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外道の独り言 8
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0626神も仏も名無しさん垢版2018/04/26(木) 23:31:39.43ID:QW7l59Ve
隠居の劣化版は、いつの時代も
キリ無く湧いてくるもんだな・・・
0629おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/04/27(金) 11:46:01.54ID:GmBg+FhB
 
>>628

ご教示ありがとうございます
  _  _  _

>あなたたちは科学技術という船に乗って悟りを目指しなさい

向こうスレに誤爆してしまいました スマソ m(_ _)m
0630神も仏も名無しさん垢版2018/04/27(金) 13:38:00.97ID:5vRl15K0
https://i.imgur.com/GqDT3LK.jpg
https://i.imgur.com/Aa22cqD.jpg
https://i.imgur.com/EmLbrTI.jpg
https://i.imgur.com/TH4AHBv.jpg
https://i.imgur.com/vuokJD1.jpg

https://i.imgur.com/4Ql4UbD.jpg
https://i.imgur.com/iAn6ayX.jpg
https://i.imgur.com/3xXbDJp.jpg
https://i.imgur.com/UWihP15.jpg
https://i.imgur.com/nt5fHq1.jpg

https://i.imgur.com/NxdpjnH.jpg
https://i.imgur.com/bBTWvt1.jpg
https://i.imgur.com/QeuTA5H.jpg
https://i.imgur.com/myxtaO0.jpg
0631おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/04/27(金) 14:38:34.64ID:GmBg+FhB
 
>>630
にゃる =^・ ・^= ほろ

それゆえに
ttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf
ダルマキールティとかの場合は
光が輝くとき
その輝くこと(照明)を本性とする故
自己自身を照らす
そのように
智も自己を認識する
智は光の如く
照明することを本性とし
自ら輝き現われる

 − これに対して −

カマラシーラとかの場合は
自性である。と掴もうとしている『想い』ではない

という中観帰謬派とかの導きで おじゃるな?

ご教示ありがとう おじゃる m(_ _)m
0632神も仏も名無しさん垢版2018/04/27(金) 21:02:48.25ID:fVZFLatt
>>627
>根拠はありません。
>あくまで後世の弟子達が行ったように、「釈迦の覚ったのはこのような内容だったのではないか」
>という推論に基づいて仮説を述べる、というものです。


自身の体験(≒相似体験)が無いなら、大川・浅原の言説と変わりない。

「文献」や、「伝承者(組織(サンガ))の教説」を無視するなら、
自身の体験(→【追体験】)が、 「ああ、確かにお釈迦さんの言う通りだ」
と頷けていないとならないわけだけれど・・・。
0633宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 03:26:00.28ID:wxbe6+8q
>>612
>生き地獄で運気の上昇等々
>無意味じゃろう? (^o^;)ノ

---宝珠の対機説法---
“三世の業報(前世からの報いと来世の生まれの決定)などはない”という人には、
私も、『悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。
しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。
のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。』(>>615)と語る。
しかし、開運の法などはないという人には、
仏教は運命決定論ではなくその人の行為(身口意の三業)によって未来は変わると説く。
現れた果報の中を生きていく上で、本人の努力(これ無しでは作用しない)を後押ししてくれる
高次からの援助を得る不思議な法やオカルト法則を用いた智恵で運気を切り開くことができるものと説く。
0634宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 03:29:25.92ID:wxbe6+8q
>>589
すみませんでした。
大変、遅くなりましたがやっと書き上げたので投稿します。
話は何も難しいことではなくて、誰にでもできる簡単で継続できるものであることが重要だと私は思っています。
(長文の連投で失礼します。興味ない方はスクロールして下さい)

 >>591
 >後ほど私の実体験とこの私が実際に実践している事柄から、
 >“高次の力の援助”(現世利益)を得て道を切り開いて運気が好転するための話をしたいと思います。
0635宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 03:39:58.87ID:wxbe6+8q
∽∽∽∽∽高次存在からの援助(守護)と霊的成長の補佐∽∽∽∽∽

この私自身も実際にしていることであり、
そして、誰にでも簡単にできることとしてお薦めしたい以下の三つのこと
 @「マイトLーヤの手形」の使用 
 A「護摩札」(不動尊の分身分霊を入魂)を祀る 
 B“パワーグッズ”の着用(a.加持済の「腕輪念珠」 b.「御守り」 c.「ルドラクシャ・ビーズ」)

@「マイトLーヤの手形」の使用(NGワード指定にて「レ」→「L」で代用)
 マイトLーヤの手形は2001年8月、スペイン・バルセロナのある家の浴室の鏡に突如として美しい立体的な3次元の手形として奇跡的に現
れました。これはマイトLーヤの実際の手の痕であり、かなり大きいなものです。マイトLーヤは援助を求める人たちに、マイトLーヤからの
癒しと援けのエネルギーを喚起するための道具としてこれを提供されました。マイトLーヤはただ私に素直に援けを求めれさえすればいいとい
われているので、助けて欲しいことがある人は心素直になってマイトLーヤに援助を求められれば良いと思います。体の病気や体調不良の癒し
とか生活の苦しい状況についてなど...は、その人のカルマの許す範囲において治癒と援助が頂けます。ただし、個人的な物欲の「高級車ベン
ツが欲しい」といったお願い事には成就に100万年かかるかもしれませんが(笑)。
 方法はこの画像(デジタルファイル映像、コピー転写した画像のいずれでも効果に違いなし)に自分の手をかざすか、ジッと見つめてあなたの
想いを念じて届けること、ただそれだけです。中には医師も奇跡として認める転移した末期ガンがたったの1日で消えたものもあるようです。
0636宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 03:41:24.70ID:wxbe6+8q
 これは私個人の体験についてです。当時の私は生活で困っていることをいろいろと抱えて苦しんでいました。けれど、ただ素直に求めなさい
と言われているにも関わらず、どうもあまりに恐れ多くてお願いごとをするのにも気が引けてしまい、数年間、ただ部屋に飾って手を合わせた
り、感謝を述べたりだけにしていました。6年近くも交際して結婚する気だった女性と(私のオカルト宗教好きが嫌われて) 破局。その後はどん
なに努力しても彼女すらできずに何年も経過...。とうとう途方に暮れて根負けして、後にも先にも初めとなるたった一つだけのお願い事をした
のでした。「どうか運命の女性である(恐らく過去世で繰り返し夫婦であった筈の)生涯の伴侶と出逢いたい」と。すると、なんともその効果はテ
キメンでした。何年どんなに頑張ってもダメだったのに、それから2カ月もしない内に、私の元に1枚の出会いを求めている見知らぬ女性の写
真が回ってきたのです。こんなことは初めてでした(尚且つ、それは元々、私のためのものではなかったにも関わらず)。私はその時、「コレだ!」
とピンときました。そして、その女性がその後、交際2年を経て結婚した現在の私の妻なのです。
 この女性が私の運命の伴侶だと感じるのは、いくつかの類似や偶然の重なりがサインになっているかのようだからです(重なる偶然は意味ある
必然であり、“徴”や“知らせ”であると私は理解します)。私は父が長年の炭鉱勤務だった関係にて炭鉱地での転校を転々と繰り返す少年時代
を過ごしましたが、妻は偶然にも父親が同じく炭鉱勤務で一時期、私が転出したあとの夕張市の同中学に登校していた後輩だったことが分かり
ました。妻の父親は炭鉱事故で亡くなっていますが、私の父親も炭鉱の後遺症による塵肺にて死亡。そして、その命日は私の父が5/16で妻父
が5/17、なので法事法要はいつも連チャンとなる(全くの同日でないことは幸い)。そしてまた、私の誕生日が1/26で妻が1/27のこれもまた連
チャンなのでお祝いも2日間続きです。更には、私の父も妻の父も同じく秋田県出身で単身北海道という経歴であり、両家共に秋田の菩提寺は
禅宗ですが、理由があって母方の浄土真宗の世話になっていた(私の方だけ、その後に父の逝去をキッカケに真言宗寺院を分家の菩提寺に)。
0637宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 03:44:03.94ID:wxbe6+8q
 そして、また何よりも有難いことは、この私の宗教的なライフワークに対して心がオープンであり、常にこの私を支えてくれて多くのことで
協力してくれることです。妻と結婚するに当たっては、私からは自分のこの宗教生活について告白して了解をお願いしました。すると妻からの
返答はこういうものでした。「あなたのしたいように好きにして下さい。ただ社会や人様の迷惑だけはかけないようにすること。そして、自分の
健康は大切にして絶対に危険なことや無理だけはしないこと。それから、やるからには徹底して真面目にやること」。
 私は度々、「君はマイトLーヤが引き合わせてくれた女性なんだよ」と言うんですが、するといつもトビっきりの笑顔で笑ってくれています。
また、妻からは「来世でも私をお嫁さんにして欲しい」と言われたときには、「こちらこそお願いします。いやきっとそうなるさ」と答えました。
ということで、いつも心優しい妻には私は心から感謝をし、そして、この妻のことを引き合わせて下さったマイトLーヤに深く感謝しています。
 (マイトLーヤからの愛は、私がもう少し若い頃に肉体にて私の眼前に突如として現れて下さり、そのお体に触れ言葉を頂けたこと。そして、
最愛の妻を引き合わせて下さったことです。)

“マイトLーヤの手形”
 http://www.share-international.org/maitreya/images/Maitreyahand2.jpg
 http://www.share-international.org/maitreya/Ma_approach.htm
石川道子講演会『桁外れの時代に突入した』[質疑応答]
 http://sharejapan.org/library/movie/17im_qa
  (31:28 ・マイトLーヤの手形について)
「徴を求める者は、それを見つけるだろう」
 http://mgz.sharejapan.org/wp-content/bn201607/sinews/magazines/si5n7k/04zpzf/cm29sj/1y51lg.html
0638宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 03:47:45.44ID:wxbe6+8q
マイトLーヤとは、
サンスクリット語で弥勒菩薩として仏教では呼ばれている方であり、
ゴータマ仏によってその出現が預言されてきた未来仏です
(イギリスのベンジャミン・クレーム氏の情報によれば、マイトLーヤ仏はすでに肉体にて人類社会の中に入られており、
その使命を世界に公表する奇跡の“大宣言の日”のタイミングを待っているという)。
マイトLーヤはゴータマをオーバーシャドゥされたシャンバラのブッダの兄弟であり、
過去インドにおいては弟子の肉体を通したクリシュナとして、シャンカラとして、
また、西洋ではイエス・キリストとしてご自身の教えを説かれた。
イエスの時代にメシアとして認知できなかったユダヤ教徒たちの過ちと同様にして
(現代においてもユダヤ教徒はイエスをメシアと認めていない)、
今日、部派から継承した間違った無我の理解や唯物化した志向などによって、
このマイトLーヤの認知に失敗する可能性が危惧されるのが現仏教徒です。
「仏教だけが唯一の真理であって...それら○○は仏教ではない」といった硬直した古いドグマに呪縛された感覚などでは、
決してこのマイトLーヤを認知できないでしょう。
今度は、仏教徒たちが試されるときがきたのです。

「神智学の説く、“マイトLーヤと世界五大宗教の関係”」
 http://houjugusya.web.fc2.com/world5.htm
「キリストの再来と奇跡の水」(94年頃放映/日本テレビ『スーパーテレビ』)
 http://www.youtube.com/watch?v=ajp5p0b0-6E
特命リサーチ200X /病気を治す「奇跡の水」トラコテの水
 https://www.youtube.com/watch?v=hjQPnqb-Jl8&;t=0s&list=PLdTuL9vR0CUY7aoPWg1iiEiYOHHVvkQmi&index=65
0639宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 03:53:20.54ID:wxbe6+8q
A「護摩札」(不動尊の分身分霊を入魂)を祀る
  『究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、
   その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。』(Sn.458)
  『マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。
   施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。』(Sn.509)
  『火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー[讃歌]はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。
   王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。』(Sn.568)

 伝統密教の寺院(密教には東密<真言>と台密<天台>があるが、できれば密教を専門とする由緒ある正統な真言宗寺院を推奨する)による不動
護摩(仏教よりも更に古いバラモン・ゾロアスター教を起源に持ち、現代まで連綿の継承された儀礼修法のホーマhoma)の浄化にて祈祷された
「護摩札」をお祀りすること。お祀りの仕方は難しいことはなく、家庭のお仏壇(宗派や考え方の相違によっては適さない場合あり)か神棚で、
もしくは、清浄なできれば高い場所にて綺麗な白い布などを敷いたその上で祀ること。方位は南向きか東向きがベスト(また、できれば東北/
西南の鬼門/裏鬼門は避けた方がいいが止む得ない場合はお祀りを優先のこと)。普段は最小限、燈明とお水を毎日あげて、できれば不動真言
を(7回)唱えて念ずれば良い(供物については任意)。もちろん、更にもっと良いのは開眼した不動明王の尊像(仏像または掛軸)をしっかりと
祀ることです。ただし、この場合には御給仕は徹底すべきであり、燈明、香(塗香もあれば尚可)、花、水(茶)は必須で欠かせない。そして仏
飯、供物もなるべくあげるようにしたい。また、可能であれば毎日、不動真言だけでなくて一通りの御法楽(勤行/経読誦)を捧げられればより
効果的です。尚、尊像の開眼は必ず正統密教の由緒あると東密寺院をお薦めします(私は、その他すべての顕教寺院での開眼をパワーの観点か
らまったく信用していません)。
0640宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 03:55:45.72ID:wxbe6+8q
 私の場合は、父が亡くなって新たに仏教寺院にお世話になる関係上、ご縁あって現在の真言宗智山派の不動明王本尊の成田系寺院を菩提寺と
した経緯があり、これを良い機会に自己の向上を図る修行の一つとして本格的な真言式の祭祀と勤行に取り組みました。その結果、あらゆる方
面において抱えていた苦悩が僅か数年ですべてが好転。私自身の仕事関係と健康状態をはじめとするあらゆる事柄が当初では考えられないほど
向上して安泰。今では何一つの悩み事というものが私自身に対してはなくなりました(人生において初めてのこと)。家族関係もこの信仰の下で
一つに行動するようになり(実家と私のところと姉夫婦のそれぞれの家で不動尊を祭祀)、こうして初めて家族が明るい一つのものに纏まること
ができました。これは不動明王の祭祀による開運、不動尊信仰による御加護の賜物であると私は確信しています。あとはまだ母親の健康面と実
姉に関しては少し心配がありますが、今後も欠かさずに継続してお祈りを続けたいと思います。
0641宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 03:56:51.61ID:wxbe6+8q
 (体験エピソード-----とある評判の占い師に、私がお祀りしている不動尊についてお伺いをしてみたところ、「あなたは時折、無理を強いる
ところがあるからお不動さんがあなたのことをとても心配されている」というものでした。何か心当たりがないかといわれてハッとしたのです。
ちょうどその頃、悪天候の中を無理して不動尊霊場の札所巡りへとマイカーで向かう準備をしていて、さぁいざ出発だという時になってなんと
突如、これまで過去に体験したことのない強烈な睡魔に襲われて動けなくなってしまったのです(そういう出来事は自分の人生で初めて)。
 私が爆睡から目覚めると、なんとTVニュースでは私が向かおうとしていた峠の道路が大規模な土砂崩れで崩壊したことを報道していました。
これには私も仰天して顔が青ざめました。もしも、そのとき無理して行っていれば崩落の中に巻き込まれたか、または豪雨の中で確実に途方に
暮れて立往生していたことは確実なのでした。占い師にそのように話すと、「うむ、そのことに間違いないでしょう。不動尊があなたのことを
とても心配しているので、今後は絶対に無理をしないで気を付けるように」と言われました。私はこの不動尊の心優しい慈悲の御加護と不可思
議な力に対して、ただただ感謝しています)

 勤行にて唱えるものは何でも構いませんが、できれば「般若心経」と「光明真言」は含めたほうがいいでしょう。もちろん、「不動真言」は
必須です。私自身は真言宗智山勤行式をベースに自分でアレンジして増補したものを読誦しています。
0642宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 04:04:35.50ID:wxbe6+8q
 ※ 尚、天部(諸天の神々)信仰は、私個人的にはお薦めしません。諸天は解脱した仏ではなく自我意識が強いので、現世利益の即効性は優れ
ていても見返りを要求したり、また意に反すれば障りを受けることすらあります。

B“パワーグッズ”やアイテム(a.加持済の「腕輪念珠」、 b.「御守り」、 c.「ルドラクシャ・ビーズ」)
 「腕輪念珠」や「御守り」については特に説明は不要かと思います。「腕輪念珠」の材質は好みで何でも構いません。そのままの念珠タイプ
でもいいし、いわゆるパワーストーン型でもいい。いずれにせよ、こちらも必ず真言寺院で加持祈祷済のものを着けられようお薦めします(祈
祷の有無でエネルギーの強さに雲泥の差があり、最初の内は慣れるまではイズくて着けているのが辛いほどパワーを感じたりします)。そして、
必ず左手首の方に着用するようにすることです(空間のエネルギーが流入する側が左手なので、こちらに祈祷済の腕輪念珠をして不浄の流入を
遮断し、尚且つ、腕輪のエネルギーをこちらから取り込むため)。それから、パワーストーンは肌に接するよう直接、着けないとストーンとし
ての効果は期待できません。
 「御守り」も同様、密教による本物の加持祈祷をしたお守りの霊験話にはまったく事を欠きません。私の知っている範囲だけでも、交通事故
に遭ったけれど無事に助かって帰宅すると家においてあって誰も触れていない身代わり守りが割れていた。部隊の兵隊たち全員に御守りを持た
せたところ、戦地にて幾度となく戦闘してきても全員が奇跡的に無事生還を果たし、その部隊の快進撃に対しては昭和天皇から表彰がされた。
サラシの中に身代わり守りを入れていたところ、銃弾に打たれても御守りに当たって無傷で済んだ(証拠の銃弾の穴が空いたサラシの公開があっ
た)。等々...。
0643宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 04:06:09.95ID:wxbe6+8q
 「ルドラクシャ・ビーズ」(金剛菩提樹の実による珠数)はお守りというよりは、自己の霊的成長を促進する修行の援けとなる凄いアイテムと
してお薦めします。ヒンドゥー・ヨーギであれば、まず必ずといっていいほどほぼ全員が首に掛けて長く垂らしているのを見かけますが、これ
を掛けていると不浄から身を守り、自己のチャクラを刺激して活性化させる絶大な作用があります。敏感な人ならば熱のように感じるその強い
パワーに圧倒される筈です。こちらもできるだけ肌に直接着けられることをお薦めします。また、ルドラクシャ・ビーズの説明にはシヴァ神が
うんぬん...のヒンドゥー的な長い話が付いて回るのですが、特にヒンドゥー教に関心ない方はそこはスルーしていいです。ヒンドゥー教のプロ
の司祭には細かな規定が沢山あるようですが、一般人はそこまで気にする必要はない。ただ、トイレに行く際には外すこと、夜寝る時には祭壇
やケースにしまって下さい(浄化用水晶に置くなどもとても良い)。これを使用する人にはその人が何教徒であろうと無信仰者であろうと同様の
効果が得られます。

ルドラークシャ(ルドラクシャ)について
 https://sitarama.jp/?mode=f5
 https://sitarama.jp/?mode=f8

 インドの哲学者にて密教学者のアミヤ・クマール・バッタチャリア博士(1887〜1964)が古代アーユルヴェーダを元に研究して開発した「宝
石光線療法」という医術が確立しています。これは臨床実験によってその著しい治癒が確認されている科学であり、これも鉱石の持つパワーを
証明したものです。

息吹なブログ: アーユルヴェーダ gem therapy{宝石光線療法}の導入 2
 http://osteopathy-ibuki.blogspot.jp/2008/12/gem-therapy_25.html
0644宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 05:05:48.99ID:wxbe6+8q
以上.


>>628
おおっ!! 
おじゃるさんがそれほどパワフルに実行動してるとはとても感心しました...
私も、初めて密教瞑想「阿字観」の指導を受けて通って見ようかと思っていたけれど、
車で2H先の阿字観道場の開催日が月1回だけの第3日曜日と限定があり、
尚且つ、私の勤める会社の受注が増大して工場も拡大。
当然、勤務(交代勤務で夜勤が日曜から開始される)も激化して未だに実現しません。
なので、更に禅系寺院の開催についてもチェックしてみたいと思います。

また、テーラワーダにも関心ないわけではないので、
その内、スマナサーラ長老とも会える日がくるかもしれません
(車で行ける距離にある小さな研究サークルが時折、講演依頼で長老を招いている)

あっ、来月20日〜二泊三日で、
母親を連れて成田山新勝寺へ参拝と見学の旅行に行ってきます
成田山開基1080年祭中の記念大開帳(10年に一度)です。
0645おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/04/29(日) 05:20:30.95ID:qArQMAIU
 
>パワフルに実行動してる

パワフル言うても13秒でつ
(「13秒間だけしかできない」という意味でつ)

「そして雑念に押し流されて逝く」と言うことでつ

フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ

今のところは↑これを13秒くらいまで おじゃる

(フォーカシングは心理療法 おじゃる)

たとえば
上座部 2.0とかの場合は
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
呼吸を見るときに
30分〜1時間
この間に、他のことや妄想、思考が入らないように

というような決まりごとがある。と云うことでつ m(_ _)m
0646宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 05:53:00.95ID:wxbe6+8q
>>645
いや、実際に開催会場へと足を運ぶ行動力が大切でしょう。
修得の度合いについては個人差があるのは必然なので、
けれども体験することそのものが重要で意味がある。
実践するその意欲が素晴らしいと思う。

私も瞑想の集中は実際に苦手です。
ヨーガのテクニックとして眉間のアジュナー・チャクラに意識を留めるようにして、
聖音「オーム」を唱えるならば(心に想うだけでもよい)、
思考(雑念)の影響を受けなくなります(思考している空間とは別の空間に入るので無影響になる)。
これの旨い人はいいけれど...私は無影響状態に入るのに時間を要します。
この状態になると時間が分からなくなるので、
終了した時には驚くほどの時間が経過しています。
つまり、軽いサマーディの状態。

とにかくお互い不得意同士ですが、
これからもメゲズに頑張りましょう!
0647おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/04/29(日) 06:41:41.77ID:qArQMAIU
 
>思考している空間とは別の空間に入る

この「別の空間から見る」ことを
大乗1.0とか3.0とかは
『仏の世界から観照する』と説明してるようでつ

↓仏の世界から「何を観照するのか?」

上座部 2.0とかの場合は
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
五禅支の一番目
ヴィタッカ(尋)

[仏の世界から観照して]
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを手放して
>思考している空間とは別の空間に入って
呼吸の観照に戻してくる

五禅支の一番目の世界に戻る
(仏の世界に戻り帰る)

元々は
仏の世界から → 縁起している世界へ
縁起している世界から → (元の)仏の世界へ戻り帰る

これが
大乗1.0とか3.0とかの世界観である(らしい?)
0648宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 07:07:14.25ID:wxbe6+8q
>>639
訂正:
 「浄化にて祈祷された」→「浄火にて祈祷された」
0649おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/04/29(日) 07:11:14.68ID:qArQMAIU
 
[仏の世界から観照して]
>思考している空間を
  空間すべて手放して → 別の空間に入って

呼吸を観照して
五禅支の一番目の世界に戻る
(仏の世界に戻り帰る)

仏性からの真如縁起をもって
 → 頼耶縁起を観照する

頼耶縁起を観照して
真如縁起をもって
(元の)仏の世界へ戻り帰る

戒・定・慧・解脱・解脱智見
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も)

慈悲の冥想
生きとし生けるものに
光り輝いている智慧と慈悲をもって
悟りの光が現れますように

一切の如来の御足を礼拝し奉る
(この場合の如来は「生きとし生けるもの」という意味でつ)

酒は呑んでないけど
蚊とかを滅殺してるので。戒律は守ってないでつ スマソ m(_ _)m
0650ポッタン師垢版2018/04/29(日) 10:08:33.38ID:n8jB+7bZ
智慧と慈悲を持っていない、バカおじゃる、の登場である。
宣伝隊長に任命する。
0651神も仏も名無しさん垢版2018/04/29(日) 14:34:16.63ID:7Udt/dR4
宝珠氏が弥勒や不動明王の加護を受けたりまたそれらの仏や真言宗を信じるようになったのもそういうカルマを生得的に持っていたからです
全てはカルマです
0652宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 15:31:59.77ID:wxbe6+8q
>>638
補足:
 
神智学上で知られているオーバーシャドウ(弟子の肉体を用いる手法)によるマイトLーヤ直の教えは、
バガヴァッド・ギーターのシュリ・クリシュナ、不二一元論(アドヴァイタ)のシャンカラチャリア、
新約聖書のイエス・キリスト、そして、二十世紀最高の哲人/ジッドゥ・クリシュナムルティから発せられたもの。
クリシュナムルティは14歳のときに神智学協会の幹部にして最強のオカルト能力者レッドビーターにより、
巨大で神々しい特別なオーラを放つ少年として見出され、
世界教師マイトLーヤの乗船となるべく協会により引き取られて徹底した英才教育を受けた。
当時の彼は実際にマイトLーヤのオーバーシャドウにあったが、
当時の協会の在り方(腐敗した幹部たち)に反発して34歳のときに人間宣言をして脱退した。

>>650
あなたが馬鹿にできるものではない。
彼は真理を知るための勉強に熱心であり、
そして、瞑想にも挑戦している。
0653宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/29(日) 17:51:01.00ID:wxbe6+8q
>>651
確かにそうかもしれませんが、
しかし、カルマは新たにつられるものでもある。
0654神も仏も名無しさん垢版2018/04/29(日) 19:53:35.76ID:qM8yHspz
カルマは常に作られるけど今生において誰もが悪業を浄化し清算できるというわけでもありません
カルマを清算できるのは生まれながらにカルマを清算できるカルマを持っている人です
五姓各別の無性(無種性、無姓有情)として生まれてきたものは善行の果を善業として積むことはできないというカルマを持っています
0655神も仏も名無しさん垢版2018/04/29(日) 22:25:43.75ID:XO2U52s2
「業」の考え方を運命論にしてはいけない。

『自覚と反省と償いによってフォローし得る』というのが、
お釈迦さんが示された、他あらゆる宗教に無く、勝る、最大のポイントなのに。
0656神も仏も名無しさん垢版2018/04/29(日) 22:36:17.90ID:XO2U52s2
ああ、質問箱スレ消失したか・・・。


ま、2ch自体、(5chになったしw)古き良き姿は失われて久しいか・・・。
同時に、(マインドフルネスの流行も後押しして)
「(伝統)仏教」の魅力は薄れる一方か・・・w

そうかといって「神智学、スピリチュアル系」が評価されるようになるか、
といえば、んなことはなかろうがwww
0657神も仏も名無しさん垢版2018/04/29(日) 23:59:11.14ID:kizrrVyf
>>641
曹洞宗で不動明王を拝んでもいいんだったかな?
菩提寺には釈迦牟尼仏と観音菩薩と地蔵菩薩の仏像と仁王像はあるが不動明王像はないしなあ
しかし甘露門という曹洞宗で読むお経には光明真言とかもあるから大日如来の教令輪身の不動を拝んでも罰は当たるまい
ご利益があるかも分からないけど
0658宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/30(月) 00:23:35.20ID:JtuP1Dqt
>>657
こちら地元には曹洞宗でその名もそのまま「明王寺」というのがあり、
炭鉱会社が安全祈願のために招来したという成田不動(成田山開眼の不動尊)が
閉山後にこちらで今も大切に祀られています。
なので宗派的には何も問題なしでしょう。
ただ、菩提寺の僧侶が月参りなどでお仏壇を拝したときに、
急に、新たにお不動さんがあると驚かれるかもしれません。

宗派的には真言宗を嫌うのは、浄土真宗と日蓮宗でしょう。
それ以外は特に問題はない筈です。
(事情あってお仏壇で一緒にお祀りできない場合は、
別場所にお不動さん専用の祀所を設けるしかありません)
0659宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/30(月) 00:28:59.06ID:JtuP1Dqt
>>657
追記:
 禅系は意外や真言陀羅尼を多用しています。
 まっ、ご専門の方がおりますが...。

>>655
同意
0660神も仏も名無しさん垢版2018/04/30(月) 00:49:18.96ID:yggW5Jxr
ミラレパというチベット密教の僧侶は若い頃に呪術で何十人も呪詛して殺したためにその悪業を恐れた

業を浄めるべく師を求めマルパという聖者と出会い
浄めるための過酷な労働といった苦行や殴る蹴るの虐待の末についに悪業は消失し
最高の悟りを得て灌頂(密教版の洗礼)を授けられた
悟りの果報として空を飛ぶなどの神通を得たとされる

しかし悪業は苦行や虐待で浄められて完全に消えてはいなかったようである
その後も質素な生活をしつつ壮大な寺院で贅沢に暮らしていた学僧を批判していたりしたが
最後は彼の名声に嫉妬した学僧に殺されてしまったのだから
0661宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/04/30(月) 01:32:45.46ID:JtuP1Dqt
それは、
まだまだ完成者(覚者)ではないということ。
神智学情報ではミラレパの進化段階は3.5にて、阿那含前後のレベルということ。
その師マルパは覚者にほぼ近い4.5段階でした(覚者は5.0)。
0662神も仏も名無しさん垢版2018/04/30(月) 19:35:28.47ID:SlBPfnP0
>>655
「業」の考え方を運命論として決定づけたのはシャンカラというヒンドゥー教ヴェーダーンタ学派の哲学者。

シャンカラは、究極の真理を知って最高の境地(解脱)に至ることができるのは、上位3ヴァルナ、すなわち再生族のみであるとする。
シュードラ以下の者たちは真理を悟る資格がないというのである。
この考え方は、ヴェーダ以来のバラモン中心主義的な伝統的・保守的観念を継承したものである。
元来ヴェーダの祭式は上位ヴァルナが行うものとされ、またヴェーダを学習し真理に到達できるのも再生族に限られるとされていた。
シャンカラはこの正統派の哲学的伝統を立て直すことを意識するあまり宿業論も復活させてしまうのだが、このような立場に基づく限り、すべての者が至福に至ることはできないことになる。

このような教義に対する一種のアンチテーゼとして、万民の救いに可能性をひらく方法が模索されるようになる。
「バクティ」がそれである。
0664おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/04/30(月) 20:00:12.29ID:e5Png5cZ
 
にゃる =^・ ・^= ほろ

掴もうとしている想いを手放して

バクティ
絶対的、献身的な拝礼、信仰を特徴とする
神の名を一心に称え

大日如来も、そして
一切の如来の御足を礼拝し奉り

思考している空間とは → 別の空間に入り

解脱を知覚して
涅槃に住む

安心(あんじん)
仏法の功徳によって、迷いがなくなった安らぎの世界

ヒンドゥー
 → 釈迦
 → 根本仏典
 → 中観派
 → 瑜伽行派
 → 密教にも受け継がれているのでつね?
0665神も仏も名無しさん垢版2018/04/30(月) 23:03:17.91ID:kQcHNORr
>>658
ありがとうこざいます
これからは不動明王も信仰します

曹洞宗では道元は真言宗についてどう思ってたかは知らないけど
常済大師瑩山紹瑾禅師が密教を積極的に取り入れたので少なくともそれ以降は色々な仏を当たり前に敬うようにはなってるようです

甘露門陀羅尼
http://jyosokuan.hatenablog.com/entry/2017/06/19/

しかし明王寺とは曹洞宗らしからぬ名前ですなw
と思ってたら自分の地域の不動尊講の取りまとめは菩提寺の曹洞宗寺院でしていることを今日知ったw
うちのところでもそうだったのか…
0666神も仏も名無しさん垢版2018/05/01(火) 00:40:24.09ID:p/wI5MSq
>>663
神智学という学派?ではシャンカラの教義を取り扱うのかな?
私は知らない。

ちなみに業と輪廻について、神智学によると今のキリスト教では復活の日の審判を説くが、本来の聖書には輪廻転生の教えがあり、その後それが削除されてしまっているらしいよ。

近代神智学における「ルシファー」と陰謀論者からの悪魔崇拝認定の原因
https://togetter.com/li/965169

>>662について補足すると、ヴァルナとは色という意味で、インドでは社会の階層を分けるのに四つのヴァルナに分けている。
これを四色というが、この場合のヴァルナとは皮膚の色のこと。
一方で金色はス(優れている、妙なる)ヴァルナと呼ばれ、永遠不変・常住であることを意味し、無常である凡夫のヴァルナとの対比で仏陀(如来)のヴァルナはスヴァルナつまり金色であるとされる。
それを示す一つのエピソードがある。
「孔雀経音義」や「五輪九字秘釈」に記されているのだが、空海が即身成仏の教えを大勢の人々に示す必要が生じたとき、
空海は宮中の清涼殿において天皇と百官その他の人々の見ている前で、まばゆいばかりの金色の毘盧遮那仏(大日如来)の姿に変わったとされる。
日本においては空海が唯一無二の仏陀であったとされ、それを示す代表的なエピソードである。
0667神も仏も名無しさん垢版2018/05/01(火) 00:50:19.03ID:p/wI5MSq
>>664
四色の最下層のシュードラのみならずその更に下層の不可触民までもが救済されるとされるバクティの普及によりヒンドゥー教は仏教やジャイナ教を駆逐していくことになる。
しかしバクティにおいては不可触民の献身的な信愛がしきりに讃えられ、身分が救済の妨げにはならないことは強調されるが、身分制度そのものは否認されているわけではない、ここに注意が必要。

バクティ以前のシャンカラの教えだと、シュードラや不可触民は仏教で言えば一闡提とか無種姓と言われることになる。
もちろん仏教では身分差別はしないのでシュードラや不可触民でも求道すれば悟れるとする。
0668神も仏も名無しさん垢版2018/05/01(火) 09:11:02.73ID:Iw6sGAJV
>>665
宜しくどうぞ(^-^)ゝ゛
旅先から失礼します。
0669神も仏も名無しさん垢版2018/05/02(水) 00:43:31.20ID:kjcJs8/6
クムダセヤドーの合宿に参加したとき、釈迦族が滅んだのは、永きに渡って川に毒を流して魚を獲って食べたのが原因であると、セヤドーは話していました。
このセヤドーのお話から、魚を食べた人たちは確実に殺生のカルマを背負い、殺される運命にあるということです。
http://www.shinzenho.org/shinzenho/top.php
0671神も仏も名無しさん垢版2018/05/03(木) 16:40:37.36ID:2s/MNMFK
>>670
釈迦族の場合は毒を流していた川に何の因果か釈迦族を服属させていたコーサラ国の琉璃王の過去世の魚がいたのが運の尽きでした
この琉璃王が過去世の恨みを晴らすべく釈迦族を滅亡させることになります
0672宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/03(木) 16:41:43.94ID:xrHyXgUJ
>>662 >>666-667
まずは、
誤解を避けるために二つの点について説明しておきます。

通常、私たちが“マイトLーヤ(から)の教え”という場合には、
厳密にはこれは「近代神智学」(普段は単に「神智学」と呼ぶ)のことを指してはいません。
近代神智学はブラヴァツキーを通して世に初めて提供されたものであり、
それはジュワル・クール覚者を中心にしてクート・フーミ覚者やモリヤ覚者など
数名のハイアラキーの覚者方からの教示のことです(彼らはすべてマイトLーヤの高弟です)。
それから、歴史上において弟子の肉体を通して顕現する手法であるオーバーシャドウの場合、
オーバーシャドウ以前の弟子当人の言動とオーバーシャドウによるマイトLーヤの顕現中の場合とでは、
当然、その言動と発せられる教えには個性の違いとレベルの高低に違いが生じるということ(これがオーバーシャドウによる二重性質)。
また、その聖者の生涯においていつからマイトLーヤのオーバーシャドウであったのかは各自で異なります。

それから神智学の学習においては、
特にシャンカラの教義を扱うといったことはありません(同じく仏教を詳細に扱うということもない)。
『バガヴァッド・ギーター』ならば随所で取り上げられたりはしています。
0673宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/03(木) 16:43:30.16ID:xrHyXgUJ
そのシャンカラの差別思想というものについて。
これは私自身の勉強不足のためでしょうか、ちょっとよく分かりません
(シャンカラ著『ウパデーシャ・サーハスリー』はこの私も所持しています)。
その理解の根拠となるソースで良いサイトや参考書籍があれば提示して頂ければ助かります。
私の知るところでは、シャンカラの説くアートマンというのは万人平等というものですから、
当然、それは身分や肩書によってはまったく左右されるものではないというもの。
そのシャンカラにカースト差別の意識があるとは思えないのですが...。

 『いったい、サンニャーシン(遊行僧)にとって、カーストの違いや浄、不浄にどんな意味があるのだ?」
--中略--バラモンや、チャンダーラなどというような違いは、ただ単に、狭い心が生み出すものである』
(シャンカラ物語)
http://www.ne.jp/asahi/hindu/vedanta/sankara/s_s_08.html

 『インド最大の哲学者といわれるヴェーダーンタ学派のシャンカラ(A.D.700〜750)の著作『ウパデーシャ・サーハスリー』(『教説百頬』)であった。
シャンカラが、その門を叩く者にまず発する質問は、「あなたは誰ですか?」であった。そのように訊ねられたら、おそらく誰でも「私は前田です」
などと自分の名前を告げるに違いない。それに所属やら、肩書きなどを付けることもあるであろう。シャンカラの弟子も自分の名前・カースト(階級)
・家系などをシャンカラに告げたのである。しかしシャンカラにとっては、これはとんでもない間違いなのであった。何故それが間違いなのであろう
か。シャンカラは、「私」、すなわちわれわれの内にある真実の自己が、名前やカーストや家系などとまったく関係がないことを解き明かしていく。常
識的自己理解の徹底的な否定を通して、弟子を真実の自己理解へと誘うのである。』
(前田專學著『インド哲学-真実の自己を求めて』)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits1996/9/6/9_6_82/_pdf
0674宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/03(木) 16:45:49.36ID:xrHyXgUJ
そして、ヴァルナとカースト制度についてですが、
「ヴァルナ」とはご存じの通り「色」ということであり、肌の色の違いが階級差別にも関わっているものとして説明されています。
しかしながら、私の理解ではこれはすでに形骸化して間違った概念による支配のことであって、
けれども、本来的にはその人の霊的成長を示すチャクラの輝きと発するオーラの色の違いを示すものでした。
覚者や高度に発達したイニシエートであれば、弟子の発達具体はこれらを霊視することによって正確に知るのです。
そして、個人の霊的成長の度合いに応じて、その人に適した生活と相応しい職業があるという意味なのであり、
またその人の意識からくる行為の如何によって人は評価されるということであって、
ただ単に生まれの境遇に拠って尊敬すべきものでも卑しむものでもないのです。
現代に続くインドのカーストは本来の教えが誤用された結果です。
0675宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/03(木) 16:46:32.72ID:xrHyXgUJ
 『偉大な立法者マヌによって制定されたカースト制度は、その起源においては真に賞賛すべきものであった。マヌは、人間が、その性質の進化程度に
よって四つの種別カーストに分けられると観た。すなわち、肉体労働によって社会に奉仕できる人々(シュードラ)、知力、技能、農業、商業、交易、その他
実業によって奉仕する人々(ヴァイシャ)、管理、統制、保護等の能力をもつ人々―政治家、軍人など(クシャトリヤ)、および、瞑想的性格をもち、霊
感に恵まれ、他人にも霊的鼓舞を与えることのできる人々(バラモン)、の四種別である。「人が“天上界に目覚めた者”(すなわちバラモン)であるかど
うかは、その人の血統や家柄や、宗教儀礼や学問によって決められるものではなく、性格と行状のみがこれを決定する」とマハーバーラタは宣言している
(注-「インドのカースト制度において、人が四つの段階のいずれに属するかは、本来、その人の血統や家柄によるものではなく、その人が人生の目標をど
こに選ぶかという生来の性質によって決められるものなのである」)。マヌは人々に、人は智恵、徳、年齢、親族関係、そして最後に財産、のいずれかで
も持っている限り、社会的尊敬を受ける資格があると教えている。ただし、ヴェーダを信奉していた社会では、どんなに財産を持っていても、それをただ
無益にたくわえたり、公益や慈善のために使うことを知らない者は卑しい者とさげすまされた。したがって、りんしょくな金持ちに与えられる社会的地位
は、ごく低いものだったのである。
 だが、このカースト制度も、数世紀の内にしだいに形式化して世襲制となったため、そこから深刻な弊害が生ずるようになった。1947年の自治回復以来、
インドは、門閥によらず各人の個性や能力のみを基準とする古代カースト制度の真価を再認識してこれを復活する運動を、遅々とはしているが着実に進め
ている。地球上の国はすべて、自らの手で敢然と処理解決しなければならない、その国特有の困難なカルマを背負っている。インドは今、このカースト制
度改革の大事業を、柔軟なしかも不屈の精神をもって完成するために奮闘しているのである。』
(パラマハンサ・ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』森北出版p403-404)
0676宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/03(木) 16:48:41.41ID:xrHyXgUJ
>本来の聖書には輪廻転生の教えがあり、その後それが削除されてしまっているらしいよ。

そこで紹介されているものは、
元々、すべて私が投稿したものです。

>仏陀(如来)のヴァルナはスヴァルナつまり金色であるとされる。--中略--
>空海は宮中の清涼殿において天皇と百官その他の人々の見ている前で、
>まばゆいばかりの金色の毘盧遮那仏(大日如来)の姿に変わったとされる。

>>363-364を参照のこと
0677宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/03(木) 16:55:31.66ID:xrHyXgUJ
>>669
過去世(釈迦族滅亡の話での琉璃王)が魚だったためにその人に復讐されたとか...
そのサイトにあるような肉(動物)をたべれば人肉を食べてるのと同じだの... 。
というのは、すべて戒め(脅し)ですね。
そのまま本気で信じてしまえば迷信となる。
もちろん、菜食のほうが良いことは認めますが...。

経典の記述を一句一句ただそのままに受け取るのを原理主義といいます。
まっ、好きで信じている人を私は止めませんが...
(他者に危害がない限りは信じるのは自由ですから)
0678宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/03(木) 17:16:12.64ID:xrHyXgUJ
>>639-641
私は大乗の説く諸仏諸菩薩の中で、
庶民(及び仏修行)の援けとなる信仰対象としては、
「不動明王」「観音」「地蔵」の三尊をあげています。
(如来は直に救済してくれる対象存在ではなく、その他、教義と霊験事例などの印象から直感的にこの三尊を推奨)

中でも特に、私が「不動明王」を押しているのは、
これは顕教にはない空海が導入した密教独自のホトケだからであり、
そもそも空海が唐からの航海において嵐からの奇跡的な生還が
この不動明王の守護力であったといわれているからです(これを波切不動という)。
0679ポッタン師垢版2018/05/03(木) 17:37:03.19ID:xU7qHnPB
678.
それらは妄想の産物である。
0681宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/03(木) 18:39:48.80ID:xrHyXgUJ
>>680
確かに、
大乗の諸仏諸菩薩が架空上の設定であったり、
外道外教に由来するものであったりすることは認めます。

しかしながら、
原始仏教の世界がそのまま現代日本に相応しいとはとても思えない以上、
そしてまた、原始経典の記述がそのまま“ブッダの生の教え”だとはとても思われない以上、
その中身をよく精査しながら摂取し、また大乗からも役立てられるものとして選択利用する智恵があっても良い。
まっ、---自分で考えることを放棄する人---にはできない話ですが...。

“ただ伝統だからと、ただ経典の記述だからといって、
そのまま信じてはならない”(カラマスッタ)というのが
ゴータマの指導方針の根幹であると思いますが〜
なのに原理主義の正統性を主張するとは、果たしてこれ如何に?

原理主義というものは、
エホバの証人たちのように聖書に書いてあるからという理由で輸血否定で死を選ぶのとまったく変わらない。
そんなものは、【自分たちの未熟に拠る誤読に過ぎない】というのに...。

『どんな伝統も、ただそれが古いからとか、何代も受け継がれているからとか、
  多くの地域で受け継がれているからというだけの理由で信じてはいけない。』
『昔の聖者が書いた教えを見せられたからという理由で信じてはいけない。』
 http://hachisu-net.com/issei/kiso.html
0682神も仏も名無しさん垢版2018/05/03(木) 20:31:38.95ID:rkRv0QIb
>>681
リンク先

>善良な生を送っているのに不運なことばかり起きる、と言う人がたくさんいます。
>仏教の師達は、それは過去生の悪いカルマを今生で刈り入れているのであって、調度、植物を植えたらそれを刈り入れるには熟すまで待たなくてはならないのと同じだと言っています。
>カルマもそれと同じです。時には熟すのに長い時間がかかって、今生でしたことが来生で実を結ぶのです。


>先ずカルマの法則がどのように働くか分かっていなければ、生まれ変わりに関わる教えを理解することはできません。
>生まれ変わりはカルマに依存しています。
>今生で良いことを思い良い行いだけをするならば、今ここで良い結果を得るだけでなく、この世の生を終えた時により良い生まれ変わりを得るでしょう。

>人のカルマは、それが良いカルマであろうと悪いものであろうと、実はその人自身であり、カルマこそが別の生に生まれ変わるのであり、天国や地獄、あるいは再びこの世に生まれ変わるのです。
>時には、もしその人が極端に悪いカルマを持っていた場合、動物として生まれ変わるかもしれません。
>とても残酷で血に飢えていて、考えも行動もすべて虎のような人を想像してみましょう。
>このような人が虎として生まれ変わる可能性は充分あります。
>また別の場合を想像してみましょう。
>癖が豚にとてもよく似ている人の場合です。
>このような人が神々しい存在として、あるいは普通の良識的で立派な人としてでさえ、生まれ変わることを期待できるでしょうか。

実に素晴らしい教えが書いてありますね
ありがとうございます
0683神も仏も名無しさん垢版2018/05/04(金) 00:51:28.08ID:4rBQc+0J
>>673
>その理解の根拠となるソースで良いサイトや参考書籍があれば提示して頂ければ助かります。

山下 博司
ヒンドゥー教とインド社会 (世界史リブレット (5))
39ページ
0684宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/04(金) 01:33:47.11ID:5xEcTcig
>>683
ありがとうごさいます。
早速、取り寄せて確認します。
0685神も仏も名無しさん垢版2018/05/04(金) 22:45:07.24ID:Fc/xy0Th
客塵煩悩の否定に繋がる禅語

―本来無一物―(『六祖壇経』)

 「この身体は菩提樹、心は明るい鏡のようなもの。常に拭き清めて塵の溜らぬようにせよ」とトップクラスの神秀上座が言う。
これを聞いた寺男の盧行者(後の六祖慧能)は「身体も心もそのように立派なものではない。もともと実体など無い(本来無一物)のだ。どうして無いものの上に塵の溜ることがあろう」と、自分の心境を吐露した偈の一句。
http://rinnou.net/cont_04/zengo/1610.html

↑サイトには続きとして更に詳しい解説が書かれているが、文中の「空」を「大日如来」に置き換えてもそのまま読めてしまう
禅の本質は密教と同じである
ヒンドゥー教の一元論の焼き直しである
空は大日如来同様にブラフマンアートマンと変わらない基体となっている
基体を認めるのは仏教ではない
ゆえに禅は仏教ではない
0686宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/05(土) 01:56:33.98ID:andNoF3N
>>685
そういうのは、
クリスチャン・サイエンス(キリスト教系の新宗教)系の愚に至る恐れがあるので要注意。
彼らは、「病気というものは実在ではない。病気だと思うのは信仰心が足りない証拠だ」といって医療を受けずに、
結果的に次々と病気で死んでいく...。

実体でなかろうとも、
賢明な我らは毎日お風呂にも入って体を清潔にし、
時にウィルスにかかれば医療も受けよう。

理解の誤った人間にはロクなことはない。
0687おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/05/05(土) 03:23:36.49ID:EiEnbKjs
 
>>685のリンク先
われわれの身体や心も
「一切を超えた根源」から現われ出ている
 − これに対して −
それを「清浄なもの」だと考え
煩悩のような「不浄なもの」を避けようとするのは
「小乗仏教的」な二元論に過ぎない

 − これに対して −
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
光り輝いている(仏そのもの)
これに煩悩とかが取り憑いている

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99
宗教(religion)
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%99%BA%E5%AD%A6
神智学(theosophy)
神あるいは超越者が叡智的性格をもち
宇宙や自然もこのような叡智からつくられ
人間の智も神の智に通ずる性格をもって…
ttps://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E5%A6%82%E7%B8%81%E8%B5%B7-538672
『仏そのもの』からの真如縁起

ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
五禅支の一番目
どこかへ飛んでいってしまう心の働きの世界から
(思考している空間から → 別の空間へ)

呼吸を観照する世界に戻してくる要素がある
(『仏そのもの』の世界に戻し帰す要素がある)
0688おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/05/05(土) 04:09:08.11ID:EiEnbKjs
 
縁起を超えた世界から見る
縁起している世界を観照する

『仏そのもの』からの真如縁起をもって
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れ
プラクリティから様々な原理が展開(流出)して

仮設としての
縁起に依存して
無明薫習に依存して

おじゃるの場合は
(それ自体、単独で成立してる色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立してる色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存している

 − これを対処するために −
『仏そのもの』の世界に戻り帰る。そのために
おじゃるにとっては

思考している空間から → 仏の世界に戻って
仏の世界から観照して
雑念が出てきても ← その辺りに漂わせておく

まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ
0689神も仏も名無しさん垢版2018/05/05(土) 14:45:10.23ID:9XpG/gC0
原始仏教(釈尊在世の時)に注目すべき人物の中に、弥勒という名の人がいたことをわれわれは忘れてはなりません。
これについては、かつて渡辺照宏博士が「弥勒経」という書物の中に書いておられます。
釈尊在世当時弥勒という仏弟子がいました。
この場合は、「スッタニパータ(経集)」という書物の中ででてくるために、その原語はサンスクリット語ではなく、パーリ語で示されるのですが、メッテーヤといいます。
このメッテーヤは舎利弗、目連はもとより、阿難、迦葉にもまさって、釈尊の事実上の一番弟子であったようです。
釈尊の弟子としては、舎利弗、目連は最も古く(この二人は釈尊より先にこの世を去るのですが)この二人に遡って先に亡くなったのが弥勒尊者でありました。
釈尊は、弥勒尊者の亡くなられたことを非常に嘆かれて、この弥勒尊者がその名前のしるしより、兜率天に
もどって死後の自分を待つであろうといったことも伝えられています。
その嘆き悲しんだありさまは、ちょうど、孔子が一番弟子顔回を亡くして、論語の中で繰り返し嘆いておられたことを思いださせます。
このように見てきますと、釈尊の周囲、あるいはより広くいうと仏教の周囲には、(唯識瑜伽行の弥勒論師など)ときどき、弥勒という名前の実在の人物が顔をだし、
その実在性があいまい、希薄になるにつれて、抽象的ではあるが熱心に考えられる、ついに弥勒菩薩という仏が徐々に像を結んでくるということがわかります。
伝説によりますと、釈尊を生んです虐亡くなられた摩耶夫사は、そのまま兜率天に(この世
に生を受けられた釈尊のもとの住処、あるいは弥勒菩薩の住んでおられたところ)に戻られたということになります。
たとえば、釈尊の死後のよみがえりを書いた経典として「摩訶摩耶経(大マヤ夫人経)」というのがあります。
この経典は釈尊のよみがえり後、兜率天にある母、摩耶夫人が釈尊のよみがえりを喜ぶという筋になっています。
この摩訶摩耶経は、偽経(中国でできたお経)と見られていますが、こういう信仰の生じたところに、大きな一つの信仰の流れを見ることができます。
釈尊は兜率天でお生まれになり、この地上に降りられてまた兜率天に戻られた。
あるいは後に釈尊の母である摩耶夫人、または弥勒菩薩が兜率天に戻っておられたという信仰があったといって差し支えないと思います。
0690神も仏も名無しさん垢版2018/05/05(土) 14:53:42.40ID:9XpG/gC0
釈尊はその母とともに天上の兜率天においでになりました。
兜率天はのちになると弥勒仏という未来において現れる仏の浄土とされるようになりますが、その当時すでに兜率天は天の住処として、最も普遍的なものの一つでした。
釈尊の生涯をまとめた伝説にいろいろな形ででてきますが、釈尊の生涯を、成道、すなわち、道を成し遂げる一生といい、これを八つに分け八相道といいます。
その最初は、この兜率天が舞台でした。
この八相をたどることで成道するーー八相成道という釈尊生涯の一代期において、お生まれになる前につ、お生まれになった後に四つというきわめて対称的な展開をみせます。
釈尊がまず永遠の生命をもちながらこの地上に姿を現した、兜率天から下ってくることを「降兜率」といいます。
この降兜率という因縁によって、釈尊の八相成道は始まります。
生まれてからはじめてというのではなく、生まれる前の因縁を辿るというところに、釈尊の出生がその後の生涯に非常に大きな影響を与えるとみます。
0691神も仏も名無しさん垢版2018/05/05(土) 15:02:42.29ID:9XpG/gC0
では、弥勒というのはいったいどういう意味でしょうか。
弥勒とはインドの言葉の音写です。サンスクリット語ではマイトLーヤ、パーリ語ではメッテーヤといいます。
マイトLーヤのもとの言葉はマイトリーという女性名詞です。マイトリーは仏教の重要な語句の一つで、慈悲の慈がマイトリーの訳語です。
ではマイトリーはどこからきているかというと、ミトラという一言葉の変化したものです。
このミトラから遡ることはちょっと難しいのですが、ミトラとは何かというと友達・友人ということです。
インド人の名前でよくミトラー、あるいは何々ミトラというのがありますが、このミトラこそ弥勒の原語として最ももとになるものとして考えてよいと思います。
ミトラは友達という意味で、このミトラからでた言葉がマイトリー(友の気持ち、友達である心)となります。
さらにマイトリーからできた言葉が、マイトLーヤ(常に友達の心をもっている人)となります。
ですから、マイトLーヤを訳すと慈悲の人で、中国の人たちはその意味をとって慈の人、慈氏と訳しました。
しかし、重要な言葉は漢訳しないで音訳するという中国人の習慣に従って、慈氏菩薩というより弥勒菩薩というほうが多いわけです。
あいまいなところはなく、慈悲の心を失わない仏ーーということがここではっきりでてきます。
0692神も仏も名無しさん垢版2018/05/05(土) 15:18:19.42ID:9XpG/gC0
このような慈悲の心を常にもち続ける仏が常時おられる場所が兜率天であるとしたなら、兜率天は慈悲の場所であるといって差し支えありません。
その慈悲を如実に表す人として、釈尊をこの地上につかわす役割をもった摩耶夫人、弟子として釈尊を助け、師よりも先に生命を全うした弥勒菩薩、
そうした人びとすべてを含んでわれわれの地上を暖かく見守る場所が兜率天です。
釈尊自身もこの兜率天からお生まれになったという信仰は、われわれにもう一度仏教の本質、
ここには表れていませんが、最も重要な本質として釈尊の教えないしは人格、さらに仏教の基本的性格は慈悲であるということを強く考えさせるのです。
そしてこの慈悲は天上にあっては、永久に人間にとっての救いの約束として存在し続けました。
しかし、その約束が現実化するには仏陀の出現という因縁がはたらかなくてはならなかったのです。
この因縁のはたらきとして釈尊が地上に現れて、そしてまたこの因縁を終えて戻っていく場所として弥勒信仰、兜率天の信仰が仏教において定着してきます。

のちに仏教において、弥勒菩薩は清い天上の兜率天から地上を見守っている、この地上に仏がいなくなるーー無仏の世が来ると地上に降りてきて、無仏の世を無からしめるという信仰を生じたのも、
すでにこの釈尊の出生にまつわる、おそらく釈尊の死後ただちに生じた信仰と関係があると考えられています。
さらに弥勒が兜率天から地上に降りておいでになるまでのわずかな間でも無仏の世があってはいけないというところから、
当来仏、現成仏(当来仏は弥勒のことで、現成仏とは現在成仏している仏釈尊です)とのすきまを埋めるものとして、慈悲の仏である菩薩が生まれたことで仏教徒の危惧が払拭されるのです。

このように考えてきますと、釈尊の出生伝説の中で最も重要なものは、釈尊は慈悲の場所から生まれて地上にお降りになり、
さらに滅後は慈悲の場所である兜率天にお帰りになって、慈悲の場所からわれわれを一人ずつ守りくださっているということです。
仏教の基本的性格は慈悲であり、これが釈尊の出生伝説の中に表れているということができると思います。
0693ポッタン師垢版2018/05/05(土) 18:51:30.73ID:UqP1QTQt
692.
慈悲、か。
それは迷信である。
慈悲の場所なんてものは存在しないからである。
0694神も仏も名無しさん垢版2018/05/05(土) 20:11:03.87ID:OMh+P31I
.
 「場所がないと存在できない」

なんて言ってると、史朗ちゃんに笑われるぞwwwww
0695神も仏も名無しさん垢版2018/05/05(土) 22:10:26.95ID:IWaTEGj5
>>691
>マイトLーヤのもとの言葉はマイトリーという女性名詞です。マイトリーは仏教の重要な語句の一つで、慈悲の慈がマイトリーの訳語です。

慈、それはサンスクリットMaitra[マイトラ]、またパーリ語Metta[メッタ]あるいはMettā[メッター]の伝統的な漢訳語です。
http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Theravada/paritta/Metta_sutta.htm

真言宗では弥勒菩薩真言は
おん まいたれいや そわか
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1311206023
0696神も仏も名無しさん垢版2018/05/06(日) 00:49:52.37ID:T7vsMADW
ウパニシャッドの哲人で聖仙(リシ)と呼ばれたヤージュニャヴァルキヤの妻の名前はマイトレーイーだが慈と関係があるのかな?


ヤージュニャヴァルキヤには二人の妻がいた。
一人は普通の女性だったが、もう一人はマイトレーイーという極めて教養の高い、好学の女性であった。
彼が家を捨てて遊行に出るために、財産を分与しようとした際、マイトレーイーは財産ではなく真理を求めたのだ。
それに対して彼は、我々が経験するあらゆるものはアートマンであるとし、「夫を愛するが故に夫が愛しいのではない。アートマンを愛するために夫が愛しいのである」という教えを説いたという。
(ヒンドゥー教の本―インド神話が語る宇宙的覚醒への道)


ヤージュニャヴァルキヤ
  「非らず。非らず」 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 4.5.6
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm
0697宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/06(日) 04:37:20.69ID:KNHhDI+5
>>689-696
神智学の情報によれば、
世界における諸宗教の発生を決定されているのはこのマイトLーヤであるとされます。
世界教徒であるマイトLーヤが、いつ何処にどんな宗教の発生が望ましいかを判断されて、
その任務に最も適した弟子をそこへ派遣します(つまり、その弟子がその宗教の祖になる)。
尚、詳しい内容については不明...。

世界の歴史上における諸宗教とマイトLーヤとの関係について窺い知れるものとしては、
“ミトラ教(ミトラ神信仰) ”について研究する手法を特に奨めることができます。
尚、個人的には仏典などに登場する実在したとされる人物たちは、
ただの同名(名前としては珍しくないもの?)に過ぎない別存在だろうと私は見ています。

また、弥勒菩薩と再臨するキリストの同一説を裏付ける根拠の一つに上げられる情報としては、
弥勒半跏思惟像とイエスの画の右手で示されたフィンガーサインの奇妙な一致というものがあります。
これはキリスト教による仏教への影響の研究の中ではよく知られているもののようです。
半跏思惟像側の理解としては、ただ単に人類救済について思惟にある最中の姿とされていますが
(密教の弥勒菩薩印はまったく別のもの)、キリスト教におけるイエスのこの手の形は、
立てている指と合わせている親指・薬指とで形成されるトライアングル(父と子と聖霊の三位一体)を象徴したものです。
 http://millnm.holy.jp/img/1537377848437251470350158.gif
 http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1058536292.html
0698宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/06(日) 05:14:55.43ID:KNHhDI+5
>>697
訂正:
 ×「世界教徒であるマイトLーヤが」
 ○「世界教師であるマイトLーヤが」
0699ポッタン師垢版2018/05/06(日) 10:30:55.33ID:zW+IM7Ul
697.
真理は一である。
その真理の変形が問題となる。
まず、その一、を知れば良い。
0700神も仏も名無しさん垢版2018/05/06(日) 20:52:44.66ID:jvZBmAIP
>>699
慈悲の場所なんぞを気にしている人間が何を言っても滑稽でしかないわな。
0701ポッタン師垢版2018/05/07(月) 00:05:36.66ID:mx0UpDXR
700.
慈悲の迷信バカである。
0702神も仏も名無しさん垢版2018/05/07(月) 00:42:41.33ID:vQoHf1M6
693 ポッタン師 ▼ New! 2018/05/05(土) 18:51:30.73 ID:UqP1QTQt [1回目]
692.
慈悲、か。
それは迷信である。
慈悲の場所なんてものは存在しないからである。



場所がないから迷信とかwwwwwwwww

何も見えてないじゃないか ┐(´ー‘)┌
0703神も仏も名無しさん垢版2018/05/07(月) 00:55:27.64ID:4u64m1VY
>>697
>世界における諸宗教の発生を決定されているのはこのマイトLーヤであるとされます。

こういった仮説を立てるのは一向に構わないのです
ただ仮説を真実とするためにはお釈迦様は実践して確認しなさいと言っています
神智学では仮説を確認しているのでしょうか?
してないのならそれは真実ではなく信仰です
信仰は信じる人にとってのみ真であり科学的ではありません
本来の仏教は科学的なものなのです
それに科学的真実、事実以外の信仰は悟りへの妨げとなりますので確認できないのならきっぱりと棄てた方が彼岸へ至る道と言えます
お釈迦様は梵天勧請の時に「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。〔おのが〕信仰を捨てよ」と言っています

それと半跏思惟像の弥勒菩薩は広隆寺の弥勒菩薩像だけではないのですか?
いくつもある弥勒菩薩像からたまたまイエスと同じ印を結んでいた像があることにる気づいただけ
それのみに特化して弥勒菩薩とイエスは同一であるとするのは極論ですし観察で確かめられた事実でもありません
0704ポッタン師垢版2018/05/07(月) 00:59:24.21ID:mx0UpDXR
702.
慈悲の場所、がある、と言ってるバカである。
0705神も仏も名無しさん垢版2018/05/07(月) 07:55:11.17ID:vQoHf1M6
別に史朗ちゃんの肩を持つわけじゃないが
場所があったら仏教じゃねーよw           >>704
0706神も仏も名無しさん垢版2018/05/07(月) 11:00:33.06ID:eBh4hxrv
龍樹の空論と空即是色

困ったことに『般若心経』は、仏教用語を使いながら仏教用語の意味をわかっていないのです。
それは「色即是空。空即是色」のくだりからも明らです。
「色即是空」は正しいのです。
「色は空であると観なさい」とパーリ語経典にもあります。
では、「空即是色」ってなんでしょうか?
これはどうしても、大乗仏教の世界からみたって成り立たない話です。
大乗仏教で一般的に言われている「空」とは、真理そのものであって、超越した何かの存在なのです。
大日如来とか久遠佛とか、法身如来とか、宇宙全体の実体たる真理で、そこからすべてが流出してくる。
ヒンドゥー教のアートマン、ブラフマンという観念と大乗仏教の「空」の観念はかなり似通った、区別できないものになっています。
しかしそれは、大乗仏教のカリスマ·龍樹が発見した「空」ですらないのです。
龍樹はただ、「ものごとは相対的であって実体は成り立たない」と論理的に緻密な哲学を構築しただけで、「空たる真理が存在する」とはけっして言わなかったのです。
大乗仏教が発展していく上で、空は真理·実体そのものになっていったのです。
しかし、龍樹の「空」は言うまでもなく、そういう実体化された「空」の立場から見たとしても、『般若心経』に書いてあることは間違っています。
「リンゴは果物である」というのは正しいのですが、「したがって果物はリンゴである」というのはおかしいのです。そういうふうに言葉を使ってはいけないのですが、『般若心経』の作者はそれも理解していないのです。
それだけではありません。「色即是空」と言ったのは正しいのに、自分でそれを理解していない。
「色受想行識は空である」と言ったのは正しいのに、やはり理解していない。
理解していないから、「空と色は同じもので全然変わりはない」などと言うのです。しかも何度も言うのです。これはすごく滑稽です。間違ったことを何度も発表できるのは、わかっていないからなのです。
0707神も仏も名無しさん垢版2018/05/07(月) 11:07:56.69ID:eBh4hxrv
無を使ったら空論は成り立たない

「空論」を語る人は「na 無」という言葉を使いません。
それは「無」と「空」がまるで違うからです。
「無」は「何もない」ということだから、もう話にならないのです。
たとえば「私に角がない」という場合は「無」です。
無いのだから、論ずる必要はまったくない。
無いものについて言及すること自体、バカバカしいのです。
「空」というのは、そういうことではないのです。
蜃気楼は空です。
蜃気楼について、私たちは語らなければいけないのです。
「あれは水のように見えるけれど、ホントはそちらに水も何もないんだよ」と。
「これはこういう働きで水のように見えるのだと。それは空なる現象であって、「無」ではないのです。
蜃気楼を見て「あれは無だよ」と言ったところで、蜃気楼はあるように見えるのですから無じゃないでしょう。
私に苦しみが「無い」と 言ったって、実際には現象として苦しみがあるのだから無ではないのです。
空と無はまったく違うもので、無を使った時点で空論は成り立たないのです。
空を語るなら、「こういう過程で苦しみが現れるのであって、本当は苦しみ自体は空なのです」と説明するべきなのです。
0708神も仏も名無しさん垢版2018/05/07(月) 11:11:37.72ID:eBh4hxrv
仏教経典は修行の方法を語るべき

観自在菩薩が修行をして悟ったと言いながら、次のセクションの「是故空中無色無受想行識」と続く流れで、ブッダの説かれたすべての教えを無にしてしまう。
大乗仏教であっても空思想を説く場合、有無の概念は使えないのですが、作者は大乗仏教の基本論理さえも、あまりわかっていなかったのでしょう。
このくだりについて、「この『無』は有無の無ではなくて、無自性という意味だ。無自性というのは空の同義語だから、虚無主義ではないんだ」というような注釈をして、なんとかしてつじつまを合わせようとする場合もあります。
仏教徒が仏教の教えに基づいて不完全な経典を仏教的に修正してくれるのは尊いありがたい話ですが、やはりもとの経典に重大な欠陥があることは否めないのです。
次に「菩薩たちは般若波羅蜜多で心をきれいにする。ブッダたちも般若波羅蜜多で解脱したんだ」とのたまう。
だったら次に、「般若波羅蜜多はどのように修行すべきか」という方法論が示されるのでしょうか?
方法論がないものは、ただの観念です。
『般若心経』が仏教経典であるならば、ここから修行の方法論が説かれなければならないのです。
0709神も仏も名無しさん垢版2018/05/07(月) 11:18:43.16ID:eBh4hxrv
バランスがよい立派な人格者を作ることが、ブッダの教えです。
『般若心経』をみると、観自在菩薩が五つの波羅蜜を完成して、最後に般若波羅蜜を完成した、と読めないこともないのですが、それならばそうと一行入れてお
いてほしいのですね。
「最後に般若の波羅蜜だけ残っていて、それに取り掛
かったのだ」と。
それならすごくカッコいいのですよ。

(以上 「アルボムッレ・スマナサーラ 般若心経は間違い?」より)
0710神も仏も名無しさん垢版2018/05/07(月) 15:07:42.70ID:Wu0s6V9S
>理解していないから、「空と色は同じもので全然変わりはない」などと言うのです。
>しかも何度も言うのです。これはすごく滑稽です。間違ったことを何度も発表できるのは、
>わかっていないからなのです。

「色即是空」で180度
「空即是色」で360度 www
0711パーピマン垢版2018/05/07(月) 15:09:16.28ID:Wu0s6V9S
ん???

コテが入らんw
0713おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/05/07(月) 17:57:08.43ID:FUpfOx8P
 
>「色即是空」で180度 - 「空即是色」で360度

ttp://www.zen-essay.com/entry/sikisokuzeku
禅の視点?
色即是空の意味を知ったなら、次は空即是色の視点を持とう
「空だからこそ色が存在する」という、空即是色の視点を加えたい

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%82%E9%AD%84
魂魄(こんぱく)
魂(こん)は陽に属して天に帰し(魂銷)
魄(はく)は陰に属して地に帰す

ttps://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E5%A6%82%E7%B8%81%E8%B5%B7-538672
(天の世界も超えた)仏の世界からの真如縁起
魂(こん)は陽に属して天(仏の世界)に戻り帰る

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して
魄(はく)は陰に属して地に帰り、そして輪廻へ
  _  _  _

無為法の世界から → 有為法の世界へ
有為法の世界から → 無為法の世界へ戻り帰る
0714承狂 ◆AHZLgKnOHuTj 垢版2018/05/07(月) 18:12:57.74ID:by3W4K8b
大乗仏教と密教で言われる空とは、龍樹菩薩所説の空であり、真理そのものではないし、超越した何かの存在でもないよ。(笑)

(^。^)そんなバカな話は、バカカルト内部だけで言われてる与太。(笑)

それと、「行深般若波羅密多」って書いてあるのに、行法が書いてないとか言い張るマヌケ。(笑)
お前は日本語が理解出来ないのか、それとも朝鮮人なのか?なら仕方ないな。(笑)

(^。^)でも、あんまりバカなことばかり書いてると、パーマンがまた火病るぞ?(笑)
0715神も仏も名無しさん垢版2018/05/07(月) 23:52:35.04ID:eBh4hxrv
空即是色は間違い

「色即是空」、すなわち「肉体は空である」というのは仏教的に正しいのです。肉体には実体がなくて空なのです。
しかし『般若心経』は、次に「空即是色」、すなわち
「空は肉体である」と言ってしまうのです。これは間違いです。
わかりやすい例をあげましょう。
「リンゴは果物である」というのは正しいのですが、「したがって、果物はリンゴである」というのは間違いなのです。
「人は死ぬべきものである」というのは正しいのですが、「したがって、死ぬべきものは皆人である」というのは間違いなのです。
同様に「肉体は空である。実体がない」というのは正しいのですが、「したがって、空は肉体である」とは言えないのです。
だから「色即是空」で止まるべきなのです。「空」を知っている人なら、空即是色とは言いません。
「1+1=2」なら、ひっくりかえして「2=1+1」でも同じです。「A=B」なら「B=A」なのです。
それはいいのですが、何にでもこの式を使うべきではありません。そのことを『般若心経』の作者は、わかっていないのですね。
これは実践的な経験·能力のない人が犯す失敗です。
そもそも空は、実践するものなのです。
瞑想して無常を発見して因果法則を発見して、現象が現れて消えることを発見してどんどん発見して実体がないということを発見すると、心が無執着状態になって、解脱涅槃に達するという実践なのです。
実践論は哲学になりません。哲学というのは観念的なもので、哲学をやってもあまり役に立たないのです。
0716神も仏も名無しさん垢版2018/05/08(火) 00:10:32.35ID:H3H4X9IN
◾舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不摯s減
◾舍利子よ、この諸法は空を相とし、生ぜず、滅せず、垢つかず浄からず、増さず、減らず。

空をもてあそんで実践が置き去り

「諸法空相」は「すべての法(もの·こと)は空相である」ということです。
これに異論はありません。
パーリ経典にsabbe dhammā anatta. (諸法無我)とあって、「無我 anatta アナッター」は「実体がない」ということで「空」の同義語ですから「諸法空相」も正しいのです。
ただし「不生不滅。不垢不浄。不摯s減」という文章は、観念的な遊びです。
確かに「諸法空相」は正しいのです。「すべてのものに実体はないのです。
それを観念的に考えて論理だけを引き伸ばすなら、「すべてのものは実体がないから現れることも消えることもない、すべてのものは実体がないから汚れることも清らかになることもない、すべてのものは実体がないから増えることも減ることもない」と言うことはできるでしょう。
しかしそれは本当でしょうか?
人は現れたり消えたりするでしょう?
赤ちゃんから大人になると、体積も体重も増えていくのは当たり前でしょう?色は現れたり消えたりするでしょう?
赤ちゃんは大きくなるにつれて想(概念)が増えていくでしょう? 年老いるとボケてきて、想が減っていくでしょう? 受想行識は生滅するでしょう?
一切の現象に実体はなく、因縁によって現れては消えているのです。
現象の世界には、生滅も増減も明らかにあるのです。
それをまとめて否定してしまうと、「何もないなら, べつに実践しなくてもいいじゃないか」となる恐れがあります。
その点で『般若心経』の作者は、相当な間違いを犯しているのです。
私たちは夢を見て驚いたり怖くなったりします。
それも一つの現象です。
目が覚めて「夢だった」と言うことはできますが、だからといって「夢なんかない」と言えるのでしょか?
現に夢を見ている人は、怖がったり驚いたりするでしょう。だったら私たちには、なかったことにはできない問題なのです。
ただ「夢なんかない」言っただけで私たちの心が悟りに達するわけではないのです。


( 「アルボムッレ・スマナサーラ 般若心経は間違い?」より引用)
0717神も仏も名無しさん垢版2018/05/08(火) 00:50:45.99ID:H3H4X9IN
>>716の続き

無常を否定する愚

初期仏教では、あくまでも「一切の現象は生じて滅するものである」「一切は無常である」という立場です。お釈迦さまは生滅説なのですね。
これに対して『般若心経』は、「生滅がない」と言っているのです。
このひと言で『般若心経』は、せっかくお釈迦さまが発見された「無常」という真理を否定してしまうのです。
「不生不滅。不垢不浄。不増不減」というのは、論理的に、理屈では成り立ちます。
しかし理屈は実際とは食い違ったものであって、ただの観念であって、頭の遊びなのです。
だから初期仏教ではこの一連のセクションは使いません。
諸法空相(諸法無我)ということで話を終えて、あとは悟るために実践するのです。
観音菩薩はサーリプッタ尊者に、空について一生懸命説明していたようですが、たぶんサーリプッタ尊者はこの辺でさじを投げて、諦めて帰ったと思います。
0718神も仏も名無しさん垢版2018/05/08(火) 01:16:37.37ID:H3H4X9IN
『般若心経』の作者も真剣ではなかった?

最後まで読んできましたが、「『般若心経』はあまり勉強してない人が作った経典ではないかな」というのが私の感想です。
『般若心経』は仏教用語をたくさん並べていますが、パーリ経典を読んで学ぶ人からみると、経典に値しないダラダラした作品で、欠点がたくさんあります。
作者はただ適当に短くまとめてみようと思っただけで、そんなに真剣ではなかったようです。
本人は「空」ということをわかっていないし、空の思想を理解してもいませんでした。
そのことは、空を理解していたら使えない「na無しという言葉を使ってしまっていることからもわかります。
作者は、龍樹(ナーガルジュナ) のように空論を詳しく知っていた人ではないのです。
龍樹さんなら空論はちゃんと知っていますから、そんな曖昧な言葉は絶対に使いません。
きちっと責任を持って語るのです。
この経典の作者はそれほど能力がなくて、何も立証せずにただ言葉を羅列したのです。
おそらく『般若心経』は、もともと呪文を信仰している占い師,祈祷師のような人が書いたのでしょう。
知識人のお坊さんが相手にしなかった、なんの立場もない祈祷師程度だと思います。
呪文は誰でもありがたく信仰するので、書き写されて、書き写されて残っただけのことなのです。
0719神も仏も名無しさん垢版2018/05/08(火) 01:16:58.76ID:H3H4X9IN
中身の勉強は不要

ということで結論です。
中身の勉強は不要ということで結論です。
『般若心経』は中身を勉強しなくてもいい経典です。
そもそも中身がないし、論理的でもない。
だから、意味がわからないことで困らなくてもいいのです。
意味がわからないのは私たちの頭が悪いのではなくて、先生の頭が悪いからです。
先生が私たちに教えるならば、「わかりやすく教えてくださいよ」と文句を言う権利が生徒たちにもあります。
生徒たちが苦労して、できの悪い先生を守る必要はないのです。
ですから『般若心経』がわからないのは、恥ずかしいことではありません。
真剣に考えないことです。文化的な楽しみとして付き合うのが、害がなくて適切だと思います。
デザインとして使ったり、写経するなら意味を考えずに一文字一文字写経するのがいいでしょう。
『般若心経』は、仏典ほど古くないけれど、長い間みんなが大事にしてきた経典というくらいのことです。
大事に守られた理由は、短いことと、理解できないことですね。
理解できなかったのは、中身がなかったからです。
『般若心経』は大乗仏教の空思想とは関係がありません。
龍樹が確立した空思想は大乗仏教の大事な教えで、それは別のところでそれなりに頑張って成立させています。
0720パーピマン垢版2018/05/08(火) 01:28:24.66ID:06y888qv
思うに・・・・

スマさんの功績は、「日本仏教とは異なる仏教というものがあるんだ」と言う事実の
認知を広めたこと

対して罪科は、「おかしなトンでも論で、テラワダを貶めたこと」・・・・・

だと思うのだが、どうだろう?w
0721神も仏も名無しさん垢版2018/05/08(火) 01:33:02.04ID:H3H4X9IN
理論、実践、向上への躾が必要

ただ『般若心経』が広まることで起きた困った現象、弊害については、もう一度しっかり触れておきたいと思います。
ブッダの説かれたパーリ経典の立場からみれば、『般若心経』には「これが真理です」という理論、メッセージがないのです。
「このようにしなさい」という実践論もありません。「私たちは確実に、人間として成長しなくてはいけないのだ」という向上への躾も欠けています。
それは先に紹介した『慈経(Metta-suta)』と比べれば歴然としているでしょう。
「向上するための躾が欠けているならば、それはブッダの生の教えではない」
これは私たちが経典をチェックする重要なポイントです。
ブッダの生の教えなら、たとえ四行であっても、「頑張りなさいよ」という一言が、成長するための方法が、必ず入っているのです。
「すべての現象は無常であると智慧によって知る人は、すべての苦しみから解放される(『ダンマパダ』二七七)
一偈の経典であっても、ここには「やはり智慧で知らなくてはいけないのだ」という実践論があります。
理論も向上への躾も示されています。
理論と実践は切り離せないというのがブッダの立場です。
『般若心経』にはそれが入っていないことは、かなり大きな欠点です。
『般若心経』はブッダの言葉を軽々と「無·ない」と処理します。
それではブッダの言葉はそんな真剣に学ばなくてもいいということになってしまいます。
ブッダから人々の気持ちを遠ざけてしまうのです。
挙句の果てに、お釈迦さまが完全に否定した呪文をハイライトして終わってしまうのです。
唯一残った実践が呪文なのです。正しい仏道から離れてもらって、「では、やることないから、呪文でも唱えなさい」となっているのです。

( 「アルボムッレ・スマナサーラ 般若心経は間違い?」より引用)
0722神も仏も名無しさん垢版2018/05/08(火) 01:42:03.71ID:H3H4X9IN
まあ、長老の本を引用した自分も
>>716
をなどを読むと「空即是色」を入れた(六百巻の大般若経から抜粋して般若心経を作成するときにはずさなかった)のは正解だったとは思うw

>しかしそれは本当でしょうか?
>人は現れたり消えたりするでしょう?
>赤ちゃんから大人になると、体積も体重も増えていくのは当たり前でしょう?色は現れたり消えたりするでしょう?
>赤ちゃんは大きくなるにつれて想(概念)が増えていくでしょう? 年老いるとボケてきて、想が減っていくでしょう? 受想行識は生滅するでしょう?
>一切の現象に実体はなく、因縁によって現れては消えているのです。
>現象の世界には、生滅も増減も明らかにあるのです。

これが空即是色ということw
長老は気づいていないのかな?
あるいは自分の解釈が間違ってる可能性もあるけどw

しかし>>709などはかなり同意
「最後に般若の波羅蜜だけ残っていて、それに取り掛
かったのだ」と入れてれば「大乗は最初から無苦集滅道なので」と勘違いされないだろうしw
0723おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/05/08(火) 01:54:20.98ID:8n1zQ4u7
 
ttp://tkj.jp/book/?cd=70722301
宝島SUGOI文庫
般若心経は間違い?
アルボムッレ・スマナサーラ

この書籍を読んだことあるけど
『大乗をコテンパンにやっつけてる』という感じで面白かった

そして今は
ttp://www.onedhamma.com/
毎週
最新の
podcast法話が出てるので聴いちょります

大乗1.0の世界観をもって
根本仏典2.0(上座部2.0)を実践する
3.0

この法話を聴いて、やっと意味がわかった(ような気がする)

無為法の世界から観照する → 有為法の世界を見る
(縁起している世界も超えた)仏の世界からの真如縁起をもって
空即是色
仮設としての
空性であるからこそ色蘊が現れ(そして滅す)る

円成実性の世界から観照する → 依他起性している世界を見る
(円成実性を見ずして - 依他起性を見ることはできない)
0724おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/05/08(火) 02:36:25.44ID:8n1zQ4u7
 
たとえば
中国経由の日本の禅宗とかの場合は
一切の諸法すべて ← 仏そのもの(の現れ)なので
それゆえに
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐
という感じがするけど、とりあえず

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
光り輝いている(仏そのもの)
これに
仮設としての
煩悩とかが取り憑いている

それゆえに
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正 思い手放し

坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません

ところが今
(仏の世界からの真如縁起をもって)
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には
((仮設としての)無明薫習に依存して)
何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
(仏の世界からの真如縁起をもって)
それをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
0725宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/08(火) 04:47:30.37ID:C/CK3cQ+
>>703
>こういった仮説を立てるのは一向に構わないのです
>ただ仮説を真実とするためにはお釈迦様は実践して確認しなさいと言っています
>神智学では仮説を確認しているのでしょうか?

神智学は仮説ではなく、
覚者(すべてを知り賜える存在)より教示されたものです。

 『神智学は神々のもちたもう知識であるから、それは決して憶測でもなければ学説でもなく、また、些少の人間の知恵が造り出した神学や教
学でもない。それは宇宙の生成と人間の生成と両者の関係(一言でいえば神の経綸とその行程)等の全事実に関する体系である。言い換えれば、
それは神々の側より啓示された、かつ不可視の世界より人類を霊導される、高位の存在方みずからが直接体験によって直知された、宇宙生成学
と人間生成学とである。故にそれは信仰ではなく信仰の次元を超えた知識である。』
(H・P・ブラバツキー著『神智学への鍵』)

ただし、その多くの部分においては確かに未確認であり、
その内容について認めなければならないものは何もありません(摂取は各人の自由です)。
ジュワル・クール覚者(チベット人)の教えを著したA・ベイリー著の全巻の巻頭には、
以下のごとくただし書きが附せられています。
0726宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/08(火) 04:48:25.02ID:C/CK3cQ+
『―「チベット人」の言葉からの抜粋 ―
 私が書いた書物は、それが受け入れられることを全く求めずに提供される。正しく真であり、役に立つものであるかもしれないし、そうで
ないかもしれない。正しい実践と直観の働きによって、諸君自身がその真理を確かめることである。私も、A・A・Bも、これらが神の啓示
を受けた者の書であると評価されたり、覚者による作品であると人が(かたずを飲みながら)言うことに全く関心がない。
 これらの書物が、すでに世に出ている教えの上に積み重ねられるかたちで真理を紹介し、もし提供された情報が志向と奉仕の思いを感情界
から識心界(覚者たちを見つけることのできる次元)へと向上させる役に立つならば、目的を達したことになろう。もし伝えられた教えが、
世にいる奉仕者の啓発された知性の反応を呼び、直観のひらめきを招くならば、教えを受け入れるがよい。然らずば、受け入れるでない。
 もし主張が、やがて確証を得たり、相応関係の法に基づくテストの下で真であると見なされれば、それは良い。しかしそうでなければ、学
徒は書かれていることを受け入れることはない。-----1934年8月』
(http://www.sjsh.co.jp/Pages/christ.html)
0727宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/08(火) 04:49:23.94ID:C/CK3cQ+
>本来の仏教は科学的なものなのです --中略--
>〔おのが〕信仰を捨てよ」と言っています

確かに、長老の“仏教は科学的”は私も良い言葉だと思います。
尚、ご存じとは思いますが、ここでいう「信仰を捨てよ」とは、ただ文字通りの信仰に対する完全否定のことではなくて、
それまでの間違った価値観、すでに古くて役に立たなくなった迷信、ヴェーダ祭儀の至上主義...等々を捨てよということをいっています。
同じ旨の言葉がスッタニパータのこの言葉です。 
 『(師ブッダが現れていった)、ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた
信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ。』(Sn.1146)

普通の正しき良い信仰については以下のように説かれています。
そして、持つべき最高の信仰はブッダの説いた理法に対する信頼という意味での信仰です。

 『「この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中で美味である。知慧によって生き
るのが最高の生活であるという。」』(Sn.182)
 『「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」』(Sn.184)
 『信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれら四種の徳があれば、かれは来世に至って憂えることがない。』(Sn.188)
 『尊敬さるべき真人たちに対する信仰を財とし、安らぎに至るための教えを聞こうと願うならば、聡明な人は(ついには)いろいろのこ
とについて明らかな智慧を得る。』(ウダーナヴァルガ.4)
 『信仰心の深い人は、人生の旅路の糧を手に入れる。』(同.11)
 『生きとし生ける者どものあいだにあって、信仰と知慧とを得た賢い人にとっては、それが実に最上の宝である。そのほかの宝はつま
らぬものである。』(同.9)
 『好きな人だからといってなじんではならない。ひとはそこで砕かれてしまう。清い信仰心の無い人を遠ざけて、清い信仰心のある人
に近づく。』(同.16)
0728宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/08(火) 05:02:24.95ID:C/CK3cQ+
>それと半跏思惟像の弥勒菩薩は広隆寺の弥勒菩薩像だけではないのですか?
>いくつもある弥勒菩薩像からたまたまイエスと同じ印を結んでいた像があることに気づいただけ

中宮寺の菩薩半跏像(『寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、
当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。』Wiki)も同じです。
http://d.hatena.ne.jp/popoya/20100727/p1
ですが、そうでもない微妙な手の形のほうが確かに圧倒的ではある...。
まっ、これは神智学情報からではないので、「同一説を裏付ける根拠の一つに上げられる情報」(>>697)という言い方は取り下げます。
単に、一部の巷で噂されている都市伝説ということで失礼しました。、

>それのみに特化して弥勒菩薩とイエスは同一であるとするのは極論ですし観察で確かめられた事実でもありません

「イエス」とではなく、イエスをオーバーシャドウされたキリスト(役職「世界教師」の意)であるマイトLーヤです。
イエス覚者(当時のイエスは4.0段階イニシエートでした)とマイトLーヤはまったくの別存在であり、
イエス覚者はマイトLーヤの高弟であり、現在、6段階イニシエート(チョハン)です。
確かに一般的な確認としては、イエスの説いた教えと仏教の類似性の研究くらいしかできないかもしれません。
0729宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/08(火) 05:05:28.89ID:C/CK3cQ+
>>706-722
それら、『般若心経』についての説明の殆どが長老による勝手な誤った理解です。
あまりにもデタラメと勘違いが甚だしいので、ここに切りがないので“少しだけ”指摘しておきます。

“リンゴは果実”は正しいけれど“果実がすべてリンゴである”筈がないのだから、
この逆を述べている「空即是色」はダメだという長老の話はかなり笑えてしまう誤解の典型です。
まず、「色即是空」の色と「空即是色」での色というのは完全同一の色ではありません。
「色即是空」の色はそのまま単純に物質のことと理解していいですが、「空即是色」での色というのは単なる物質ということではなくて、
仏教の説く法則であるところの「有為法」、つまり、サンスカーラ(造作されたもの)と諸行無常の行としての
「一切法」(名色・十二処・十八界)のことを指しています
要するにこれは、“一切法の修行を実体験することによって現象界が「空」であることを体感する”という意味です。
それから、大乗でも「空」が大日如来とか久遠佛とか、法身如来、アートマン、ブラフマン...などとはいってはいません。
ただし、如来も涅槃もすべてが「空」だという馬鹿な僧侶が多いのは事実ですが
(これはまったくの間違いであり、如来も涅槃は空ではない)。

般若心経の中で繰り返し使われている「無」は、
「空」とは異なる意味の“何も無い”ということをいっているのではありません。そのように理解している大乗徒はいません。
これは“それら(色受想行識。眼耳鼻舌身意。色声香味触法...)には実体は無い”という意味として使われているのです。
この空についての説明でこのようにして「無」の文字を当てる漢訳というのは玄奘三蔵によるものであり、
大乗徒はこの三蔵による漢訳最初期の経文に対して強い敬意を示しつつ、今日までこれをそのまま受け継いできたのです。
0730宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/08(火) 05:07:34.71ID:C/CK3cQ+
>「般若波羅蜜多はどのように修行すべきか」という方法論が示されるのでしょうか? 方法論がないものは、ただの観念です。
>『般若心経』が仏教経典であるならば、ここから修行の方法論が説かれなければならないのです。

これはただの“要約”ということ。
つまり、ただ「空」について述べたいとするものであって、何もここで修行(六波羅蜜)の詳細について解説するというわけではない。
大乗徒の誰もそんな風には読んではいないから、余計な心配はご無用。

>これに対して『般若心経』は、「生滅がない」と言っているのです。
>このひと言で『般若心経』は、せっかくお釈迦さまが発見された「無常」という真理を否定してしまうのです。

いやいや..そうではなくて、
現象界の事象(眼に見える生滅の変化)そのものには実体は無いということをいっているだけであって、
結果として、それらは「縁起」であるということになるのです。だから何も問題はない。

まっ、私も般若心経が完璧な文句であるとはみていないが...。
0731神も仏も名無しさん垢版2018/05/08(火) 06:55:10.53ID:A7E4oaOi
730.
修行の方法論、か。
バカ丸出しである。
修行の結果を表現したものであるからである。
修行は過程論である。それは結果論とはならないからである。
道元がバカであるのは、その区別ができない、ことである。
0732神も仏も名無しさん垢版2018/05/08(火) 09:21:24.08ID:LKap9yEG
>>729
>まず、「色即是空」の色と「空即是色」での色というのは完全同一の色ではありません。
>「色即是空」の色はそのまま単純に物質のことと理解していいですが、「空即是色」での色というのは単なる物質ということではなくて、
>仏教の説く法則であるところの「有為法」、つまり、サンスカーラ(造作されたもの)と諸行無常の行としての
>「一切法」(名色・十二処・十八界)のことを指しています

いや、空即是色においても色は肉体とか物質の方であって色即是空の色と変わりはないでしょ
十八界では六根六境までが色
六識は五蘊の識を六つに分別したものでそちらは受想行識亦復如是の方に含まれます
0735おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/05/08(火) 22:47:55.92ID:8n1zQ4u7
>>732
>空即是色においても色は肉体とか物質の方であって色即是空の色と変わりはないでしょ

色即是空
色受想行識は空性なので
それゆえに
仮設としての
遍計所執性とかが依存している
無明薫習している世界を
手放して
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて
仏の世界からの真如縁起をもって
移り行く世界の様を
ありのまま見つめている

仏の世界から観照して
空即是色

それゆえに
色即是空と
空即是色は
意味が違う。という対機説法
たぶん大乗1.0も、そして3.0も

(大乗1.0、3.0の世界観としては
  色受想行識の意味が違う。という対機説法)
0736宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/09(水) 04:48:27.91ID:QNNBxrqU
>>732
>いや、空即是色においても色は肉体とか物質の方であって色即是空の色と変わりはないでしょ

 『体験を示したものは同一用語でも、低い立場や高い立場に使用されているから、同一単語であっても場合によっては、
その概念内容に雲泥の相違があることがある。たとえば般若心経の色即是空、空即是色などがそれである。まず空の意味に
も種々のものがあってこれを正しく把握することが必要であり、次に色即是空の色と空即是色の色とは、同一文字ではあっ
ても、そこに表現されている色は、第一の場合には通俗的な色であるが、第二の場合には空を理解体得した高い悟りの境地
から見られた色であって、両者は決して同視されてはならない。そこには心境の進みによる次元の相違が現れているから、
このような立体的な表現は三段論法による形式論理の対象となり得ないことが知られるであろう。』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊p3-4)

色即是空の色は有為法における有為という概念を示しているものでしょう。
有為が空であり、空であるのは有為だけなのです。そして、この有為だけが仏教の説く「一切」ということ。
であるのに、勝手に無為も一切の中にぶち込んだのが部派仏教なのです。
長老のテーラワーダは部派なので、この間違いをそのまま継承しています。
涅槃も涅槃の住する如来も空などというのは、この部派の間違いの影響をすべて受けています。

 『ところで仏教で一切法とは存在するすべてのものを指すのであるが、原始仏教時代に関するかぎり、それは生滅変化す
る現象の法に限られていた。一切法を五蘊・十二処・十八界などとした場合、それらはすべて時間と空間の中にあってわれ
われに認識され得る現象界だけを意味した。(p112)
 原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143) 』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
0737宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/09(水) 05:37:19.05ID:QNNBxrqU
追記:

なので、
「空」は一切法(有為法)としての現象界に限られるものなので(無為は生起しないから)、
敢えて、ここで「空即是色」と述べているのは非常に賢いということになる。
般若心経の中で特筆すべき記述は、実はこの「空即是色」です。
0738神も仏も名無しさん垢版2018/05/09(水) 07:04:28.72ID:Pu6QVgkL
空即是色の方の空が一切法を示しているのだったらその後に続く受想行識亦復如是はいらないでしょう
そうではないから受想行識亦復如是とわざわざ書いているのです

般若心経の原本となった大般若波羅蜜多経を見ればそのことは明らか

舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識不異空。空不異受想行識。受想行識即是空。空即是受想行識。

ちゃんと名(受想行識)と色(色)を分けて書いています

身体(や物資)や心を実体視しないことが般若心経の教えであり
そこをぼやかして空即是色の空には心などの一切が含まれているとしたら教えが混乱するだけです
0739神も仏も名無しさん垢版2018/05/09(水) 07:32:51.14ID:Pu6QVgkL
比丘たちよ、では、✽名色(五蘊)とはなんであろうか。
受(感覚)と想(表象)と思(思惟)と触(接触)と作意(意志)と、これを名というのである。
また、四大種(地・水・火・風)およびそれによりて成れるもの、これを色というのである。
つまり、そのような名とそのような色とを、名色というのである。

比丘たちよ、では、識(識別する作用)とはなんであろうか。
比丘たちよ、それには六つの識がある。すなわち、眼識と耳識と舌識と鼻識と舌識と身識と意識とがそれである。
比丘たちよ、これを識というのである。

比丘たちよ、では、行(意志のうごき)とはなんであろうか。
比丘たちよ、それには三つの行がある。
すなわち、身における行と、口における行と、心における行とがそれである。
比丘たちよ、これを行というのである。

比丘たちよ、では、無明(無智)とはなんであろうか。
比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の滅尽にいたる道についての無智である。
比丘たちよ、これを無明というのである。

比丘たちよ、かくのごとくにして、無明によりて行がある。
・・・これがこのすべての苦の集積のよりてなるところである。また、無明をあますところなく滅することによって行は滅する。
行を滅することによって識は滅する。
・・・これがこのすべての苦の集積のよりて滅するところである。
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7050602.html
0740おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/05/09(水) 09:02:55.09ID:MV9wOEOm
 
>>738
>空即是色の空には心などの一切が含まれているとしたら教えが混乱する

仮設としての
縁起している
一切の諸法すべて

スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ
自我に固執する見解をうち破って

仮設としての
縁起している
「一切の諸法すべてを(夢・幻の如く)空性である」と観照せよ

チベット ゲルク派
中観帰謬派
世俗の次元でも自相(自性)を否定する

仮設としての
有為法の世界の
「一切すべて(夢・幻の如く)空性である」という意味

(心の働きも含めて、すべて)
0741神も仏も名無しさん垢版2018/05/09(水) 09:25:57.17ID:Pu6QVgkL
>>740
違う経典を引用するのもどうかとは思いますが
そのブッダのことばも「世界(一切の諸法)を空と観ぜよ」と言ってるのであって「色が世界の全てで一切の諸法である」とはは説いてはいません

般若心経にしても五蘊皆空と照見したのであって色蘊のみを空と照見したわけではありません
0742おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/05/09(水) 09:57:50.06ID:MV9wOEOm
 
>色蘊のみを空と照見したわけではありません

ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
大念住経(大念処経)

縁起している世界においては
縁起に依存して

この身に
地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある

地水火風の微細な粒子に分解して
最終的には?
微細な粒子も手放して、そして滅

色蘊だけではなく
受想行識も
一切の諸法すべても
微細な粒子に分解して
そして滅

我所ではない
我でもない

という観察法
0743神も仏も名無しさん垢版2018/05/09(水) 16:16:09.86ID:J+qlw6zd
>>716
「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解
(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/052.html

まあこの人の主張もスマさんと同じだね
中国の老荘思想が入って空をウパニシャッドの梵と同じように実体視するようになってしまった
それは龍樹の空とは違うと
0744神も仏も名無しさん垢版2018/05/09(水) 19:50:48.92ID:8Uhki2Ez
今日のガッテンは、  心頭滅却すれば云々   w
0745神も仏も名無しさん垢版2018/05/10(木) 01:47:31.30ID:cEfzn7zC
>スマナサーラ:ブッダは古代インドにあった創造神(ブラフマー)のような屁理屈を認めていたわけではない。
>人間が生命を慈しむならば、それが梵天の境地であると言葉の意味を変えてしまった。
(スマナサーラのTwitterより)

確かにそうなのだ
慈経(メッタスッタ)ではこう説いてある

立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、
あるいは横になっていても眠っていない限り、
この [慈悲の] 念をしっかり保つものである。
これが梵天(崇高なもの) の生き方であると言われています。

[このように実践する人は] 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、
諸々もろもろの欲望に対する執着をなくし、
もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す)ことはありません。
http://www.j-theravada.net/sutta/Metta_Suttam.html

慈悲というのは崇高な梵天の生き方であり実践すれば輪廻の輪から解脱できるから慈悲を行うべきであると?
結局は慈悲といいながら目的は自分のためかいと思いつつも道元も「利行は一法なり」と言ってるしまあ良いのか!?
0746おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/05/10(木) 02:10:51.32ID:bXBkkh0l
 
>梵天の境地であると言葉の意味を変えてしまった

ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
真俗二諦

その当時のインドの人々にとって
仏教を理解せしめるためには
その当時のインドの世間的な考えも認めて
その理解のうえで
仏教を
その時代の
その地域の
人々に理解せしめるというやり方がとられねばならなかった

それゆえに
梵天の境地であると言葉の意味を変えても良いんジャマイカ?
という対機説法

ttp://www.bukkyouoshie.com/tenkai/sikikaibonten.html
第一禅定をもって
梵天の世界に戻り帰る
という対機説法
0747宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/10(木) 05:29:16.82ID:T1utZrbV
>>736
訂正:
 ×「色即是空の色は有為法における有為という概念を示しているものでしょう。」
 ○「空即是色の色は有為法における有為という概念を示しているものでしょう。」

>>738
>ちゃんと名(受想行識)と色(色)を分けて書いています

通俗的で物理的な濃密物質という意味での五蘊の「色」(色即是空の色)と
それとは別に、心などの心理作用(受想行識)を含めたあらゆる現象界の事象のすべて、
つまり、仏教の説く一切としての有為法という意味での「色」(空即是色)を
一応、それぞれを区別して分けて示して、尚且つ、ただしそのいずれのすべても「空」なのだということをいっています。
なので、「したがって、果物はリンゴである」といった可笑しなことにはならない。
もしも、これがまったく同じ意味としての色であったならばそのまま続けて繰り返す必要などはない。
では何故、わざわざ有為法としての色即是空としてこれを敢えて説くのかについては、
空というのは有為法に限定されるということを明確にするがためです。
「空即是色」というのは、「空」というものは「色」(この場合は物質のみならず現象界のすべての事象としての有為)に限定されることを示すものです。
このことにより、部派の犯したような一切(空)/法処法界の中に無為(涅槃及び涅槃に住する如来)も含めてしまうという愚に陥ることがなくなる。
生起きすることなく消滅変化しない無為を一切皆空(縁起している諸行)に含めることはできないからです。
ここが混乱しているからヒンドゥー側からは、
仏教の説く“縁起/空の教えそのものも所詮はただの空でしかないのだろう”として馬鹿にされるのです。
(「涅槃」と涅槃に住する「如来)も空であるなどという愚を語ってる人はもう止めにしましょうね)
0748神も仏も名無しさん垢版2018/05/10(木) 09:27:53.67ID:vgrg3ICR
釈迦は、サトリをひらいてから、みずからを如来と称したが、べつにえらぶってそう自称したわけでもなく、また当時"如来"ということばもそのような(崇拝の対象になるような)神秘的意味はなかった。
単に法(真理)と一体化した人、という意味で、げんにこの人は、死んだ高弟をよぶ場合も、如来という敬称をつかったそうである。
(「この国のかたちA」司馬遼太郎)


さて、悟りを開いてからの釈迦であるが、如来になったとはいえ他から独立して生きていたわけではなく、
托鉢をして食べていたし、病老死から逃れることもできなかった。
「全てのものは相互関連し合って存在しており、独立した絶対的な存在はない」という縁起説(や諸法無我の教え)から釈迦如来が外れていたわけではない。
なので釈迦如来とてやはり空性である。
0749神も仏も名無しさん垢版2018/05/10(木) 09:29:22.94ID:vgrg3ICR
身も心も、因縁によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常なものである。

もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。

王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。
それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。

それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。

もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、そのとおりにできるはずであるのに、
心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。

この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、だれも無常であると答えるに違いない。

無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、
生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。

このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。

心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。

だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我とかわがものとかという観念を離れたものである。

智慧のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。

身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。

流れる水のように、また灯火のようにうつり変わっている。
また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。

智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心とに対する執着を去らなければならない。
心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。
(パーリ中部 密丸経)
0750神も仏も名無しさん垢版2018/05/10(木) 10:12:23.29ID:a7OKh2Di
大日如来

大乗仏教の信仰対象である如来の一尊。
大日如来の体・言葉・意識は虚空に存在し、かつ、万物の内に存在するという。

宇宙の真理を体現する象徴的な法身の仏であり、大日経などの密教経典の説き手とされる。
不動明王を化身、あるいは使者とする。それにとどまらず全ての仏菩薩の本体とも言われている。こうした壮大な教義のせいで超越神・ブラフマン的なものと誤解されることも
あるが、誤りである。密教の伝統によれば大日如来もまた一切皆空に外れる存在ではない。
https://dic.pixiv.net/a/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5
0751神も仏も名無しさん垢版2018/05/10(木) 10:26:28.06ID:a7OKh2Di
>>748
正覚後の釈迦を一番最初に崇拝したのは仏典では梵天とされています。
世界の主梵天は釈迦に向かって合掌し「尊いお方様」と敬意を込めて語りかけたとされています(相応部6-1-1 懇請)。
0752神も仏も名無しさん垢版2018/05/10(木) 13:07:52.04ID:arp7VQgJ
般若波羅蜜多には般若波羅蜜による智慧の完成を指す場合と般若波羅蜜の完全同意語の場合があるようです
いずれにせよ般若心経にあるように諸法を空相と見極めることが般若波羅蜜多の最終段階でそれができたら阿耨多羅三藐三菩提を得るということになります

しかしその最終段階には突然に至れるわけではなく龍樹作と言われる大智度論によると般若波羅蜜には声聞、辟支仏の修行である三十七品〜〜四念処、四正懃、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道〜〜の修養を必要とするとあります
『菩薩摩訶薩』は、一切の、『善法』と、『道』とを、『学ばねばならないからである!』、従って三十七品も学ばなければならないとしています
http://www.geocities.jp/tubamedou/Daichidoron/Daichidoron11-20/Daichidoronn19a.htm

日本では空海や道元は三十七品を重視していました

観自在菩薩はそう言った諸々の修行をした上での行深般若波羅蜜多だったわけであります
0753おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/05/10(木) 14:06:41.15ID:bXBkkh0l
 
>四念処、四正懃、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道

おじゃるの場合は
上座部(根本仏典)2.0も肯定派なので
縁起している世界を手放しする
その直前までは
悟りに至るための菩提分法は必要だ。と思うけど

ところがどっこい
 − これに対して −
たとえば
中国経由の日本の禅宗とかの場合は
一切の諸法すべて ← 仏そのもの(の現れ)なので

それゆえに
普勧坐禅儀 道元禅師著
そもそも仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており
(悟りに至るための)修行したり、悟り証したりすることもない

仏法がゆきわたっているので
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐。という感じらしい

空海
三十七菩提分法是れ法宝なり

道元
三十七菩提分法、即ち仏祖の眼晴鼻穴、皮肉骨髄、手足面目なり
仏祖一枚、これを三十七菩提分法と参学しきたれり
0754神も仏も名無しさん垢版2018/05/11(金) 00:15:38.51ID:aDcjeK0J
釈尊は「我」を認めた?    


ある学者の人々は、それでも我があってほしいから、「お釈迦様は、『我はどこにもない』とは言っていない。我でないものを我と受け取るのが嫌で無我と言っただけで、真我そのものを否定してはいない」と言うのです。
「自我は否定しても自己は否定していないぞ」とも言います。
言葉で遊んでいますが、ピント外れには変わりありません。
お釈迦様の鋭さが見つかっていないというか、それを感じていないのです。
お釈迦様は人にショックを与えないで丁寧に智慧の方向に導くのです。
私たちが何かを付け加えることも、解釈を拡げることも不可能です。
遺された教えの中のほんの僅かのものを説明することしかできません。


アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析)
0755宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/11(金) 02:28:57.78ID:xr/NoVE8
>>748
>托鉢をして食べていたし、病老死から逃れることもできなかった。
>--中略--なので釈迦如来とてやはり空性である。

そういった外的な事柄や肉体(濃密物質そのもの)上のことというのは
涅槃とは直接的にはまったくの無関係なのであって、それらが如来を示すものなどではないですから。
涅槃は縁起のない世界では在るから、空性では在り得ない。
涅槃とは意識としての境地のことであって、その意識に到達しているのが如来ということ。
であるから、如来も空などとしては仏教理論は成り立ちません。
空とは、苦のある世界(一切皆空)のことです。
そこに如来が住する筈がない。

>>750
>密教の伝統によれば大日如来もまた一切皆空に外れる存在ではない。

いえ違いますから。
そのような理解(涅槃および涅槃に住する如来もすべて空)はすべて部派からの伝承による後遺症なのです。
間違ったものを自分自身で見ぬくことができないのならば、ただ伝統を信奉しているだけにしか過ぎない。
それでは意味がない...。
0756宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/11(金) 02:40:37.04ID:xr/NoVE8
>>755
訂正:
 ×「空とは、苦のある世界(一切皆空)のことです。そこに如来が住する筈がない。」
 ○「空とは、苦のある世界(一切皆空/一切皆苦)のことです。そこに如来が住する筈がない。」
0757宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/11(金) 02:42:21.38ID:xr/NoVE8
>>754
>言葉で遊んでいますが、ピント外れには変わりありません。

ピント外れは長老のほうです。
(まっ、これは長老だけに限らないが...)

まずは、
仏教においては実は、“恒常世界については認められている”
(『ウダーナ』において説かれる)ということをあなた方は知らねばなりません。
それ(恒常世界)が無為法(無為)です。
あなた方は、ただ否定しているという話(一切についての教え)しか知らないだけ。

無為とは恒常の領域であり、
そこは生じることなく滅することもなく(無常ではない)、生起しない(縁起していない)。
そこは生滅変化しない常住不変の境地であるから不死であり不滅(没することがない)。故に恒常(永遠)な世界なのです。
従って、無為に該当するものはニルヴァーナ涅槃であり、
そして、また至高の意識((唯一者である創造神)であるところのブラフマンとアートマンも同様ということになる。
ゴータマの説いた否定意とは、一切における有為(現象界)ではアートマンは認識できないということ(無為だから当然です)。
ということは、つまり、一切を超越すれば認識できることを意味する(一切を超越している領域が無為)。

 『ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、
不滅のニルヴァーナの境地である。』(Sn.1086)

 『これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。』
(ウダーナヴァルガ26-29)

 『涅槃の語は仏教以前から存在したらしく、---中略---しかし涅槃と同じく生死輪廻を超えた悟りの境地として、
パラモン教では古くから不死(amrta甘露)の語があり、仏教でも不死は涅槃の同義語とされた。』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』p171新版第1刷/春秋社刊)
0758宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/11(金) 02:49:53.79ID:xr/NoVE8
〜これでも解らない人には、
私からもこれ以上のことを述べようはない...。
「認めたくない」というのもその人の自由ですから、好きにしてもらう以外にはない。
0759宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 垢版2018/05/11(金) 03:01:12.83ID:xr/NoVE8
>>743
これらは、
一切についての正しい理解なく、
『ウダーナ』も読んでいない誤解した人たち同士の対話です。

取り上げる価値が無い...
0761神も仏も名無しさん垢版2018/05/11(金) 11:43:57.03ID:LMZGQGXu
8.1 第一の涅槃に関することの経

「比丘たちよ、その場所(処)は存在する
――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、
虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処:虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、
識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処:心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、
無所有なる〔認識の〕場所(無所有処:いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、
表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処:表象があるでもなく表象がないでもない、という瞑想の境地)なく、
この世なく、他世なく、月と日の両者はない。
比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、
これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。
これこそは、苦しみの終極“おわり”である」と。
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html

ここまで無を連続させるのは般若心経と同じです
つまりどういうことか
般若心経の作者(あるいは元の大般若経の該当箇所の作者)は空を涅槃とか法身の意味で使用しているということ
般若波羅蜜多によって一切の苦厄を度して到達した彼岸は空であって空即涅槃ということになります
空も涅槃も無分別の世界であるということです
0762おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 垢版2018/05/11(金) 20:29:39.08ID:MaaFPeBR
>空即涅槃?

現代語訳
ttp://www.geocities.jp/tubamedou/Tandoku/Shinngyou2.htm
般若心経
般若の智慧と慈悲をもって
般若波羅蜜多を深く極め
六波羅蜜を行って
仮設としての
縁起している
一切の諸法も
仮和合の五蘊も
すべて
『空性である』と観照してる

智慧と慈悲をもって
戒・定・慧・解脱・解脱智見
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(智慧も慈悲も)

ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html

さらに無の世界も超えて
般若の智慧と慈悲をもって
移り行く世界の様を
ありのまま見つめている

円成実性の世界から → 依他起性している世界を見つめてる
0763神も仏も名無しさん垢版2018/05/12(土) 00:39:08.45ID:yIp2CHvG
>>757
【諸行無常·諸法無我、涅槃もまた無我】

そうすると、愚か者たちはこう言います。「木が無常だということは、子供でもわかります。私の身体も命も無常だということは、子供だってわかるでしょう。そんな偉そうな話ではありません」
「大切なのはそんなありきたりの世界ではなく、永遠の実体の世界、真理の世界、ありのままの個我を真我へと昇華させることでしょう」と。
永遠の実体などはじめからないのに勝手な結論を出すのです。

そこでお釈迦さまは、サッベーサンカーラーアニッチャー「sabbe sankhārā anicca(諸行無常」と説きます。
「諸行」とは、世の中にあるすべての現象、森羅万象のことです。それは無常であると
そして、サッベー ダンマー アナッター「sabbe dhammā anatta (諸法無我) 」と説かれるのです。

ここで注意してほしいのは、「諸法」と「諸行」は違うということです。
「諸法」には、現象だけでなく、すべてのものが含まれています。
「法」の場合は、何も抜けていないのです。そして、すべてまとめて無我である、とお釈迦さまは説くのです。
無我という概念を使う場合は、「法」という言葉をわざと使います。
「諸行無我」という言葉はありません。あくまでも、「諸法無我」なのです。
では、なぜ「諸法無常」と言わないのでしょうか。「ウサギの角」という言葉を考えてみましょう。
これは、人間が頭の中でつくった言葉で、実際のウサギには角はありません。
ウサギの角は、無常でしょうか。
はじめからないものですから、無常とはいえません。しかし、「ウサギの角」という概念は「法」に入ります。
存在はしませんが、頭の中で組み立てた思考としては存在します。
それが無常だとは言えませんね。
たとえば、目の前にあるペットボトルは、無常です。実際にあるのですから。
ペットボトルは、同時に無我です。永遠に変わることがない「実体」などありません。
そういうわけで、無我という単語を使う場合は、「諸法」と言わなければならないのです。
0764神も仏も名無しさん垢版2018/05/12(土) 00:46:00.40ID:yIp2CHvG
こうまとめてもよいでしょう。
行..因縁によって起こる現象
法..涅槃も含むすべて
「法」と言えば、「涅槃」も「ウサギの角」も「亀の毛も「空華(虚空に浮かぶ実在しない花。凡夫が、実体の無い存在を実体が有るかのように誤ることのたとえ) 」も全部入っています。
それらはすべてが無我です。
ですから、涅槃もまた無我なのです。
「涅槃もまた無我」と言うと、誤解するでしょう。
仏教では究極の幸福の境地として涅槃を説かれています。
無我を発見していない一般の方々は、涅槃の境地に達したら永遠の幸福の命を獲得したようなものだと推測します。
しかし、涅槃という境地は、認識概念では説明不可能です。
すべての概念は現象の世界を指しています。
現象を乗り越えた世界に対して、言葉も概念もありません。
強いて言えば、生き続けることは苦であり、それを乗り越えられたならば、幸福である、という程度の話です。
最初から自我はなかったのです。
自我があるとは人間の錯覚·幻覚です。
覚りに達する人には、自我の錯覚が消えます。
幻覚が無くなるのです。それだけです。
覚った人に、今までなかったアートマン (自我)が突然現れるはずはないのです。
涅槃も無我です。
ですから、諸行無常で諸法無我なのです。

(無我の見方 (「私」から自由になる生き方) アルボムッレ・スマナサーラ)
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