>>204
どちらも真実なんじゃないかなあ〜
ある時は極悪人が石と同様に浮き上がる事はない。
でも、ある時は唱えと浮き上がる事はある。
どちらも真実の側面を示している。
どちらも間違っているし、
どちらも正しい。
四句の検証法によって、
是でもあり、
是でも無い。
非でもあり、
非でも無い。

極悪人とそれを見ながら、何かその人を救おうと唱える人の存在を因縁で観察したら分かる。

そんな人を助けようとする人の因縁。
極悪人にして、救おうと願われる場に遭遇出来た人の因縁。
仏教の因縁観察をしたら、日蓮の題目を唱えたら救われるは、間違っている意見も、
正しいと言う意見も、
両方正しいし、
両方間違っている。
そもそも、
仏陀の存在が
衆生という極悪人を悟りに導きたい願いで説法し続けて祈り続けている姿なんだから。
自分自身の努力が必要だと強調したのが自灯明。
教えに従い救われるのが法灯明。
自と法だけで済むならば、
自分以外の僧も師も仏も不要な訳で、
やはり他者の祈り(アドバイスや救われて欲しいという思い)は必要。