私は何故坐禅や瞑想さぼつて後回しにするのだろうか?現実的に役立たないし、暇が無いと思うからか?じゃ書き込みは
あまり現実では役立たずなのに続いているこの差は何だろう?書き込みは見える文章になつているからか?それとも習慣
か?書き込みしないとサボった感が残るこれは今までサボってないから休むと気になるからか?要するにいままでの行為
の習慣の連続が今の私の坐禅や瞑想竹刀につながっている。忙しいとか暇ないとかは理由にならない。でも何か役立ち感
がないとやる気も怒らない。心つて身が伴わないと頼るのは習慣しか無いのに昔は少し瞑想や坐禅続いていたなあと思い
だすけど、いっのまにかやらなくなつたのはホカホカの用事が割り込み後回しになっていったからか?反省はどうでも
よいけど今行動する坐禅のエネルギーが力なくうなずく不味い。要するに最初は意識的に坐禅や瞑想してそれが習慣に
なれば無意識というか機械的に毎日行えるだけ理屈はどうでもよいけど今やるエネルギーが無い。書き込みも最近やらされ
感が多い。でも我々凡夫は行動は身得るものが必要でこき使われても何かやった感がないと行動しない。形の無いものは
張り合いないし坐禅瞑想は習慣しか頼りない。また思考の瞑想だけ ぽ師匠もあきれているけどはっかネズミの様に
空回りに明けて暮れる毎日 如何書き込み昨日と一緒だ。