のだから、イエスの唯一の欲望は、創造された人間をすべ
殺すことであったことは、論理上、当然である。聖書の、
「俺を信じない者は、死ね、殺せ」の趣旨の、イエスの言葉
だけからでも明らか。「一粒の麦の喩」の意味も、「俺のために
死ね」以外にはない。一粒の麦が多くの実を結ぶのは、それが
生きているからだから。
イエスにあったのは「創造(あるがままのすべての人間)」に
対する限りない憎悪と殺意のみであった。
イエスが処刑された罪状は、宮清めという暴力行為と、「俺は
神の独り子」という言葉による神の冒涜であったことは、あまりにも
明らか。重罪犯罪者イエスの汚れた血で、他人の罪を贖うことが
出来ないのは常識であろう。復活は、イエスを棄てたペトロの
罪悪感故のl幻覚であったことは、聖書学者の結論。 精神病の診断は、他の病気とは異なり血液検査やCT検査や
問診などを必要としない。社会の不特定多数人(健常者)の
言動とどれほど異なっているかを判断すれば足りる。
イエスの言動は、聖書に詳細に書かれているので、それに
従って判断している。聖書を全面的に書き換えれば、イエスは
健常者になれるのです。
現に、聖書の時代でさえ、イエスを身近に知るその家族、
郷里の人々、仲間のユダヤ教徒は、イエスを気違い、悪霊憑きと
正しく判断しているではないか。それができないのは、イエスの
狂気の感染(感応精神病)によって狂わされた信者だけ。 聖書のイエスには、妄想のほかの陽性症状、たとえば幻覚や
認知機能障害(知能低下)も揃っている。「神とお話しできる」
という対話性幻聴は、最も重症だと言われている。知能低下は、
彼のすべての言葉における論理矛盾から明らか。疎通性の
欠如は、彼の、他者の感情に対する生き生きとした反応の
欠如や愛の欠如がそれを証明する。弟子が迫害されるのを
予め知りながら、「己が神(一番)になるになる」という野望のために、
弟子を宣教に送りだす。「俺のために死ね」と言う。これ以上の冷酷さ、
愛の欠如があるか。 やっぱり、宗教って駄目だな。争いばかり。生産性は皆無。
ありもしない神など信じることから間違っている。
それぞれが、己の生命(肉体)のみを神として、それを精一杯生きることだ。
旧約聖書は、いみじくも、生命を聖霊としているではないか。 キリスト教の発生については、聖書学者佐藤研氏の「はじまりの
キリスト教(岩波書店発行)をお読みください。そのあとがきで、
著者は、次のように述べています。
「こと初期キリスト教においては、その形成の歴史そのものが
決して理想的な愛と信仰の軌跡を描いたものではなかったし、
し、また多くの点が、後代理想化されて述べられる姿とは異なって
いることが最近とみに明らかになってきた」。
「いわゆる先進国キリスト教が21世紀に再び創造的意味を
発揮しうるとすれば、すでにキリスト教の当初からあった
ネガティヴな側面や従来の見方では不徹底な側面を十全に
吟味し、同時に、新しいキリスト教が何に立脚すべきかの
思索探究を改めて己に課す時であろう」。 >>4
生物の歴史は本当に面白いね。
バクテリアから様々に分岐して、大量絶滅しては分岐して増え、大量絶滅してはまた分岐して増え、
地球という「シャーレのゼリー」に繁殖するカビのようだw
バクテリアを祖先に持つ多様な生物は兄弟や親戚みたいなもんかな。
んで、お互いに依存し合っていて、食物連鎖はある意味での共食いみたいなもん。
ひとつの種類が絶滅しても大したことないんだが・・・
今は、ヒトの活動が種の大量絶滅を引き起こしてるとも言われてる。
まあ、繁栄し過ぎたヒトの文明が絶えても、生物はシブトク生き延びるもんなー
とは言うものの・・・太陽系もいずれは終わるんだけどw
また何処かの星という「シャーレのゼリー」に繁殖するんかな?
なんともロマンチックな話だもんね。 私が今でも後悔しているのは、50年も前に、人の命を救えなかった
こと。
山間の渓谷に、家族とともに遊びに行ったとき、他家の子供が溺れた。
泳ぎのうまい二人の男性が潜って必死に捜索していたっが、なかなか
見付からない。私は、他の人々も飛び込んで捜索を助けるよう呼びかけ
ようと思ったが、深い川だったので、二次被害を恐れてやめた。子供が
見付かって岸に上げられた時、やはりその二人の男性が懸命に人工
呼吸をやっていたが、人工呼吸に習熟していない自分はやれなかった。
しばらくして医師がきて注射などしていたが、結局は子供はその場で
死んだ。子供のお母さんは、ただおろおろするだけで、何もできなかた。
それ以来、医学の専門的研究を開始し、現在に至る次第。
今までに、医学の知識によって、自分を子を含むかなりの人数の
人々の命を救えたのが、唯一の自分の救いである。 お誘いありがとう。最近は、体力も衰え、外出も難儀で、医科歯科には通院していません。
もう、何度も転んだし、大学病院の待ち時間も耐えられない。治療は近くの開業医です。
もっぱら、室内での仕事と5chへの書き込み、外国語と最新医学の勉強に専念しています。
私の見解は、5chへの書き込みがすべてです。
のぞみちゃんのお仕事は、「人間の命を救う」という最も大切な、素晴らしいお仕事。
解剖生理学をやれば、身体(生命)という複雑、驚異、神秘の中に「神」を見出せるはず。
宗教の神という人工神とは、比較になりません。医学の急速な発達もフォローして、身体
(生命)の中に、神を見出してください。 自然とは、あるがままのすべての人間とあるがままの自然、即ち
「創造」のことである。己が創造主に成るという狂気の野望を抱いた
イエスは、その創造を憎悪し、破壊しようとしたのである。 誰の、どんな質問だったか忘れたが、唯物論は、観念に過ぎない神を
語らず、神の被造物としての実在に最大の価値を認める。価値は、
実在のみから生じる。人間は、実在に100%依存しなければ、一瞬も
生存できない。イエスも例外ではない。「パンがなければ、生きられない」。
従って、無神論者・唯物論者が最も神に近いという逆説が生じる。 そんなものが哲学とは言えないw。
生来の心を入れ替えたら、自分が自分ではなくなってしまう。
自分の心に赤の他人のイエスが入り込み、自分を操作するのを、
精神医学では「させられ体験」と呼び、統合失調症の症状の一つ。
イエスは、「愛」を定義できていない。単なる言葉(記号)に自己
陶酔しているだけ。イエスに洗脳されれば、精神の自由は全く
なくなる。すべてイエスに拘束される。シャロンさんを見よ。 イエスゆえに、数十億人に人間の生命が奪われました。
すべて信者がイエスの教えに忠実に従ったからです。救いとは、
「人間の生命を救う」ことのみです。「人間を殺す」ことではありま
せんよ。
イエス故に理由なく生命を奪われた数十億人の人間に向かって
「救い」とは何事か。あなたには、彼らの最後の断末魔の苦痛の
叫びが聞こえないのか。人類にとって、イエスはサタン以外の何者
でもありません。オウム信者の処刑が近づいたようだが、オウムは
キリスト教の億分の一も、人を殺してはいない。しかし麻原は死刑
です。 そんなことを、聖書のどこに定義しているか。
「己の欲するところを、他にも施せ」。このイエスの中心教義から
して誤り。己の欲するところを、他も欲するという保証が、一体
どこにあるか。これでは、己のエゴの押し付けにしか過ぎない。
東洋では「己の欲せざるところを、人に施すこと勿れ」と否定形
である。ユダヤ教も否定形。この否定形と肯定形との間には、
巨大な意味の相違があることを、幼稚なイエスには思い至れ
なかった。 「善きサマリア人の話」において、イエスの真意は、サマリア人に
かこつけて己の気に入らない祭司とレビ人とを非難することだった
ことも理解できないのかね。バルトの目は、一体どこに付いているのか。
イエスは、最も近い隣人である家族やユダヤ教徒も愛せなかった。
何が隣人愛か。
イエスは、ユダヤ教が賢明にも隣人愛に付した「同胞」という制限を、
己がユダヤ教の神になるという野望から外してしまったため、「愛とは
最も身近な者に対して始まるべきもの」という創造の本質に違背して
しまった。
このように、イエスのすべての「教え」なるものは、己の気に入らない
者に対する非難とセットになっていることを見破れ。これは、隣人愛とは
対極の「憎悪」でしかない。
イエスの唯一無二の関心は、己が一番、己が神になることであるのも
見抜けないのか。そのためには、迫害されることが分かっている
宣教にも、弟子たちを送り出した。一体どこに、人間に対する愛があるのか。 イエスのサマリア人に対する特別の関係と好意は、「サマリアの女」から
明らか。そして、ヨハネ福音書では、イエスはサマリア人。
祭司とレビ人は、イエスが敵対する神殿勢力。何のことはない、イエスは
己自身のために、祭司とレビ人との名を挙げて彼らを悪者にし、非難
しているのである。
祭司とレビ人が、被害者に気付いて気にかけていながら、道の向こう側を
急いで通り過ぎたのは、ユダヤ人は死体を見ることは禁じられていた
のである。イエスがそのことを気づいていたのなら、彼ら二人の名を挙げないで、
単に「他の通行人たちは」とさえ言えばよかったのである。
何が、バルトがいうような「普遍的隣人愛の喩」か。全くその対極である。 溺れた子供が引き上げられて、人工呼吸が始まった時、
私の女房は子供のところへすっ飛んで行き、「早く来てー」と
私を呼んだ。私が普段、医学の勉強をしていることを、彼女は
知っていたからである。しかし私は行けなかった。
ミッションの女子大を出ていながら、勉強は嫌いで、特に聖書の
時間が最もつまらなくていつも寝ていたという彼女のほうが、
神だったのである。 >そのキリストの狂気とやらが人類を救ったのです。
イエスゆえに、数十億人に人間の生命が奪われました。
すべて信者がイエスの教えに忠実に従ったからです。救いとは、
「人間の生命を救う」ことのみです。「人間を殺す」ことではありま
せんよ。
イエス故に理由なく生命を奪われた数十億人の人間に向かって
「救い」とは何事か。あなたには、彼らの最後の断末魔の苦痛の
叫びが聞こえないのか。人類にとって、イエスはサタン以外の何者
でもありません。オウム信者の処刑が近づいたようだが、オウムは
キリスト教の億分の一も、人を殺してはいない。しかし麻原は死刑
です。 聖書におけるイエスのすべての言動から、イエスがサタンそのものであった
ことは明らか、「俺を信じるためには、親も子も棄てよ」。この言葉だけでもサタン。
キリスト教によるの人間の大殺戮の歴史が、イエスのサタン性を如実に証明している。 君のそのような考えこそが、キリスト教による人間の大虐殺の原因であることを
自覚せよ。そんな愚かなことを考えている動物が、どこにいるか。だから彼らは
同属同士の生存に無関係な大殺戮という醜悪極まりないな行為はしない。
君はキリスト教そのもの。哲学などやらないで、近所の精神科医で治療を受けなさい。
学ぶなら、公園の小動物の観察から、人生と哲学を学びなさい。 すぐに創価学会を持ち出すな。イエスで狂われていない人間は、すべて同じことを
考えている。君も、精神科による治療の対象だ。君は、精神科にかかったことがあるだろ。 イエスもクリスチャンも、「人間は動物の一種属、自然の一部に過ぎない」という、
自明の事実に思い至っていない。
「人間が自然状態を離れ、神になった積りになり、善悪を知る」ことを原罪とした
旧約は、物凄い真理ではないか。これはまさにイエスとクリスチャンのことだ。
この原罪を犯したクリスチャンたちは、神の怒りに触れ、果てしない殺し合いを
続けているのだ。
原始キリスト教は、ユダヤ教の超異端なのだから、ユダヤ教徒によって皆殺し
にされても仕方がなかったのである。しかし。「殺す勿れ」の十戒を守ったユダヤ教は、
それをしなかった。ユダヤ教が、キリスト教とはけた違いに高位の宗教であった所以。
アブラハムを試すために、その息子イサクを殺すことを命じながら、殺す寸前で止めた
神。誠に感動的である。この場面だけでも、旧約は読む価値がある。 イエスキリストは、ナザレ村のしがない大工の子倅で、まともな教育も人生経験もない
気の狂った若者。イエスが創造主になることなど、天地が逆さになってもあり得ない。
「イエスが神」は、狂人イエスの「自称」に過ぎない。
君らクリスチャンは、イエスの狂気が感染した精神病者(感応精神病)である。
聖書を読むより、精神科の治療を受けること。3か月程度の入院治療で、イエスは
間違いなく消滅する。 ナザレ村の大工の子倅で、気の狂った若者イエスの狂気の感染は、本当に恐ろしい。
マルクス主義、イスラム教、ナチスという更なる巨悪まで生み出した。人類の悪は、
すべてイエスの狂気から発生しているということ。イエスはまさに「悪そのもの」
である。 犯罪者の死を見て「救われる」とか、キリスト教が死の宗教、罪の宗教、サイコパス
の宗教、殺人宗教である所以。
キリスト教にとって、すべての人間は罪人、殺人は己の救い、喜びなのである。
イエスは、十戒の「殺す勿れ」という絶対的掟を否定し、「悪い奴は殺しても
よい」と言った。その「悪い」は、イエスの個人的独善に過ぎないではないか。
「殺す勿れ」は、「自分が悪人だと思ったら、殺してもよい」というものでは
ない。無条件の禁止である。唯、自他の生命を守るため(正当防衛)のみに許
されるのである。それが十戒の「殺す勿れ」の意味である。イエスのこの「殺す
勿れの」絶対性の誤解と否定が、キリスト教による人間の大殺戮を生み出した
のである。すべてイエスの「創造(あるがままのすべての人間)に対する畏敬と
愛の欠如」の結果である。その畏敬と愛の欠如は、イエスの「己が新たな神になる」
という狂気の野望から生じている。 他人が何を言ったかではなく、聖書におけるイエスの言動から考えて見よ。
「十戒の殺す勿れの否定」「体を殺すも者を恐れるな」「俺を信じるためには、
親も子も棄てよ」よ」「平和ではなく、敵対をもたらすために来た」「俺のために
死んだ者だけが、永遠の命を得る」。
これだけでも、イエスが「悪そのもの」であることは、明らかではないか。
「悪そのもののイエスによる十字架の贖罪」の命題が成立する訳があるまい。
「十字架の贖罪」は、もっぱら、パウロがパウロ教を作るためのでっち上げ。
生前のイエスの念頭にもなかった。イエスが一体、聖書のどこでそんなことを
言っているか。 >それは人の罪が原因だな
ほら、そうやって、イエスは殺されても批判できない精神状態にあるため、すべて人間の
罪にしてしまうことが、まさにクリスチャンによる人間の大殺戮の原因なのだ。いい加減で眼を覚ませ。 >>35
論理的に説明して欲しいんだけど
1.イエスはキリスト教徒を洗脳し異教徒を虐殺した
2.にも関わらず教皇はそれらの蛮行を包括的に懺悔した
3.ということは現代のキリスト教はご隠居の言うイエスの洗脳を脱した
とならないか?
もしくは、最後の結論が
3.ということは1.は教会の罪でありキリストの道に反した行為であったことを認めた
となるよな
どちらかが解になるけど、どちらの解もご隠居のお気に召さないから、スルーされるんだろうなーw ちなみにキリストの教えでは>>57の解は後者になりまつ
fin〜 >>36
>.にも関わらず教皇はそれらの蛮行を包括的に懺悔した
馬鹿か。元凶であるイエスを主と仰ぎ続ける限り、懺悔にはならない。 隠居の十字架・・・我が子が川で溺れているのに見殺しに。 隠居さんのまとめページでしたね、すみませんm(_ _)m 隠居よ、きみが我が子を見殺したことは既にばれた。
そして君は既に裁かれてる。イエスを神と信じれられないという罰を
いま君は受けているのだ そのマザーの言葉ほど、無礼な言葉はない。今でも忘れられない。
招待された他国で、「あなた方は心が貧しい」とは何事か。
己の宗教エゴ故に、「イエスの苦しみを味あわせるために」、
極貧の中で死にゆく人々に、医療も薬剤も与えなかった
己の「心の貧しさ」はどうなのか。己の病気の時は、最新医療で
治療を受けた己の心の貧しさはどうなのか。己は、数十億円の
預金をしていたという心の貧しさはどうなのか。
いかにもクリスチャンらしい上から目線の思い上がりと冷酷
さである。「ふざけるな」と言いたい。 先の大戦の敗因を一言で云えば、「日本人が、イエスやパウロの思想の
真の恐ろしさ」を理解できなかったからだと思う。彼らの目的は、「世界
征服(神の国化)」以外にはないのだから。かの現実感覚あふれるローマ
大帝国さえ、キリスト教によって滅びた。 イエスに隣人愛などない。イエスは、最も近い隣人である
家族や仲間のユダヤ教徒も愛せなかった。「俺を信じる
ためには、親も子も棄てよ」。彼のユダヤ教徒に対する底
知れぬ憎悪を見よ。
隣人愛も、例によって旧約の猿真似。旧約は、隣人に「同胞」
という重要な制限を設けた。愛とは、生存共同体における
最も身近なものから始まるという創造の原理を知っていた
からである。己自身が創造主に成るという狂気の野望を
抱いたイエスは、「神になった積りで」軽薄にもこの制限を
取り除いてしまった。その結果、創造主が与えた隣人愛が
破壊され、人類の大殺戮という現象が生じたのである。
イエスは、創造主が与えた隣人愛の破壊者だったのである。
彼の言う隣人愛とは、すべて己のこの肥大し切ったエゴの
産物であることが、明らかではないか。イエスにとっては、
人に仕えることも、「己が一番になる」というエゴの産物だった
のである。 「科学」としての聖書学の進歩により、キリスト教は遠からず
消滅する。既に。復活はペトロの幻覚で、事実ではないとし、
神概念は大昔の人間の妄想で、現代では「生命」が相当する
という学者も複数いる。 隠居に隣人愛などない。隠居は、最も近い隣人である家族や我が子もも愛せなかった。
「俺は医学を学んでいる。もしもの時は俺が救ってやる」。
彼のイエスに対する底知れぬ憎悪を見よ。
医学も、例によって猿真似レベル。医学は、隣人を救う仁術。
しかし隠居は医学を学ぶ身で我が子を見捨てた。
愛とは、生存共同体における最も身近なものから始まるという
創造の原理を知っていても、溺れる我が子より、恐怖が勝ったのだ
己自身が医者に成るという素っ頓狂な野望を抱いた隠居イエスは、
「医者になった積りで」軽薄にも誰を救えると豪語していたが
実際は我が子を見殺しにするという「子殺し」の現象が生じたのである。
隠居は、創造主が与えた隣人愛の破壊者だったのである。
隠居の言う隣人愛とは、すべて己のこの肥大し切ったエゴの
産物であることが、明らかではないか。隠居にとっては、
人に仕えることも、「己が一番になる」というエゴの産物だった
のである。隠居は我が子も救えないエゴの化け物なのだ。 神だのイエスだの愛だの、余計なことを「考える」からいけない。
創造主は、人間の肉体を作り、それに生命(聖霊)という己のすべてを
吹き込んだ。生命は、肉体の隅々にまで存在するのだから、肉体そのもの
が聖霊だ。肉体から発する生命の指示に従い、懸命に生きる。これが創造
(神)を生きる唯一の道。創造主は人間を、人間の感情と理性を以て、
自立的に生きることが出来るように創った。「考える」ことは、生きること
ではなく、もはや死んでいることである。それはそのまま、創造の冒涜で
あることを知らねばならない。
肉をしきりに否定するイエスは、創造主(神)を知らなかったのである。 生命教は、40億年前の生物の発生以来の、すべての生物
にとっての唯一の普遍の宗教。生物であるイエスもその
信者。生命の指示に従い、食い、かつ飲んだ。夕食にも、
ワインは欠かさなかった。「肉」を否定するイエスも、たっぷり
肉のついたデブであったw。 「キリスト神話は、罪の自覚とそれにもかかわらず赦されて在る人間
という洞察を象徴しつつ、同時にまたキリスト信仰を救済の条件と
するエゴイズムをも内包している。それは「キリスト神話」成立時点で
すでにそのようなものであり、今日においてもなおそうであり続けて
いる。これらはすべて表象を絶対化し、その絶対化された表象に
固着化する自分を正当化しよとするエゴイズム(=我執)である。
人間のエゴイズムを克服するために生まれたはずの宗教、いのちを
生かすためにあるはずの宗教は、それ自体が宗教エゴと化して、
いのちを殺すようになった」(「宗教の倒錯」上村静著、岩波書店)。 >「自分を正当化しよとするエゴイズム(=我執)」
ところで隠居さんや村上さんはこのエゴイズムから解脱できているのかね。
「まあ、そのう」といって頭をかくわけでしょ。 イエスの言葉は、旧約の言葉の猿真似に幼稚浅薄な精神性を付け加えただけで、
内容は全くなく、しかも論理矛盾と裁きによる脅迫に溢れている。
彼の病気の症状としての知能低下と極端に肥大したエゴの結果である。彼の言葉の
意味内容は、洗脳された信者があれこれとでっち上げたもの。どんな狂人の言葉であっても、意味のでっち上げは可能である。
イエスの関心はただ一つ。己が旧約の神になること。そのため、創造主の創造に
よるあるがままのすべての人間を憎悪したのである。すべての人間の死を求めて
いるのは、それが理由。 一神教だから、神は一つ。ヤハウェのみ。アラーも当然、ヤハウェである。
ナザレ村のイエスは、ヤハウェを冒涜して処刑された犯罪者だから、
神であることなどはできない。
旧約の「主」とは、ヤハウェのこと。イエスではない。クリスチャンは、
イエスについて、旧約の「主」を使ってはならない。
すべての人間が、神の似姿、神の子なら、人間イエスもその一人
とlして当然含まれる。
以上が、一神教における神理論。罪人イエスだけが余計なのである。 キリスト教だけは、神の冒涜者の狂人イエスを、こともあろうに創造主
の地位まで祭り上げるという冒涜の行為を犯したため、神の怒りに触れ、
すべてのクリスチャンが狂乱状態に陥ったのである。これほどの冒涜
を犯した一神教は、他にはない。
イスラムテロも、すべて、キリスト教の過去の蛮行に対する報復なの
である。すべては、イエスの「生命(肉体)を忘れた精神性という狂気」
が原因である。 統合失調症の最大の症状は妄想。イエスの「俺は神の独り子」という
巨大妄想の症状だけで、イエスは教科書的な統合失調症。
キリスト教とは、イエスの狂気の集団的一大感染という、精神医学的
現象以外の何物でもない。
イエスの言動を一つ一つ批判的に観察すれば、その幼稚浅薄な内容
空虚と論理矛盾と創造(あるがままのすべての人間)に対する果てしない
憎悪から、この病気の症状としての知能低下および疎通性の欠如(冷酷
さ)は、一見してあきらかである。
「復活」も「贖罪」も、イエスを神に祭り上げるための「聖書の嘘」である。 そんなことは毛頭ない。イエスはユダに向かって、「お前は生まれてこない
ほうがよかった」と言ったのだぞ。聖書を、初めから有難がらないで、聊かでも
知性的に(批判的に)読め。
「謙遜」という言葉も、イエスの辞書にはない。イエスにとっては、人に仕える
ことも、「己が一番」になるというエゴの目的のためだった。
その統合失調症の症状としての、イエスのエゴの極限までの肥大に目を背けるな。 「死」とは、「全脳の機能の喪失」だから、死後はいかなら思考も感情も
生じない。
クリスチャンは、イエスが十字架によって自分たちの罪を償ってくれた
などと、寝言のように言っているが、イエスはそんな重要なことを、生前に
聖書のどこで言っているか。贖罪は、パウロの発明に過ぎない。「贖う」の
原義は、身代金を支払って奴隷を買い戻すことである。イエスが「贖う」と
言ったとすれば、それは奴隷を買い戻して、己の奴隷にするという意味に
過ぎない。イエスが人間を罪人呼ばわりしたとしたら、それはイエス自身の
罪である。 適齢期の男性が女性に、女性が男性に近づくのは、創造主が
人間に与えた恩寵だぞ。近づいて、何が悪い?君は、神を
冒涜していることになる。
聖職者に痴漢行為が特に多いのは、彼らが、イエスによって
奪われた神を取り戻そうとする本能的な努力なのだ。 イエスは、群衆が社会秩序の維持のために石打ちしようとしていた
娼婦を、「罪のない者だけは、石を投げよ」と群衆に罪悪感を
植え付けて助けた。しかし、イエスは、すべての犯罪者を、
同様に助けたのか。その場合、社会秩序の維持はどうする
積りだったのか。イエスが娼婦の性的魅力故に助けたのなら、
彼は「心の中で姦淫の罪を犯した」ことになる。群衆に罪悪感を
植え付けたイエスの行為は、罪ではないのか。
イエスも女に石を投げなかったばかりか、女と仲良くなってしまった。
イエスも「罪ある者」だったのである。 セクハラは批判するが、キリスト教による数十億人の人間の大殺戮は
批判できない、狂人クリスチャン。
キリスト教による人間の大殺戮は、専ら、己が創造主の座を簒奪した
かったイエスの、創造(あるがままのすべての人間)に対する限りない
憎悪による。少なくとも、岩波キリスト教辞典の「宗教戦争」の項目で、
キリスト教による人間の大殺戮の歴史を一覧せよ。
創価がそんない嫌なら、キリスト教も「生命の尊厳」の教義を掲げて、
創価に対抗して見よ。それが絶対にできないのが、殺人鬼イエスを
神と仰ぐキリスト教だ。 隠居さんは掛け軸の民(創価学会員)ではないかと囁かれていますが。 思い返すと
どこに向かって走ってもそこにはイエズスの影があった。
隠居さんはその度に舌打ちしてツバを吐いてきたんだ。
そろそろ今生にケリをつけなければいけませんわな。
旧約の神とマリア様に取り入っておけばなんとかなりますかね。
恐ろしい掛けですよ。苦笑。 ハァイ♪
さいきん悟りを開いちゃいました!(笑)
ブログやってます。
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/
お気軽にコメントくださいねー。(´艸`*) イエスの処刑は、弟子たちにとっては、単に「イエスは死んだ」だけで。
恥ずべきことに過ぎなかった(佐藤研)。復活は、ペテロの幻覚であり、
事実ではない(上村静)。イエスの処刑は、ローマの記録にもあるが、
復活という「大事件」については、一切ない。復活も、「聖書の嘘」で
あることは明らか。
パウロの伝記に付いては、大昔に読んだだけなので、記憶は乏しいが、
パウロが容貌怪奇な小男で、特に目が悪く、宣教の同行者とはすべて
喧嘩別れしたことだけは覚えている。 狂人イエスを首にして、人間の持つ神性、即ち生命(聖霊)、又は
ユダヤ教へ回帰する以外には方法はなかろう。
そのような提案も、キリスト教内部で既になされているようだ。教皇
レベルでは、理解していることだろう。
イエスの狂気が、イスラム教、共産主義、ナチスという、人類の巨悪を
生み出したという事実だけでも、恐ろしいことだ。 例えば、イエスの「隣人愛」という言葉を考えて下さい。ユダヤ教は、隣人に
「同胞」という枠をはめていた。愛とは、生存共同体における最も近い者に
対してから始まるという、創造の意味を知っていたからです。イエスは、最も
近しい隣人であるはずの、己の家族やユダヤ教徒を限りなく憎悪した。
イエスが、隣人愛とは何かを知らなかったからです。
愛とは、「顔の見える相手」に対してから始まる、その生存を守るための
「行動」です。顔も見えない相手に対する「空想の感情」ではありません。
孟子に出てくる話だが、ある中国の王が、屠所に引かれて行く牛を見て
哀れになり、部下に、「羊に代えよ」と命じました。王は、羊を見たことが
なかったのです。これが隣人愛の真髄です。 ここは人間界だから、空想上の架空の神の愛など不要・有害。神の愛が人間の愛を
破壊しているのが、キリスト教による人間の大殺戮という実状。
神の愛は、人間には計り知れないもの。人間が神になった積りで、神を解釈し、語る
ことが原罪である。キリスト教は、この原罪を犯したため、神の怒りに触れ、果てしない
殺し合いを続けているのである。 まだ神など口走っているのですか。神は、人間が科学について無知蒙昧だった
時代の古代人の妄想。妄想だから、どこにも実在しません。空想の存在です。
人間の魂には、人間としての秩序があります。人間に非ざる神の愛は、人間の
愛を破壊します。キリスト教による人間の大殺戮を忘れているのではないですか。
聖路加病院が、神や聖書で治療していますか。すべて、人間による最新の治療です。
あなたの教会は、一体何を教えているのですか。教会は、聖職者の生計のための
営利なのですから、教会など一切信じてはないません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています