(つづき)
福音書は私たちに、イエスが行われた多くの奇跡と不思議な業を通して、神の国が近づいたしるし(マタ 12:28)を読み取ることを求めているのです。
それは信仰によってだけ可能なことであって、決して人間が神に証拠を見せろと要求することではありません(マコ 15:32)。

イエスは、ファリサイ派の人々の求めに対して、しるしを与えることを拒否されました(マコ 8:11-13)。
しかし同時に奇跡と不思議な業が、神の国は近づいたという御自分の宣教に耳を傾ける人々にとっては、十分に理解できるはずのしるしであると見なしておられました。
福音書の記事は、イエスが間違いなく御自分の数々の奇跡と不思議な業を、イザヤによって預言されていた主の日の到来のしるしであると理解しておられたことを示しています(マタ 11:2-6、ルカ 4:21)。

このマルコ福音書の並行記事である ルカ 4:22以下 では、この不名誉な呼び名が “ヨセフの子” と修正されてはいますが、イエスを町の外へ追い出して殺そうとした(ルカ 4:29)という結末から判断して、同郷人たちがイエスにつまずいたことが分かります。

神はキリストによって世を御自分と和解させ(IIコリ 5:18-19)、御子を死者の中から復活させて(エフェ 1:20)主またメシアとされた(使 2:36)という神の国の福音を理解しない人にとっては、ただ福音書が語る “しるし” が理解できないだけではないのです。
イエスにつまずく人は “キリストに敵対し”(マタ 12:30)、“キリストとその言葉を恥じる者”(マコ 8:38)となるという現実を、私たちは厳粛に受け止める必要があります。

・・・・・ 以下、本文参照。
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