>コースの教えは「実は何も起こってないのだ」という見方をし、罪を見て手放す
>そして赦しは落ち着いて何もしないそうです
>しかしあなたは、相手を赦し裁判にかけるのもアリだと言う
>矛盾しててそれのどこが赦しなのか意味不明です

あなたの誤謬は、赦しを心のレベルではなく行動規範のレベルにおいて
解釈し判断していることです。あなたは赦しを、○○でなければならない、
○○するべきである、という教義として捉えてるんですよ。
それは単に抑圧しているだけです。ニセの赦しです。

この社会、我々が現在のところ実在していると見做しているこの世界において、
それぞれの地域・時代において生じうる様々な事象に対して、
その行動規範を変えるのはコースの教えていることではありません。
コースはその地域・時代における様々な事象を教材となし、
それらを「心のレベルにおいて」聖霊に委ね、聖霊の視点を選び直す、
ということを教えているんです。「行動規範」をある特定のスタイルに正すことではありません。
あなたのイメージしているような聖人や善良な人らしく振る舞う、ということではありません。

コースの実践はその実践者が生きているその地域・時代を支配しているルールを逸脱し、
風変わりな人間として生きていくことではありません。
その実践者が生きている地域・時代においては戦争に参加することにもなるでしょうし、
その戦争で敵を攻撃しなければならない状況にもなるでしょう。
しかし赦しとはそのような外的な行動様式を変えることではありません。
その人の心のレベルではそれらの事象を教材となし、聖霊の視点を選択し直すということです。
その結果として戦争は早期に集結するかもしれないし、そうはならないかもしれません。
しかしそのような表面的な現象は実はどうでもいいことなのです。
それらの事象は本当は起きていないのだから。