なんちゃって覚者✴気づかない教.2
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悟りと非二元に関しておしゃべりしましょう!
なんちゃって覚者とは、既存の宗教、宗派の教理に適合しないのに、悟った自覚があり、自信もある人たちのことです
気づかないとは、あるがままの事実を取り上げず、そのままにあることです
悟り、非二元、等々に迷いがない人は、ここには用はないでしょう
お花畑、妄想、という批判はご遠慮ください
あと【悪魔からの批判】は受け付けておりませんので、よろしくwwwwww. おおおおおおおおおお
これか!
これぞ、悟りじゃあああ
と意気揚々としておると、この、穴蔵禅者がああああああ
と、心地よいベッドから引っ張りだされますよw
なんちってw 無、ゆえの、有
と言っても、この、無
というのは、ない、ということではありますが
その、ないというのは、
あるとかないとかの、なきではなく
戯論寂滅
つまり、見てとることのないことなのです 悟ったなら
無明、行、識、名色、六所、触、受、愛
愛!!!!
取、有
生老病死
の、かの偉大なる仏教の縁起解説を辿れば、無明が滅して、智慧の光があるかは、、、
ね
己でわかるでしょう
この、ひとつひとつの、言葉の持つものが、思念ではなく、実体験的に、理解しているに違いありません
ほんまやあああ
とねw 悟っても業からは、逃れられませんよ?
数々の教えが、そう述べておるのですからね
すぐには、消えないと
宿業の避け難き、、、は、
あの、釈迦ですら
悟ったあとに知ったのですwwww
目連さんも、そうだったし
サーリープッタさんも、そうだったようです
曖昧記憶ですが、、、 ナンチャッテ覚者の話は、
自身が宣言してるように、ナンチャッテなのであって、如何に自信あっても、所詮は、単なる欲望の塊である、凡人の中でも、嫌われるほうなのでありますので
まあ、書いておく必要もないとは、思いますが、、、、、
くれぐれも、信用しないでください、笑
単に今は、そう思ってるということです >>253
「そうなんじゃないかな」と見ているだけで
私自身は、怖がったり不安がったり驕ったり怒ったりですよ >>260
私もよく嫌われますw
嫌われるというのは「嫌い」という思いを相手に起こさせる要らんものを
自分が持ってるってことではないかとも思っております >>262
なにも変わらない事実というのは、、、
梅は梅でしかない
おまえは、おまえだ
というようなことだと思ってますw >>263
そうですかね??
他人の意見は、他人の意見ですw
左右されて引っ張られると、、、
思っている以上にたいへんなことになりますw
まあ類は友を呼ぶとか言いますね
人間関係というものは、家族、職場、友達、地域社会などでの、まあ、一番な悩みでしょう
まあ言わば、宗教と宗教
神道と仏教
浄土真宗と曹洞宗
などなどの関係性や
日本とアメリカ
中国とドイツ
というような関係性も、まあ、大きく言えば、人々の関係性であって、そこで、軋轢が生まれ続けている、太古の昔から!
これは、単純なものでもないでしょうね
まあ、嫁とわたしとか?w >>264
そうです!
ここで書いていることは、わたしの理解の範囲なので、所詮は、しれておるのですw
しかし、智慧の位置について、は、つまり、空に関しては、大抵の人が誤っていると、この、ハッタリ人間は思っておるのです
今はね 私も実はよく分からんのです
分かった気になって理屈組み立てたりしてる時もあるけど
凄い間違い犯してるんじゃないかと 嫌われるのも歪んだ我意識に気付かず人の気持ちを損ない続けてるのかなと 「自分」という我意識を虚空に投げ入れる
捨身飼虎なんだろうけど、なかなか出来ないというか、逆に我意識で人の心を喰ってるのではないか?と恐ろしくなりますよ >>270
わたし自身からくる、愚痴、怒り、貪り、つまり、渇愛に端を発したものと、他者の、それらから生まれたものがありますよね?
つまり煩悩は、己だけではなく他者も持っているのですよね?
そして、その、種類も、つまりこれは、業の傾向性も、単純に、こう!
と決められるものではなくて、人によって、様々に囚われが違うわけですよね
だから複雑になるんですよ
自分のせいで悩んでいることもあるし、他者の意見に左右されて悩むこともあるから
しかし、どちらにしても、自分の内面にある活動のことなのです
他者の意見にしても、酒、肉、女に対する嗜好にしても、、、
また、プライドや生存欲求にしても、、、
何にしても、わたしの理解のが、元でしょう
我意識は、私が受けた教育の結果であり、他者を食べるのは、渇愛からでしょうね
愛されたい、というか、この、まあ、言葉では表現しにくいもの
しかし、まあ、単純に言えば、、、
ボクちゃん、すごい!!!! 「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来 の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに 証得せず。」
この釈尊成道の言葉は恐らく間違いないことで
どんなに迷っていても事実は救いの中にあり気付かないだけという >>271
我意識という妄想同士で自分を飼う為の餌の奪いあいですね
でも止められないし、しかも世間はその競争前提で回ってるという 「明星出現の時 我と大地有情と同時成道」
お釈迦様は成道した成仏した、というより
世界の始めより誰もがそうある「一法」
に気付かれただけであるらしいです
この我意識という貪りに振り回されてる「自分」たちの問題がすでに解決済みである
それに気付き、救いそのものになれるということ
このお釈迦様の宣言を「記別」というらしい >>272
正に、その通りですね!
奇なるかな、奇なるかな
不思議なことだ、不思議だ
一切衆生悉く
生きとし生けるものすべては
皆如来の
一切が、あるがままの
智慧徳相
知らずして在る、幸せである
を具有す
実現している
ただ妄想
しかれども、こころの中の思い、ものの見方、様々な意見、空想などにより、つまり、他者の意見、教育の結果などにより
執着あるがゆえに証得せず
わたしのものである、快楽の源を、追い求めて、あがいているから、気がつかない
? 苦しめあってる「自分」と「他者」が一緒くたになって救いとして解決してる
「他者」だけじゃなく「大地有情」という世界もすべて同時に解決してる
諸行無常・諸法無我・涅槃寂静がその救いの様子なんでしょうね >>273
わたしが、その流れの中で、自然にあるときに、意見を挟む他者や、わたし自身の恐れから、縛られて不自由なことになる
ので
考えなきゃいいやんw
来たものは来たものでやってくが、しかし、そこで布施という、正しい姿勢さえ、身につければいいと言うが
そこで、自分自身が、
そんなんしたら、損するやんw
とね >>278
自分や他者の、損得や善も悪も、
考えない、知らない、捉えない
やって来る流れのままにあること
これを如来っていうんですかね >>274
わたしと、生命財産の、つまり、所有の囚われから抜け、更に、真理への憧憬からも抜けた
という単純なことですが、
しかし、理念上は、そうでも、実際に行く
行くのは、普通ではないwwww >>276
お釈迦様の見た事実はそうですが、、、
我々のような、惑うものは、そのように解決されてないわけですよ
じゃなければ、教えてあげたりしないからねw >>279
いやあ、、、
そのポイントが、、、
描くのが難しいわけですよね、、、
そうやって、これが如来だと仮定したら、ぜんぶ外れるってことですよw
得ることが不可能なもの
つまり、戯論寂滅というようなもの
このようなもの
だが、その、このようなものは、ない
ないんですwwww >>281
そういう救いの事実は自分で実証しなければ現れないけど
現さなくても事実は事実として変わらず、隠れてるけどそうである
道元禅師も
「この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」
と言われてるけど
「原ぬるに夫れ、道本円通、いかでか修証を仮らん。宗乗自在、なんぞ功夫を費さん」
とも言われてます 救いの事実の中であるけど
修行し証明しなきゃ絵に描いた餅だよ
そもそも「丸」としてどうしようもなく完全に救われてるから
その事実自体を修行や証明でどうこうできない
それほど完璧に救われてるんだよ
こういう風に言われてると思います >>283
それは
元々は仏です
仏になることなどできません
と、言ってるのですw 284.
完璧に救われている、か。
衆生は完璧に救われていない。
なんでか。 >>286
完璧に光る悟りの月の上に
煩悩の雲がかかってるって比喩があるね
その煩悩の雲のかかった状態を衆生というんでしょう >>284
完璧に救われているわけありませんwww
元々は我々は迷いも悟りもない
けれども、この世界では、自己と他者の憎愛、または生老病死に、苦しんでいるのですw
だから、悟りにいけと、言うのですが
悟りは求めて得るものではなく、得ることなきが完璧に悟りだということですよwwww
つまり、業を抹消せねば、智慧は輝かないのですw
じゃなきゃ、仏教が、いらんものになります >>287
結局、、、
仏教を学びつつ、坐禅するしかありませんww
やれば必ずやれる
と、すべての覚者が、いけると、やれると
証明して生きたのですからw
まあ無理かもしれんけど、まあ、それくらいしか、やれませんw
所詮は、わたしごときですからww >>288
救いの事実の中にずっとあるのに
自分らで自他の別れた妄想の世界で勝手に苦しんでる
それに気付かせる為にお釈迦様は「仏法」や「悟り」を立てられた
「釈迦といういたずら者が世に出でて 多くの者を迷わするかな 」一休さん
「法に二法無し、牛を且く宗と為す。
蹄兎の異名に喩え、筌魚の差別を顕わす。」『十牛図』
とか 287.288.
衆生という状態とは何か。
それは救われていない状態である。
されば、救われるための条件とは何か。
煩悩、業、を抹消することか。
否である。 十牛図は、
もとから仏法丸出しなのに
わざわざ「法」とか「悟りの牛」とかたとえて目標にしてたけど
丸出し仏法に気付けば兎を捉えたあとの罠や魚を捉えたあとの漁網みたいに不要なんだよってことかと >>290
救いの事実はあるでしょう
しかし、それに対して、自我は無自覚なのです
だから、惑うのです
だから、修行するのです
だから、道があり、説いたのです
なにか、この、リアル世界の完全性とか、そういうものではありません
たぶんねw >>291
抹消は結果としてなってくるのだよwww
先生は囚われている! >>292
真っ白な円がありますよね?
その、真っ白な円のあとに、世界が返ってくるのは
ようするに、空であるわたしが、生きてあるここで、わたしである
つまり、元々とは違うのですwww
悟りがいらんと言ってるわけではないのですw >>293
「リアル世界」とは?
我々がそうだと思ってる「世界」は「実在」なのか?
って疑問ですね >>296
リアル世界は、実在はしないのです
しかし、今、ここで、ある、それは、夢としてのそれは、確実にあるのですw
そのものの、本体、つまり、裏側というのか、実体的にあるわけではないのです
しかし、そういうのは神秘体験が絡むんですってwwww
絡むの!笑
だから科学的にやってても、無理なのw 292.294.
仏法丸出し、丸出し仏法、か。
そんなものは存在していない。 しかし、その、
元々という言葉の意味を、どこにもっていくかで意味が完全にかわってくる
元々、つまり、不生の地点
と
元々、迷っていた地点
これらの、どちらにしても、なき地点
なきもなき
戯論なき
それが、帰ってきたもの??
かもしれない
想像ではww 299.
存在、か。
月と雲とは同時的存在である。
月だけを抽象することは価値がないことになる。
なんでか。
その両者の比較論が存在論であるからである。 >>301
比較論てなんよ、比較論てww
論好きやなあ、笑 雲がかかってもかかってなくても
月は何も変わらず光ってるよ
雲が取れれば光が現れるだけ 月自体を「本覚」、
月の光りに気付くことを「始覚」っていうんかね >>304
自分が月だった
つまり、自分がいなかった
月が、あったのだった
が、本覚
月が目の前にあることに気がつくのが、視覚
かもね、、、
まだわかんないや そういうのもぜんぶ、ないところが、真の悟りでしょうなあ
本覚とか、視覚とか、、、
まあ、なんかないと人は納得しないからねw ぜんぶ言葉だからね
指してる所に気付くための道具ってことだろうね >>307
そう
気づいたら
一度気づいたら
絶対に
忘れることはない
が、妄想して、たどり着けなくなる期間が、必ずあるだろう
あるだろう
掴むだろうあなたはw
現れたものも斬れ 現れたものは、美しくて魅惑されたのだ
しかし、それが現れたのは
智慧が働いたからなのであり、仏になっていたからなのである
練習しなくては、いけないのである
練習するのが、仏の道を歩むことなのである
全く難しくないのである
気づいたら、難しくないのである
新たな囚われに捕まらない限りはね、、、
美に魅せられたら、いかんのである、笑 私は掴んでしまう
苦しむ亡者が目の前の救いの糸に飛び付くように 気付いたこと、救われたこと、気持ち良くなれたこと
全部「自分」が経験して、「自分」がさらに求めている
「求めない」も「自分」がやってる 「仏になろう」としてるのも「自分」である
「自分」が救われようとしている
「捨てよう」としてるのも「自分」である
捨ててまた「自分」がどうにか良くなろうと貪っている >>310
体験を記憶して、その、自己と沈黙に分化させてからの、自己の目指す沈黙への、同化と、自我活動、つまり、意志の停止は違うが、一度、その状態を経験すると、そーなるのだwwww
自分は知っていると
これが、新たな囚われなのである >>311
そうです
そうなので、体をリラックスさせて、頭に浮かぶことを、放ったらかしにしておくのが、いいのですよw
悟ってやるうううう
と、自我活動満点はアカンのですw
自然は、わたしが、求めてないとき、現れてくるのだし、仏も同じようなものなのです
諦めて受け入れることが、手をつけないでいることであって、手をつけないでいようとすれば、おかしくなる
しかし、また、諦めるというのを自暴自棄になることと勘違いしても、おかしくなるw
透明なんです >>312
そうなんです
そのトラックに必ず、引っかかるのですw
なぜなら、自我が沈黙して静まった瞬間の体験が、あまりにも美しくて
すぐに自我が起きて、掴まえた
からなのです
これだ!
これだ、これだ!
とねw ここでは、沈黙と同化した私が、残っていて、自然は、わたしが、あるものの上にある
から
そそで、残ってるのです
わたしが静まったけど、残っている
だから、無我、無我となるのですwww
ムガムガと魔が指すのです
ここで、バチコン叩かれると落ちた人もあるのですwwww
あ、あるものがある
あるがままに
流れている作用している、そこに、は、自己がないという認識もないのですwwww だから、普通の人が叩かれても意味ないのですwwwww
感覚に帰ることは、無我からの、それ
なので、修行してた人の限定の話なのです
つまり、臨済が棒で叩かれて、悟ったと言っても、それまでに、何年間も寺で修行した末の話なのです
先輩が様子を見ていて、コイツ、何かを掴んだな?
と見抜いて、師匠に会ってこいなのですw
それをすっ飛ばして、感覚、感覚、というから、わたしが、体感世界に飛び出すことと勘違いして騒ぐのですwwww お釈迦様が、やれることをやりつくして、苦行では悟れないと見抜いた
そして、木陰で休んでいた
ふっと夜空を見上げてみたら、明けの明星が、澄んでいる
その時、落ちたのですw
悟ったのですw その体験の以前に、無念無想の境地という、まあ、言うなれば、普通は悟りとされている地点にまで、高められていたという前提が、あるのですよw
つまり、諦めていたのですよ、もうw
それを、何もしないで最初から、お茶飲んだらうまいやろ?
とか、言ってるのが、
インチキだと、みんなが、口をそろえるのですwwww なんだ、最初から仏じゃないか
と
しかし、ここで、みんな救われてます
と
真実を述べても救われないことを見抜いていたので、この世界は苦しみである
と述べて
そこから逃れるには、愚痴、怒り、貪りを離れていなさいと、述べたのですw
そして、あるがままでよいとは、述べなかったのですwww しかし、ほんとうの真実はと言えば
この世界は美しいものだ
と、お釈迦様も、言ったのです
美しいとね あるがままで、もうすでに悟っている
というのが、ほんとうのことなのです
爆笑w
しかし、そういっても、伝わらないから、しかたなく、静慮しなさいとか、見返りを求めずに奉仕しなさいと、聖者たちは、述べたのです
よくぞ、
めんどくせーーーー
と、思わなかった、、、
のは、
やはり、聖者だからでしょうwww 結局、自演の証明によって、
まことの言い分はなくなった 「覚者」とか「悟った人」とかをよそに見てる
どこかに求めてるのではどうにもならないんじゃないかな
迷いとか無明とかそういうのは自分が引っ付けてるものだから
なんとかするための師匠を探すってのならわかるけど >>326
何をいう
覚者とは、オレ、のことではないかw
なんちゃってww >>329
わたしは悟った
それで悟りの問題はなくなった
人生を生きようw 331.
人生を生きない、が悟りである。
されば、どうするのか。
涅槃である。
バカは死んで、涅槃となる。再度、生きることはない。
何かの読みすぎである。
大乗仏教は、そうは言わない、が。 >>330
なんちゃって覚者は、人生、うまくいかないので悩んでますよwwwww >>332
涅槃である?
なんか文章がイマイチ理解不能
もうちょい丁寧に描いてよ
安楽の境地にあるなら、そこで、冒険してればいいでしょう
まあしなくても、いいけどもw 読みすぎというが、何の話だ?
なんちゃって覚醒をしているオレは、悟っているが、だれにも、話が伝わらんのだ
なぜなら用語や、文章力や、コミュニケーション能力が不足しているだけだw
読むとかやるとかは、方法なのだ
方法の先には、元あるものがある
元々あるものが涅槃であり、それが空なのだ
しかし、これを、ある
と書くと
ある
という言葉は間違えている!
そのようにして難しいのだw
そこにあるのが難しいのではなく、そこに言葉が行くことが、できないのだ
?
んー、ちゃうかもしれんがw バーヒヤの話の最後がいい
そこには月も太陽も輝かずから
から
空という
ガランとして、なにもない
なにもない、も、ない
その中に、全世界、個人がひとりある
しかし、このひとりは、人ではないwwwww 涅槃は、全てを捨象すれば良い。簡単である。
よってして、やることが、なくなる。
閑人である。人ではない、か。
自己を忘れる。道元。
そこの到達から、どうするのか。そこが問題である。
そこで悩むのがバカである。 >>337
なかなか鋭いなあ
捨像
それいいね
(งД)งシャー!
それからどうするのか、そこで悩むのがオレではないかwwwww
することがない、、、
これ以上ない
あとは生きるしかないではないか? 338.
生きることは生活の問題である。
涅槃は宗教の問題である。精神的な一部の問題である。
それは生活を捨象した問題である。
あとは生きるしかない。生活するだけのことである。かも。 >>339
生きることの、苦しみ
これには様々なものがあるが、その問題をすべて精神的に解決するもの
それが智慧であり、悟りである
と、こう思う
肉体的な苦しみ、精神的な苦しみは、これは、自己ではない
自己がそれと、共にある
と感じるから、離れられないのではないか
出来事は、向こうからやってくる
わたしの、反応も勝手に起こる
まあ、習慣やら性格もあるのだろうが、それだって、生まれつきのものだ
自然のものだ
ある凝り固まった信念、正義をもつものは、かならず他者を、苦しめ、その、苦しみによって自らも苦しんでいるように、見える
苦しみを滅するなど、不可能であるように思えるが、それは、苦しみは、すべて、向こうからやってくるからである 現実的な苦しみから、解除されないとするならば、生きてある、ここは、すべて苦しみである一切が皆、苦である
というものは納得がいく
であるか、生きてあるここで、苦しみがなくなることは、ないということになる
では、なぜに、苦の滅尽が可能だったのか
それは、生まれてないわたしというものへ、回帰したからではないか?
不生
これは、この、現れたる現象界に、ある、すべての苦しみは、あるが、その苦しみは、すべて実質ないもの、仮想のもの
ということかもしれない
この、実質的には、ないものである
ところへ沈殿して行く瞑想
この世界から、まったく、離れ去った地点にいることで、苦しみがない
ということではないだろうか
その地点というのは、一切の事柄の滅した地点であり、そこから、この苦の世界を、切り捨ててしまうから、苦しみがないのではなかろうか?
まあ、また混迷してきたな 苦しみがあり、それゆえ、楽しみもある
このようなシーソーゲーム
このようなものからオサラバしなければならない
なにしろ、苦しむことが多いのだから
この世界で起こる、様々なことがら、を、滅した地点から切り捨てて行く練習、これを、していくことだろうか?
しかし、苦しみはある
苦しみはあるということを、すべてが、苦しみであるということを受け入れた上で、この苦しみを遠ざかった滅、の、地点へ揺るがなく、移行していくこと、
そして、その、完成によって、もはや、完全に、世界の苦しみと、分離して、滅、そのもの、の、世界と同居することで、
苦しみが、そのままあっても、それが、もはや、わたしの心中ではなく、他ごとのようになってしまうこと
そのようなことが、あったのではなかろうか
まあ、わからんが、、、 様々な出来事
これが、問題である
この、出来事というものが、わたしのものではないというのは、わたしが、それから切り離されることであり、それは、わたしが、この現象界からいなくなることではなかろうか?
この現象界は、わたしが作ったものではないので、なんども形を変えて、現生してくるもので、これが、肉体的な有無の話ではなく、永遠の苦しみの輪廻としてあるとすると
滅というのは肉体の話ではないはずである
精神が、ことごとくの事柄の向こうに、空、あるいは、滅、を通すことで、あらゆる自体そのものから、触れられない空間になること
そうすることで、永遠の再生が、続きながらも、自らはそこに、いないことで、、、
うーん、これは、不可能である話になってしまいそうだなあ
あーー、むずい 343.342.341.
苦しみ、を分離して、捨象することである。
なんでか。
それは、自分が生産したものであるからである。
悟り、とは、それができる、という自覚である。
残りは、そのための方法論である。 >>344
与える、戒律を守る、忍耐する、努め励む、静慮禅定する、智慧を完成する
というのが、苦しみとなるのは、それに対抗しているものが、あるからだよね
ケチだったり、プライドだったり、自覚がなかったり、怠け者だったりか、、、
そういうことの原因は、いろいろあるのかな
まあ、人それぞれ、嗜好が違うものだろうけど、やはり、まじめに、六波羅蜜目指してる人が、仏教の道の先輩なんだろうな
中身の問題?
そんな気がした とりあえず、中村元さんの『龍樹』手に入れたから読んでいこうと思う 昨夜はイイ夢を見た
まあ内容は伏せるが、夢の中では楽しい思いをしていた不思議なことである
龍樹さんは難しすぎてよく分からないが、原因があって結果があるという話を、時間的にみるのではなくて、相対的にみるということだろうか
悟りがあるから迷いもある
悟りがなければ迷いもない
というような 347.。原因があって結果がある、か。
よってして、迷いがあるから、悟りがある。迷いがないと悟りもない。
順序が正確でないことになる。
だからして、悟った人には迷いがない、か。否である。なんでか。 >>348
悟りも迷いもない
のが、悟りだからでしょw
まあ、だけど、日々、苦しむ反応をしている事実を無視するのは違う気がしてきた
だから、この気質の改善をしていないといけないけど、その起点として、悟りではないのかもしれないが、その、無の、まあ、有無のない空でもよいが、瞑想のチカラは使えるかもしれない
だから、それが悟りではなくて、それを使って実際の苦しみがなくなるまで、辛抱強く、そこへ帰ることをしてくんじゃないかな
それが六波羅蜜とか、念仏座禅とか、戒律とか、まあ、いろいろあるということ
それか、あれだなあ
苦しみがなくなることはなくて、苦しみに対する受容があるだけかもしれない
そっちだったら、まあ、もっとシンプルだね
そっちのほうが魅力的ではあるね ていうか123さんがポッたんさんだったの?
ポッたんって人は、もっと、鋭いこと書いてた記憶なんだけどなあ
違う人だったのかアレは
まあ、とりあえず中論の続きでも読みますか
あ、龍樹かw >>351
バカには違いない
バカでなければ、理解してるだろう 普通の意味で苦しみがなくなるなどあるのだろうか?
よく読む話では、それがあれば、それのみであって、わたしは、そこにない
これが、キモではないのだろうか
普通は時間空間の変遷の中で、わたしに起こっている出来事と思われているものが、起こっていることがあるのみである
苦しみ、例えば、精神的な反動や、肉体的な反応が、あるのは、なくなるはずがなく、なくなったとすれば、もはや、なんの役にもたたないし、なんの理解も起こらない
この今あること、が、例えば見ているなら、見ているがあるが、それは、なんらかの主体的ベースの上にあるわけではなく、それが、今現にあるのであり、しかし、それは、流れている
それそのものが、生じたのではなく、縁によってあるのでなあれば、あるのであり、ないのであればないのであり、、、
そのような、ものの理解が、五蘊の働きの、総合主体というのか、受け手の存在を、架空のものであると見抜いた時に、
あらゆるものが無常であるから、苦しみであるが、その苦しみは、苦しみのみがあって、その、苦しみを受けるものがいない
そうなると、消失したのは、ベースとしての、わたしという主体性だけだが、その、主体性というのは、実は、元々ないものである
となる これに対して、苦しみ、そのものを、消してしまうとなると、如何なるアクロバティックな技が必要になってくるだろう
普通に、超越的な力を出現させたり、異次元領域をだしてくるわけだが、その、神秘の、諸力が、現象的苦しみを消し去ると、わたしは、存在しないのではなく、現象を、つまり、苦しむ現実を無視して、ある特殊な、精神上内に、わたしが、完全に存在するかのような状況になる
これは、わたしのないのではなく、わたしが、無というような、または、真我というような、感受の否定点に後退したのである
正に穴蔵に引き篭もるように、、、
しかして、それでは、生活は成立しないので、これを推し進めれば、必然的に、なんの役にもたたないし、何の理解もないような、特殊な空間で、存在する錯覚を見ているような状況になるのではないかと思われる
こうなると、あらゆる接触を無視していかなくてはならなくなり、、、
健全なものではない
めでたい安らぎ、というよりも、虚無であるような印象である
それだから、この現象以外に、特殊な神秘領域を見て、そこに、宗教的概念の名称をくっつけてラベリングするようなことは、
なんとなく違うんじゃ??
と、 苦しみは苦しみのままに、
それで解決してる、清涼である
苦しみや喜び、そういう「人の生活」
この生死がそのまま涅槃という解決の上に行われてるんだよってことか 「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」(正信偈)
「生死の中に仏あれば生死なし、但生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし」(修証義) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています