悟りの階梯である「四向四果」について書いておくのぢゃ

おおよそ凡夫とは、登山者みたいなものぢゃ。最高の悟りは山の頂上付近にあり
山を登れば登るほど、下界を見渡す視界が広がるように、真理が見渡せるのぢゃ

では、凡夫はどこら辺に居るかと言うと、実は登山道すら見つけられず
ずっと街道を彷徨っておる状態なのぢゃ。そして仏道を志して山道へ進める
だが、山道へ入ったところで登山口がなかなか見つからないのぢゃ
この状態の者が非常に多いのぢゃ。これを「預流向」というのぢゃ

人によってはこの預流向の時期が、数年〜数十年、あるいは死ぬまで続くのぢゃ
人は熟睡中や気絶中や、死んでしまえば誰でも悟りの境地には居るのぢゃが?
要するに大勢の者は、悟れぬ前に死んでしまう。死んで悟ってハイお終い、ぢゃ

さて、運良く「体験」を得て、あるいは長い行を重ねて預流果と成れた者は
「阿羅漢果に成ることが確約された者」なのぢゃ。以降の修行は無いに等しい
この者らに成れて、ようやく登山者が登山口を見つけられたようなものぢゃ
言うなれば、悟りの登山という荒業は、いきなり始めから100m級の岸壁をよじ登り、あとは高地を歩くだけなのぢゃ
預流果に成れた者は、この時点から「私は悟った」と自称しても良かろう
そうせずとも他の覚者が「あなたは悟っている」と告げてくれよる

そこからはもはや誰の助けも要らん。登山と言うより、まるでロープウェイぢゃ
日が経つにつれ心の視野は見る見るうちに広がっていくぢゃろう

そうして正確な数では無いが人には108つの煩悩があり残り8つまで消せた者が
預流果だとすると、最後の一つでつまづいて居る者が、一来向なのぢゃ
それを解脱できれば一来果。これ以降はあっという間に不還向となる
心にある疑念の殆どが剥がれ消えて無くなっており達観の域も常人を遥か超える

悟りはすぐに煮詰まっていき、不還果となり、俗世への執着が完全に消えると
阿羅漢向、そしてその物はブッダと同じ域の阿羅漢果に至るのぢゃ
山頂から見渡す限りの絶景を快く見るが如く、この世の全てが美しく見える (-人-)