宗次郎はそのような苦しみの中で、神様に祈りました。そして、彼は「御心がなりますように」とくじけることなく
神様を信じ、神様に従い続けたのです。普通なら、迫害のない違う土地へ移るところですが、宗次郎は、むしろ、
その土地の人々に神様の愛を持って仕えることを選びました。

牛乳配達と新聞配達のため一日40キロの配達の道のりを走りながら迫害する人々にキリストを宣べ伝えました。
10メートル走っては神様に祈り、10メートル歩いては神様に感謝をささげた話しはあまりにも有名です。
そして、子供に会うとアメ玉をやり、仕事の合間には病気の人のお見舞いをし、励まし、祈り続けました。
彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく町の人達のために祈り、働き続けました。彼は「でくのぼう」と
言われながらも最後まで愛を貫き通したのです。そして、1926年に彼は内村鑑三に招かれて、
花巻を去って東京に引っ越すことになりました。

花巻の地を離れる日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、
学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は、停車時間を延長し、
汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたというのです。
実はその群衆の中に若き日の宮沢賢治もいたのです。