さあとりあえずの私にはさつぱり解らないけど?一の如しの山の頂上から見た眺めは一望に皆見えるし町々の人々は何と小さい
事くよくよしてと思えるのかも、でも損な事は下らないと思っても人休みしたら下らないに下らなきゃいけません。位置の仕事
が待つ町々に下って行くのがさあとりあえずまあええか。
我々の各々個人の心は個人真理として世界がばらばらとして身得るのだろう。そのうえの国の心もあるし考えが雪詰まっている?
でも個人が人のことまで面倒な苦労すると苦しいし、でも家族の面倒は見ないと活けない野鴨。
一  趙州と犬  趙州さまに、ひら坊がたずねた。「犬にも仏の性質がありますかね?」 趙州がいう、「無じゃ!」
 無門がいう---------禅には開祖このかたの関所があり、悟るためには行きづまらねばならぬ。関所も通らず、行きづまりもせね
ば、まったく草木同然のたましいだ。 ところで、その関所とは何かというに、ただこの[無]ということ、これがこの宗の関所
だ。だからその名も[禅宗無門関]通りぬけた者は、趙州に会えるばかりか、代々の祖師がたと手をとって行き、まゆ毛がくっつ
き、同じ目で見、おなじ耳できく。すばらしいではないか! 通ろうとするものはないか? 三百六十の骨ぶし、八万四千の毛穴
、全身をもって疑い、[無]の意味を知れ、よるひるひきしめて、[虚無]にも落ちいらず、[有無]にもかかわるな。焼けた鉄
のたまをのんだようなぐあいに、はき出すこともならず、これまでの無分別をとろかし、だんだん練れてくると、しぜんに内もそ
とも一つになる。オシが夢を見たようで、ひとには知れないが、パッと打ち出せば、えらい事になる。まるで関羽さまの刀を手に
入れたようで、仏も開祖も、みんななで斬りにし、生も死もないまったくの自由、どこにどう生きるにせよノンビリしたもの。