X



トップページ心と宗教
694コメント420KB
【日ユ同祖論】お稲荷さん、お狐様、稲荷神社に纏わる話【渡来説】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001神も仏も名無しさん垢版2017/10/23(月) 11:33:51.08ID:70xO4nn8
稲荷神社に纏わる話を諸説交えて語るスレッドです。
0495基本。垢版2018/11/23(金) 11:22:51.15ID:GY3UNDP+
> http://blogs.yahoo.co.jp/tenriisetakashi/MYBLOG/yblog.html
> 教理
> 傑作(0)2010/6/22(火) 午前 1:17日本三重県 Yahoo!ブックマークに登録
> 私は教理を知っているし、私は神様も知っている。神様も私が何を考え、何をしているとか全て私のことを知っているから、
私が「おさづけ」を取り次いだときに、神様が御働きくださり、治して下さっている。
> 教理を知らない人間に、神様が御働らきくださることは少ないでしょう。
過去に深谷忠政さんが、海外でおさづけを大勢の方にお取次ぎして、次々と助かったと、そんな実話と映像が流された時代があって、
その再来という狙いで、海外でのお授けを「布教」としてイベントしている「先生方の企画」があるやに聞きました。
それを、天理教の看板でするのですから、おやさまは格別なご守護も、一列の子供可愛いから、してくださる。
つまり、病人さんは治る。
奇跡だ奇跡だ、・・
それが昂じると、
> 教理を知らない人間に、神様が御働らきくださることは少ないでしょう。
などという、知ったかぶりが顔を出す。
歴史上の事実として、教理も原典も何も知らないに等しい無名のお助け人たちが、奇跡的お助けを続発した時代がありました。
おやさまは、「今は苗代道」と言われていた。
初代と言われた人たちは、その旬だったから、お助けが上がった。
それを、初代様のお徳とか、理のある先生とか、教理の生き字引とか、病助けの名人とか、「低慢」していて、
理の親信仰という「雑念」を「大埃」をはびこらせた。

きちんと、原典は読まれるべきであり、史実はちゃんと学ばれるべきです。
0496基本。垢版2018/11/23(金) 11:27:07.28ID:GY3UNDP+
おやさまは、扉を開くか閉じるかを人間に尋ねて、結果として扉を開いて「地を均し」た。
その頃も、奇跡的にお助けが上がったと。それは、おやさまのお陰。
なのに、人間は、おやさまの神名「天理王命」を復元するどころか、その逆であった。・・
それで夜昼を変える事情となった。
今までにもご紹介した、お指図に残された明白な史実です。

天理教の今の旬は、「国から」。
言い換えるなら「末端」から。
宣伝行事のイベントお助けには、「匂い」はあるけれど、匂いばかりを、正味と勘違いしない事です。
本当の豊年を「末端から」。
それが、今の旬と言う事です。
本部から何々しますは、古臭い理の親族の手法なのです。
0497基本。垢版2018/11/23(金) 11:30:56.63ID:GY3UNDP+
お筆先の中に記された「甘露台勤め」。
そして、おつとめの地歌の「模様がえ」といわれる、二種類の地歌。
そこに、原典に記された「甘露」の教理の基本があります。

「一列すます甘露台」。
月日が一度言われた事には普遍という、この思案大切です。
「一列澄まして甘露台」。
これも月日が言われた事です。
この、二つは、二つ一つに思案してようやく意味が分かる、「二つ一つが天の理」の、まさに天理と言う事です。
模様を替えたと思案した当時の高弟達と同じ誤解に、陥らぬ事です。
0498基本。垢版2018/11/23(金) 11:33:26.71ID:GY3UNDP+
さて、もう少しきちんと話を詰めておかねばならない。
お筆先九号では、「台が出来建ち次第→つとめする」と、理が知らされてある。
 このだいがでけたちしだいつとめする どんな事でもかなハんでなし 52
 このだいもいつどふせへとゆハんでな でけたちたならつとめするぞや 53
 これさいかつとめにかゝりでたならば なにかなハんとゆうでないぞや 54
 これをみよたしかに月日ぢきもつの あたゑしいかりたしかわたする 55

それでは、十号には何が示されているかというと、「人衆の模様・人衆寄せ→台が出来る」と、言う順序である。
 このだいをこしらゑよとてたん/\に 月日人ぢうのもよふするなり 29
 人ぢうがしかとよりたる事ならば そのまゝだいもでける事やで 30

そこで、「人衆を寄せる→台が出来る→つとめする」と言う順序が明白にあると分かります。
では、「澄ます」という問題は、どの順番で出てくるのかというと、

お筆先では、第十号に、このようなお歌があります。
 このやしきかんろふだいをすへるのハ にんけんはじめかけたしよこふ 79
 なに事もみなこのとふりはちめかけ せかいぢううの心すまする 80
世界中の心を澄ませるのは、元の屋敷に「証拠」があってなすことという順序があるということです。
「一列澄ます甘露台」とは、十号のこのお筆先に知らされた、甘露台の意義を明確にしらせてしるお勤めの地歌ということです。
0499基本。垢版2018/11/23(金) 11:42:29.19ID:GY3UNDP+
人衆が寄り来る、→ 台が出来る → つとめが出来る
この順番は、基本という事になります。

人ぢうがしかとよりたる事ならば そのまゝだいもでける事やで
30
このみちハどふゆう事であるならば 月日つとめのてゑをふしへて
31
それよりも月日一れつせかゑぢう つれてゞたならひとりでけるで
32
これさいかたしかにでけた事ならば 月〃つとめちがう事なし
33

そこで、不可欠な要素というものが、指摘されてあります。
「月日つとめのてゑをふしへて」。
31に知らされた「手を教える」という要素です。

それよりも月日一れつせかゑぢう つれてゞたならひとりでけるで
32

人衆を寄せるには、先ず先に、月日が勤めの手を教えておく必要がある。
次に、「月日が連れて出る」必要がある。

つまり、「本部志向」ではなく、「世界一列」に出て行く必要がある。
0500基本。垢版2018/11/23(金) 11:45:18.50ID:GY3UNDP+
だから、海外のお助けイベントは、月日から教えられた「手」・おさづけの手を、外にて使用している点で、
そこだけは理にかなっているという偶然があって、おたすけがあがったというけれど、
実は、心澄ませる、という「澄ます」は、それだけでは何もないわけで、おさづけは効くぞと自己満足では、まったく原点無視の天理教。
イベント大好きな理の親族の悪しきをひきづっていては、出鼻のにごりではなく、単なる悪しきです。

月日が連れて出るには、何が大切なのか。
それは、お筆先十号に切々と語られています。
そして、世界の心を澄ましに出るという意味も、意義も、語られています。

おさづけが効いたぞではなく、心澄ませるという理の働きに、かつもくすべきです。
おさづけは「路銀」。道中の目的は、心澄ませる人材の寄せにある。
それはすなわち、一列に澄ますであり、澄まして甘露台という、天理の実行に着手せよという、神意そのものです。
0501基本。垢版2018/11/23(金) 11:57:17.99ID:GY3UNDP+
つまり、月日が「つとめ」の手を教えるという事は、普通の意味としては「勤行」の為。
そのように人間は理解しがちです。
すると、諸井国三郎さんや山本利三郎さんのように「本部・中央」志向という落とし穴にはまります。
お筆先では、外向けに、出る事を諭しておられます。だから、ここに逆転の発想が大切になります。
 「つとめ」の手を教える → 世界に出る・一列澄ます →人衆寄せる
「つとめの手を教える」とは、その「手振り」で、お助けして、一列の胸の掃除をするという意味がある。
「一列澄ます甘露台」とは、その事を意味します。

その結果として、一列の中から人衆が寄せられて、そして「甘露台」が立つ。
「一列澄まして甘露台」とは、その事を意味します。

二つは一つなのです。
それは、田の修理を終えた、神名の復元の叶った今という旬から始まる。
天理王の道に、私たちは、立っています。
0502基本。垢版2018/11/23(金) 12:01:06.46ID:GY3UNDP+
八つ 山の中でもあちこちと、天理王のつとめする。
九つ ここでつとめをしていれど 胸の分かりた者はない

おやさまから、つとめの手を学ばれたら、
山の中へと行く。
それが「あらきとうりょう」。

山本利三郎さんは、国の架け橋、心がけず地場に固執して・・
諸井国三郎さんは、国からの橋を、心がけず本部に固執して・・
甘露とは、先ず「地域社会」。
「国々処ところ」
ここに、天理王のつとめの舞台。「道なき道」がある。

お筆先に知らされた、本真実です。
暮らす現場、地域社会の日常。そこに道なき道に、道を付けることは荒木棟梁の使命です。
それは、「いんねん」とのいわば闘いです。

宗教の本部指向は「ユートピア幻想」「理想郷幻想」です。
この世ならざる世界に救済を求めるようなものです。
おやさまは、百姓女という日常から、道をお付けになった。
それは、因縁切りの道そのものであり、幻想ではなく現実です。

いんねん。
因縁ある土地、人々、そこでつとめの手を振るとは、天理の実践であり、教理を学ぶのは、そのためのものです。
0503基本。垢版2018/11/23(金) 12:04:06.04ID:GY3UNDP+
ある時期から、5ちゃん政治板への投稿は封じてきました。
おやさまは、国会ではおさまらないと言われています。
人間が議論を尽くすということは、世論を重視するということは、ある意味では人間思案の寄せ集めですから、
「人間思案」ではどうもならないという天理の基本があてはまります。
冷静に見つめるなら、国会ではおさまらないというのは、
「濁った者はえらい/\道。 」
偉い、では、治まらないという事で、理は一致します。

甘露台一条の道というものは、そうした権力とは無関係にあるもの。
2チャンネルもまた、掲示板もまた、権力とは無関係にいられる間だけが、正味の価値ということでしょう。
経済は大河です。
政治で管理できるのは、そのほんの一部分。
それを過大評価するという誤解は、あってはならないと自制します。

悪魔よりも悪魔的なものが、中山みきの教えた天理ではないかと、常々から思案しています。
そう簡単に、幸福が得られるようなものではない、そこにブラックがあります。
この世を普請する、そこには、「人間の心の自由」を保障しつつ、
人間の心の欲している幸福ではない、世論に支持される幸福ではない「陽気ゆさん」という幸福を流布する、
悪魔的な、世界観があります。

今、基本が悩んでいるのは、その流布の「善・悪」についてです。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況