法華経の一念三千は、究極の内省の哲学です。自分は特別に尊いのだ、などという傲りをだれ人にも許さない平等の哲学です。

人間尊厳の哲学です。

極善の仏にも、悪の生命が具わり、極悪の提婆にも、仏の生命が具わると見る。

その上で、「悪との戦い」を続けているか否かによって、現実は、善と悪の軌道に、遠く正反対に分かれてしまう。

そして、じつは、この一点に、提婆達多品を読むカギがある。結論を先に言えば、悪との「限りなき闘争」こそ、提婆品を貫く魂なのです。

(法華経の智慧より)

提婆品で、釈尊が成仏したのは「皆提婆達多が善知識に因るが故なり」(法華経 p424)と説かれていることです。

提婆達多がいなければ、釈尊も仏にはなれなかったと。

天台大師も『法華玄義』で「悪によって善あり、悪を離れて善なし」(巻五)、また「悪は是れ善の資(善を助けるもの)なり。

悪なければ、また善もなし」と述べています。


そこだね。善と悪とは「実体」ではない。どこまでも「関係」の概念です。

ゆえに、一人の人間がはじめから善人であるとか、悪人であるとか決めることはできない。

牧口先生は、「善人でも大善に反対すれば直ちに大悪に陥り、悪人でも大悪に反対すれば忽に大善になる」と言われていた。

また、わかりやすく例えて次のようにも言われている。

「顔回がもしも孔子に反対したとすれば、亜聖が直ちに大悪人に陥らなければならず、この孔子がもしも釈尊に反対したとすれば、直ちに極悪の果報を結ばなければなるまい」と。

遠藤: 顔回とは孔子の弟子で、亜聖、つまり孔子に次ぐ聖人と言われていました。

その顔回が孔子に背くのは、中善が大善に背き、一転して大悪になる。その孔子も極善の仏に背けば極悪になる。

なるほど、善悪は関係性ですね。