一番正しい究極の教え
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>>43
> 神の存在は、まず最初は半信半疑であれ真剣に《唯一なる、愛と全知全能の神の存在》をイメージ・意識し、
> 《少しでも神様の御心に適った生き方が出来ますよう、そして過ちを起こしませんように》と祈りつつ暮らしていると、
> 仕事や私生活を含めた日常の中で、常識や確率を越えた不思議が体験できていますね。
確かに真剣であればあるほどその体験はリアルになるようです。
イスラム教を真剣を信じている人はその教義の証拠を見出しますし、
天理教を信じている人は真剣であればあるほどやはりその確証を得、奇跡を体験します。
あるいは疑いを持ってその教義に接している人もその教義の真実を見出したりすることもあるようで、
結局のところ人は見たいものや意識しているものを見るみたいですね。 >>43
> やはり、こういう部分は《百の論より、証拠》で、《自分自身で証拠を体験する》のが一番だと思いますし、
> 人によっては、それしかないのかもしれませんね。
これが証拠であるという判断は、人がするわけですね。
ある人はこれが証拠だといい、
べつのある人は、いやいやそれではなくてこっちが本当の証拠だと言います。
そうやって、カソリックがあり、プロテスタントがあり、イスラム教があり、エホバの証人があります。
もちろんそれはそれでいいのですが、
ここでは、そういったものを超越しかつそういったものと相反することの無いものについて、
議論できればと思います。 阿含宗及び桐山管長は悪いほうへ行ってしまったと聞いたのでダメだが、原始仏教である
阿含教の7か37道品ははやく解読しきり具体的には何をやるのかネットなどに載せ
コースも作るところは作って出来るようにすべきである。そうしないと本当の悟りは
いつまでたっても得られない。よく禅宗の坊さんが悟ったと言ったことがあるのを聞いた
ことがあるが、故桐山が生前言うには違うものだと言う。グモンジソウメイホウも
空海が出したまんまたどっただけでは違うものらしい。いぶきながよのほうもそうなのだろう。
ただ釈迦にも欠点はあり7か37道品の最後の八正道は中道を軸に作っているが。
中道でいいところはいいが、裏目に出ると肝心のところで中道ではなく中途半端に
(中途挫折)に物事が終わってしまう。しかも釈迦は自分がそれで失敗すると、なんでも
正当化して、しかも本当に成功してる者を二面性屁理屈などをつかってけなして騙し
全部中途半端に引きずり落としてしまう、そうしておいてそのダメ達の中では自分が勝った
と錯覚しようとする。
これでは今度は悟り以外なんともならなくなる。
ここはどうにか改良、改善して使わなければならない。
どうにか静と動になるようにしたい カーリー か オーディーン か というところかね。 書籍
【スワーミー・ヴィヴェーカーナンダと日本】
(スワーミー・メダサーナンダ/日本ヴェーナンダ協会/1000円+税)
この書籍の103〜147ページ『付録三 人間の本性』を読んだ時、これこそ真理、真の宗教と思いました。
他のスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの書籍も読みたいです。
お薦めします。 >>47
「悟り」という言葉を持ち出すと、
定義が色々あって結論が出なくなります。
釈迦が最初に悟りを開いたとされていますが、
それがどのようなものかは本人に聞かないと分かりません。
般若心経が彼の悟りを色濃く表現していると聞きますが、
それも解釈が分かれたりします。
とはいえ、何が究極かを見出すためには、
まずは、基準となるものが必要だと思います。
悟りを開いたか?
神を見出したか?
癒されたか?
真我を見出したか?
すべてを知ったか?
何を基準にしたらいいでしょうか? 自我は無色透明中立でしょうか?
そうでないなら偏っているということになります。
偏った者の言う事を信じるわけにはいきません。
偏った者が究極を見たと言ったとして、
それを真に受けていいかどうか・・・。 井の中の蛙という言葉がありまして、
ネガティブな意味合いで使われることが多いですが、
井の中しかないときはもはや井の中ですらないんですよね。
つまり井の中の蛙は全てを知っているわけです。
さて、人はどのようにして出口の無い迷路に入り込んでしまうのでしょうか? >>55
> 自我は無色透明中立でしょうか?
もし、無色透明中立ではない場合、
自我の判断を信じてもいいのか、
・・・というテーマはいかがでしょう? >>1
とにかく”凡我一体”を為し得る宗教。
宇宙・霊界を体得し得る宗教。 >>57
その思想は釈迦より前からあったのでしょうか?
はじめにそれを見出したのは誰なのでしょうか? ちょっと厳密に。
凡我一体を為し得るのか、
すでに凡我一体であることに気づくのか。。。 凡我一体を為し得た後で、我に何か変化はありましたか? なんか人生飽きた。
自殺しようか迷う。
でも、自殺して無になれなかったら嫌だなぁ・・・・・。
無になれないどころか、無間地獄に落ちて永遠に苦を味あわされたりしたら超最悪だしなぁ・・・・・。
自殺するか迷う。 お前ら本当馬鹿なんだな。
ものを自分で考えられないってヤバイぞ。
人なんか生きてる意味無いんだから正しいとか間違ってるとかないだろ。
ただ生きててそこにものを解釈し選択し同行どうしたかがあるだけ。そこに正しいとか間違いとか付け加えるのは人間のエゴだ。恥ずかしいな。 >>64
確かに人生にあらかじめ決められた意味は無いのですが、
問題は、意味がないと不安になってしまう精神にあると思います。
どうすれば、人生に意味がなくても安心でいられるでしょうか? 特定の宗教では無く、「普遍的な神や死後の報い・因果応報」を理性的に知る為に凄く良い本。
有名なアラン・カルデック著の
『霊との対話-天国と地獄2』
唯一、幸福の科学出版という部分だけが少し抵抗あるけど、
内容は全く幸福の科学は関係無いので安心して読んでほしいと思う。
ちなみに『天国と地獄1』は既に廃版で新品では手に入らないし、自分も読んでいないけど、
『天国と地獄2』だけで充分だから、全ての「神や死後世界に関心ある人」にお勧め。
最初に最終章のアランカルデック自伝部分は必読。
この本の冷静な説得力が分かります。 『神との対話』シリーズの神。
どこか特定の宗教だけの神ではなく、
世の多くの宗教にインスピレーションを与えてきた普遍的な唯一の神。
イエスの事も「イエスは最高のマスター(師)の例だが、イエスだけが聖者・マスターではない」と。
今回は宗教や格式を超えて、愛を持って気さくな形で人類に語りかけてきてくれた。
この愛の神を本当に信じ、心に受け入れれば、本当に世界の観方と経験が変わると思います。
《10分で読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome 神を体験した人がおり、
死後の世界を見た人がおり、
霊と対話した人がいます。
すると、神や死後の世界や霊の存在は、
その人の認識が完全に正しいことを前提に成り立っています。
もし、少しでもその人が間違う可能性があるのなら、
神や死後の世界や霊の存在は間違いである可能性があります。
「私」というものが認識する事象は、
果たして完全に正しいのでしょうか?
「私」によらない、つまり体験者のいない体験はあるでしょうか? >>70
『神との対話』は素晴らしい書物だと思います。
「精神によってそこに達することはできない」
のような記述があったと思いますが、
何を言わんとしていると思いますか? >>70
青い炎とひとつになる、
というのは試されたことはおありですか? >> 72
対話の中では、例えば欲しいモノ・成功や天国に達する為に、それを欲するという“行動・精神”ではなく、
そのようなモノを既に持っているという“存在”になりなさい。
むしろ、欲しがる事で、手に入らない事になるから。
というような一節がありますね。
本当に必要な物は、我々が欲する以前に(完璧な神から)全てが与えられているのだから、
「ことさら今以上に何かを欲するという精神・行動」よりも、
まずは「必要なモノは今に全て与えられているという自覚・感謝」が大事なことではないかと思っています。
何かをする事で天国に行けるのではなく、既に天国にいるという自覚と受容が大事だと神は言っていますしね。
「まず何よりも、喜びの感情が大事」とも神は言っていますから。
この点で、最初の頃の(物欲性メインの)ニール氏と(精神性メインの)神との対話のチグハグになった部分が、
この本のユーモラスで人気が出た部分だとも思いますが。
>> 73
「神との友情 上巻」の後半部に書かれていた、
理性を静かに忘れるような瞑想?によって“自分の魂”を体験する部分ですね。
時々、私も神のいう、静かで深い呼吸による瞑想の真似事のような事をすることはあり、
癒される感はありますが、まだ青い炎は見えたことはないですね(笑)
>>74
精神の動きは二元論であり、
釈迦の手の平の中での限られた動き、
つまり平面的な動きですね。
どんなに遠くまで行ってもその中にいます。
信じる信じない、善と悪、優劣、リンゴとリンゴ以外、などなど。
つまり、単純化して言うと「これ」と「これでないもの」です。
精神は、必ずこの2つの中で活動します。
では、そこから飛び出すにはどうすればいいか・・・。
***
「今にすべてがある」
これを信じるのではなく確認するためには、
どうすればいいでしょう?
***
青い炎はひとつの方便ですね。
世界は即私ですから、
必ずしも青い炎に限る必要があるわけではなく、
何でもいいのですが、
何でもいいよと言ってしまうと
どうしたらいいか分からなくなってしまうので、
便宜上限定したようです。
青い炎を見たという人の話を聞いたことがありますが、
どうしてもそれとひとつになれないという人や、
ひとつになってみたら何も無かったという人がいました。
ひとつになる、つまりそれ一色になるということですね。
没頭するとも言います。
無心で無我夢中でそれになりきるとも言います。
これは、人はどのようにして迷い苦しむのかということと関係しています。 >>75
「今にすべてがある」という言葉は、「神との対話」上では、
今・今日しか存在しないと思って大事に生き切る。
今・今日に過去や未来も全て存在している。
の2つの意味が考えられますが、
前者は、本当に自分が体験していられるのは今日一日しかないので大事に生き切るということで分かりやすいですが、
後者に関しては、これは非常に抽象的で私にも確認の方法は分かりません(笑)
ただ少なくとも今・今日の生き方のベクトル(方向性)が自分の未来の幸・不幸を決め創造していくのは事実だと思います。
>>76
過去や未来は記憶(思考)の中にしかありませんよね。
今には何があるのか、
つまり、思考が起こる前ですね。
思考がどのように働くのかが分かれば、
今に何があるのか想像することはできます。
あとはそれを確かめるだけになります。
今を確かめることができれば、
すべては私の作り事であることが分かります。
(神も死後の世界も霊もすべて)
「人生は創造である」という本の言葉通りですし、
「色即是空 空即是色」という誰かの言葉通りです。 >>77
「今を確かめる」と言っても、
私が確かめることはできませんし、
仮に確かめることができたとしても、
それを信じるわけにはいきません。 キンコン西野のリベンジ成人式についてどう思いますか? 何らかの事象を認識するためには、
記憶というものが必要です。
つまり、音を認識するためにも、
リンゴを認識するためにも、
神を認識するためにも、
記憶が必要なわけです。
記憶という機能が認識というものを創り出しているのですね。 宇宙に果てはあるか?
ない。
そもそも宇宙自体が無い。
つまり空間がない。 同時に空間はあるのです。
お分かりでしょうか・・・ >>1
自分一人だけが正しい
ということだけが間違っているということ >>86
自分ひとりだけが正しいと言いましたっけ?
まあいいです、自分ひとりだけが正しいとします。
それがどのように間違っているか教えてください。 >>1に言ったのに、真面目だね。それは良い所だね
自分が誰よりも完全にわかっているってことだけはないですからね 時は無限。
死んだ後も1億年〜1000億年〜無限〜って無限に過ぎていく。
途方もない時間をかけて地球や太陽が消滅しても時は止まらない。
100000000億万年なんかもいずれ過ぎ行くだろう。確実に。
自分が死んだ後も永遠に果てなく時間は存在し続けるのに自分は死んだら終わり。
永遠に果てない時間のなか10000000億万年過ぎようが自分はもういちど存在することはできない。
いくら待っても。いくら待っても。
思い出にふける事すらいくら待っても出来なくなる。それでも時や宇宙はあり続ける。怖い >>88
87は1です。
>自分が誰よりも完全にわかっているってことだけはないですからね
それはまったく正しいです。
そして同時に間違っているのです。
おわかりでしょうか? >>90
> 時は無限。
> 死んだ後も1億年〜1000億年〜無限〜って無限に過ぎていく。
> 途方もない時間をかけて地球や太陽が消滅しても時は止まらない。
時間は人間が創り出したもので、
実際にはありません。
決め事に過ぎません。
> 100000000億万年なんかもいずれ過ぎ行くだろう。確実に。
> 自分が死んだ後も永遠に果てなく時間は存在し続けるのに自分は死んだら終わり。
「自分」というもののメカニズムを明らかにすることで、
すべての謎は解け、問題は終わります。
> 永遠に果てない時間のなか10000000億万年過ぎようが自分はもういちど存在することはできない。
それが貴方の問題なのですか?
> いくら待っても。いくら待っても。
> 思い出にふける事すらいくら待っても出来なくなる。それでも時や宇宙はあり続ける。怖い
宇宙があるのですか?
どのようにして確かめられたのでしょう? >>92
>>88です
>>1でしたか、知らなかったため失礼しました
同時に間違っているということは
>>88で言ったことがすでに間違っていると言いたいのかもしれませんが
ちょっと理屈っぽいです
自分だけが正しいことが間違っている
といったのが間違いなんて言えば何一つわからなくなりますね
こういう教訓じみた言葉というものは、ほとんどすべてが戒めのための例えになっています。
客観的に、論理的に正しい言い方で、証明するような教訓は有りません。
教訓とは最初から教育のためです。大人であろうと間違うことがあるからです。
「たとえ勉強して確認したとしても、もっといい意見があるかもしれない」と
常に謙虚な気持ちですごしましょう、うっかりあやまちを犯さないために。
ということなのです
こいつの言うことは明らかに間違っていると勉強したら誰だって思います。
しかし、いつでもどこでもそれが絶対、というわけじゃない。
違うこともできる場所というのもが世界のどこかにある。
今の自分にも知らない世界はあるんだと、頭の片隅に残しておきましょう。
絶対にそうならなければいけないということではなく、
そういうつもりで過ごせば、間違いは減らせると思います。 自分のメカニズムを明らかにできない(?)から自分は悩み続けてたのかな。
時間という存在の捉え方や宇宙に対する盲信。
少し頭固かったのだろうか。
結局のところ問題は仰る通り自分の消失。
そしてそれの永久持続による恐怖。
時間は決め事に過ぎないとした上でも想像すると恐怖に飲み込まれる。
自分は世の理によってただ存在し、ただ消滅する事を自然だと受け入れるしかないのか。
聞いていただいてありがとうごさいます。 >>95
唯物論から虚無感に駆られるのは自殺へと誘い込む悪魔の罠
気をつけろよ >>96
ありがとうございます
心に留めておきます >>97
どういたしまして。
若い頃の自分自身を思い出して、つい、横レスしてしまった。
寝落ちします。 >>99
拝見しました。
どうやら自分には唯物論の考えが染み付いてるようで簡単に信じる事はできませんでした。
しかし、何事も断定は難しく可能性があることは信じざるを得ません。
答えはまだ出ませんが自分を救える考えの一つになるかもしれないお言葉ありがとうございました。 >>96
ある批評家が自殺してしまったね
西部なんとかいう人だったかな
あの人も何かが怖かったのかな
違う考え方を知ることなく、そのまま死んでしまった
前レスに長い時間(那由多の時)を過ぎてもまだあるのがなんか怖いと言っている人がいるけど
怖いのは何だかわからないから
そこがどうなっているのか知ると、そこまで怖くなることはないと思う >>101
西部邁という人がなぜ自殺したのか知らないが、中年以降に自殺する人は大抵、もっと現実的な悩みを解決できずに死を選んでいる。
経済問題・病苦・人間関係といった、いわゆる貧病争で個人的な問題が彼にもあった可能性があると思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは、「今」をしか生きられない。「永遠の今」を生きている。
ただ、神は数多くの魂を造られたわけで、無数の魂が愛し合い、競い合うその姿こそ、神の喜びなのではないだろうか?。
人々が争う姿は神の望むところではないが。「自由意志を与えた以上、やむを得ぬ」と考えているのではなかろうか。 >>94
ごめんなさい、そっちの方向じゃないです。
正しいとか間違っているとか、
二元的な話をしていません。 >>95
> 自分のメカニズムを明らかにできない(?)から自分は悩み続けてたのかな。
「自分」が苦しんでいるんですよね。
なぜ、自分は苦しむのかってことですね。
> 時間という存在の捉え方や宇宙に対する盲信。
> 少し頭固かったのだろうか。
> 結局のところ問題は仰る通り自分の消失。
> そしてそれの永久持続による恐怖。
> 時間は決め事に過ぎないとした上でも想像すると恐怖に飲み込まれる。
> 自分は世の理によってただ存在し、ただ消滅する事を自然だと受け入れるしかないのか。
> 聞いていただいてありがとうごさいます。
自分が消えてしまうことが恐怖である、
ということでしょうか?
そもそも自分があるのでしょうか?
はなから自分は存在していないとしたらどうでしょうか?
自分があるから苦しいのでは?
一体全体自分とはなんでしょう?
それはどのような働きをするのでしょう? >>104
「自分が消滅する」というのは物質的な捉え方というか唯物論者の妄言だよ。
死をこの世を去ることとして、当然この世に生きている人たち(残された人たちといってもよい)にはあなたの存在は見えなくはなるが、あなたの本質が「心」であれば、あなた自身は消滅などしない。 うまく言えないけど、今のあなたに必要なのは、むつかしい言葉じゃなくて、「生命力」みたいなものじゃないかな。
私が、若い頃、勇気づけられ魅かれた歌があるので貼っておきます。流行歌なのでサラッと聴いて見てください。
不死鳥伝説 山口百恵
https://www.youtube.com/watch?v=7T5W4Q8F5BE
悲しまないであなた 私のからだ(肉体)をなくすだけだわ
〜〜〜〜
心だけは とわ(永遠)の生き物 >>58
案外、古代シュメール人の庶民的な覚者だったりして。 「華厳経」や「正法眼蔵」を読む人間は
最高度の天才的頭脳を持つ
つまりそれは私。 皆さんありがとうございました。
まだ自分という存在に結論は出ないままですが考えさせられました。
この事について考え始めてからあらゆる事に気力を持つことができずにいました。
しかし、例えどんな未来があろうと今すぐに生命力を失って朽ちていくのはもったいないですよね。
目の前にある事を優先に考え、先のことはあまり考えないようにしてみようと思います。
根本的解決に至らない限りまたいつか苦しむ時は来ると思いますが、
そうやってやり過ごしていくのも悪くないと思いました。 >>105
> >>104
>
> 「自分が消滅する」というのは物質的な捉え方というか唯物論者の妄言だよ。
そうですか。
私は自分が唯物論者だと思ったことはないですが・・・。
物も心も何もない、と主張するのは何論者でしょうか?
> 死をこの世を去ることとして、当然この世に生きている人たち(残された人たちといってもよい)にはあなたの存在は見えなくはなるが、あなたの本質が「心」であれば、あなた自身は消滅などしない。
私の本質は心なのですか。
たしかにはじめから自分というものは存在しないので消滅しようがないですね。 >>109
永遠に今しかありません。
今に集中すること。
なんであれ、没頭しその中に入りそれだけになってしまう。
無我夢中になるということです。
恐怖はその中にいるときにあるでしょうか?
そこから出て評価し始めたとき、
振り返ったとき、
ではないですか? >>111
いいこと言うね。
ほかの方法もあるけど、とりあえず、いい方法の一つだと思う。
特に若い人には効果が期待できるし。 今までは多くの事に没頭し続けていましたが
一通り落ち着きそこから出た時に恐怖に襲われました。
また何かに打ち込めば忘れられるとは思いましたが、それは逃げによる一時しのぎなのではと思いました。
一時的に忘れられてもいざ死が近づく頃想像を絶する恐怖に襲われるのではないかと。
しかし、立ち向かった所で死という問いの答えを出すことは非常に困難であるのも事実です。
膨大な時間を費やして考える事で苦しみ続けるのもどうかと思いますし、
やはり今を全力で生き続け考えないようにする方がいいのでしょうかね 90さんへ
ちょっとばかり私の少年期の体験を書いておく。
小学4年生のころ「人は必ず死ぬ」と教えられ、「死んだら後、どうなるの?」と父に聞いたら「何も無い」と答えられた。
私の父は唯物論が正しいと考えていたらしく「死後の世界など無い」「宗教はアヘンである」「宗教を信じる人は馬鹿だ」などと私を教育していた。
で、その晩から、私は「死後の世界」の何も無い世界の夢をみるようになった。
深い深い暗黒の中、自分自身が存在しているかさえ不確かな世界で声を上げ、人を呼ぶことさえできず、無論周りには人に気配もない、「死んだらきっとこうなるんだ」と思ったら、怖くてたまらなかった。
その夢はしばらくの間、私の心に住み着いて、間隔をあけながら、少年期まで、確か高校生になってもその夢は私を襲ってきた。
【続く】要領の悪い書き方で申し訳ない。自分の体験を他人に伝えるのって難しいね。少し自分の体験を整理してから、改めて書きます。 >>112
> 今までは多くの事に没頭し続けていましたが
> 一通り落ち着きそこから出た時に恐怖に襲われました。
> また何かに打ち込めば忘れられるとは思いましたが、それは逃げによる一時しのぎなのではと思いました。
違います。
なぜ何かに打ち込むことが逃げであると考えてしまうのか、
このことについて一切の前提を一旦脇に置いて、
確かめてみてはいかがでしょうか。
逃げることは悪いこと、
没頭する事は一時しのぎである、
と言う思い込みがあったりしませんか?
そこから出た時がデフォルトでありベースなのでしょうか?
とゆうかそもそも日々の中で「それだけ」になっている時の方が多くないですか?
そんなに特別なことでもないはずです。
ただそれをもう少し意識的にやってみてはどうかということです。
ご飯を食べる時はご飯を食べることに集中し、
歯を磨くときは歯を磨くことに集中する。
一期一会で毎回同じ事はなく毎回新しいのです。
> 一時的に忘れられてもいざ死が近づく頃想像を絶する恐怖に襲われるのではないかと。
死後の世界を体験している自分のことを想像して恐怖に襲われるのでしょうか?
死に至るプロセスを想像して恐怖に襲われるのでしょうか?
> しかし、立ち向かった所で死という問いの答えを出すことは非常に困難であるのも事実です。
死があるのではなく死を想像している私があるのですね。
> 膨大な時間を費やして考える事で苦しみ続けるのもどうかと思いますし、
> やはり今を全力で生き続け考えないようにする方がいいのでしょうかね
考えるという行為は創造行為なのです。
ご自身の望むものを創造すれば良いのではないですか? >>115
死に至るプロセスではなく、死後永遠に無になるのでは?という事に対する恐怖です。
しかし先ほど教えて頂いた通り永遠に無という考え自体が曖昧なので
仰る通り望むものを創造する事で救われるかもしれません。
逃げる事、没頭することをポジティブに考え過ごしていきたいと思います。
>>114
お気遣いありがとうございます、続きお待ちしています。 【114の続き】
その暗黒の世界で私は孤独であることに恐怖を感じ、大声で叫ぼうとした。
だが、私には自分自身の声は聞こえなかった。そう無音の世界だった。寒いような感じがしたので、自身を抱きしめようとしたが自分には体がなかった。
手も足もボデイも無いようだった。当然、地面にあたるものも無い。
ただ、かすかに上下の方向感のみあった。自身の意識の中心を”眼”の位置とし”頭”の方向を上、”口・喉”の方向を下、とする、肉体をもっていたときの方向感覚が少しだけあった。
そして、頭上方向、遥か、遥か、遥か彼方に点にも満たない微かな光があるように感じた。
・・・・・・
多分、幼い私は「何も無い世界」「光も音も物も自分の肉体もない世界」を夢の中で体験しようとしたのだろう。
その体験は底知れぬ恐怖感を伴うものであったので、必死で忘れようとした。”死”や”死後の世界”については、考えないように努めた。
【続く】 【117の続き】
最初に見てからひと月以内に二度目を見た。その後は徐々に間隔を開き、中学生の時には年に一・二度くらいになった。
高校生になって、1年生の終わりか2年生になってからか、の時期に一回だけ見たのだが、相変わらず恐怖心を覚えた。
だが、子供の時と違い、自分の心を少しはコントロールできるようになっていた私は、「もう二度とこの夢は見ない。」と自身を暗示にかけることにした。
「見ない」と自身に誓ったといった方がより正確な表現かもしれない。
この夢(あるいは体験)はそれ以降、私には「思い出」の一部となった。
その代わり非常に明確なある夢を定期的にみるようになった。いや、見せられるようになったというべきかな?
新たに見るようになった「予知夢」はその時点では単に「明晰夢」の一種と考えていたが、約十年後に夢に出てきた通りの風景の地で現実となった。
繰り返し繰り返し同じ夢を見ていたので、事故を避けることができたが、その「予知夢体験」は私にとって唯物論を離れる大きな原因の一つとなった。
17歳のときに初めて見た夢は27歳の時、それがいわゆる「予知夢」と言われているものが本当にあると理解させてくれたのだ。
だが、実は、「予知」そのものを21歳の時に体験して、「ひょっとして、目に見えない世界があるのではないか」と考えるようにはなっていた。(その時点では”霊界”の存在にはまだ懐疑的だった。)
私が二十代の後半に「唯物論は間違ってる」と判断することになったのは、自身の体験に基づいているので、他人の前では、「さあね、唯物論と有神論どっちが正しいのかねぇ」ととぼけて見せるが気心の知れた友人は皆私がどっちを選んだか知っている。
【続く】 【118の補足説明】
118の文中で「目に見えない世界」と「霊界」と分けて書いたのは実は理由がある。
最初から「唯物論者の父」と書いたが、さらに加えて、多くの人が予想したであろう通り、父は「共産主義者」であった。
当時は米ソ冷戦下で両陣営とも軍事力での対決も辞さない構えだったが、「超能力の研究」も両陣営とも秘密裏に行っているという情報があった。
父の影響でソビエト連邦びいきであった私は、通常兵器以外の軍事力にも興味があり、「唯物論に基づいた方法で科学者が研究している”超能力"」というものはきっとあると考えていた。
両陣営とも極秘に研究しているらしく、全貌は分からなかったが、漏れ伝わってくる情報では透視・遠隔透視・テレパシーについては、一定の成果が有ったらしい。
宗教には否定的な思いがあった私は、「霊能力」はほぼ全否定だが、「超能力」となると比較的には肯定派だったのである。
自分にそういった能力があることを期待してアメリカで作られた「透視能力判定カード」(〇△☆等が描かれたわりと普通のカード)で自分を試してみたりしていた。
期待外れも甚だしい結果だったが、まあ自分が特殊能力を持っていれば、それだけトラブルに巻き込まれる可能性も高くなるだろうし、持ってなくても生きていくのに不便はないと考えて自分を慰めることにした。
多分、中学生のときだったと記憶しているのだが、一時的に熱中して本を読んだが、それっきりにしていた。
だが、運命は皮肉にも私に「予知夢」と「予知」を体験させた。運命ではなく、おそらくは・・・「守護霊」が体験させてくれたのだろうと最近は思っている。
【続くかも知れないし、身バレを防ぐためにレスを辞めるかもしれません】 実に興味深い内容なのでよければ続けていただきたいです
自身で経験する程説得力のある事はないでしょうし羨ましいですね
自分もあわよくば自身の経験によって唯物論から解放されたく思います >>116
> 死に至るプロセスではなく、死後永遠に無になるのでは?という事に対する恐怖です。
死後永遠に無になるのであれば恐怖を感じる主体(私)はいないですね。
(私がいるのであれば無ではないので。)
それとも私がいなくなることに恐怖があるということでしょうか?
でもこの場合、私はいないので恐怖を感じる者がいないです。
それとも、もし無であれば私はいないので、逆に安心できる?
> しかし先ほど教えて頂いた通り永遠に無という考え自体が曖昧なので
> 仰る通り望むものを創造する事で救われるかもしれません。
> 逃げる事、没頭することをポジティブに考え過ごしていきたいと思います。
・・・?
ポジティブに考える必要はないと思うのですが・・・。 死後、「無」になったまま二度と再び意識を手に入れる事なく時が進み続ける事を想像する事で
意識を持っている今を愛おしく感じると同時に恐怖に襲われます。
無になれば恐怖する事も無いでしょうがその状態になる事自体が怖く、生きている今現在恐怖を感じていました。
ですので何かに没頭し、考える事から逃げ続ける事も悪くはないのかなとポジティブに(肯定的に)考えてみようと思いました。
どうしても前レスの通り懸念要素が頭によぎり、目をそらす事に否定的になってしまっていたので… 90さん >>122 のレス
よく分かります。レス90以降あなたは一貫してこの件について書き込みしているので、私は、自分の少年期に見た夢のことを書いたのです。
あなたが思考から想像力によって感じている恐怖を、幼い私はいきなり夢で味あわされたように思っています。
今日は私が体験した予知や予知夢については、端折りますが、私が少年期に見た例の夢はどうやら、仏教で「無間地獄」と言われている世界に酷似しているということを、お伝えしておきます。
なお、ある人が書いた本によると、他でもなくマルクスさんは無間地獄に落ちておられるらしいです。
一方スターリンさんはもう一つの無間地獄で、相変わらず闘争の日々を過ごされているようです。
・・・・・・・
人の心はいろんなものを「創り出す」のですが、「無間地獄」もその一つです。
唯物論から、一旦、離れてみたらよいのですが。
まあ唯物論の呪縛から解きほどかれるのに20年近く掛かった愚図な私が偉そうに言えるものでもないが。
【今夜はこれっきり】 そうなんですね…
体験談等語っていただいてありがとうございます。
興味深い内容で参考になりました。
自分以外の方も似た様に苦悩した経験があると知れて少し安心しました。 前レスでスターリンの死後についてちょっと書きましたので、それについて簡単に整理しておきます。
唯物論者の落ちる「無間地獄」が2種類あり、片方は私が見た夢に酷似しており、おそらく90さんが感じておられた恐怖感とも関連しているでしょう。
対してもう一つの「無間地獄」はかなり様相が違います。この差は何なのでしょうか。
>>121 で1さんがいっておられるこの↓
>死後永遠に無になるのであれば恐怖を感じる主体(私)はいないですね。
>(私がいるのであれば無ではないので。)
という、論理的に正しい言葉がヒントになります。ただし、”死後永遠に無になるのであれば”でしかありませんが。
゛私がいるのであれば無ではない”と唯物論の゛死後の世界は無い”とを組み合わせて考えてみると、肉体の死を迎え、肉体を離れた唯物論者たちの魂(意識)は「自身の死」をどううけいれるか?
「私はいる(意識がある)ので、死んでなどいない」と思っているスターリンは、同じように考える唯物論者たちと”誰が指導者(支配者)になるか”を争い続けています。
「どうやら私はしんだようだ」と思ったマルクスさんは自分の意識が無くならないまま自身が作った「無の世界」で恐怖感に囚われ苦しんでいる。
と、私は考えています。ー 今後クンロクを使います。他の人は使わないでください ー >>125 に名前を入れずにレスしてしまった。勘弁してください。 【>>125 訂正】
123レスでスターリンの死後についてちょっと触れましたので、それについて簡単に整理しておきます。
唯物論者の落ちる「無間地獄」が2種類あり、片方は私が見た夢に酷似しており、おそらく90さんが感じておられた恐怖感とも関連しているでしょう。
対してもう一つの「無間地獄」はかなり様相が違います。この差は何なのでしょうか。
>>121 で1さんがいっておられるこの↓
>死後永遠に無になるのであれば恐怖を感じる主体(私)はいないですね。
>(私がいるのであれば無ではないので。)
という、論理的に正しい答えがヒントになります。ただし、”死後永遠に無になるのであれば”ではなく゛死んでみたら、あの世があった”と考えてみてください。
゛私がいるのであれば無ではない”と唯物論の゛死後の世界は無い”とを組み合わせて考えてみると、肉体の死を迎え、肉体を離れた唯物論者たちの魂(意識)は「自身の死」をどう受けいれるか?
死後、「私はいる(意識がある)ので、死んでなどいない」と思っているスターリンは、同じように考える唯物論者たちの霊と”誰が指導者(支配者)になるか”を争い続けています。
一方「どうやら私は死んだようだ」と思ったマルクスさんは自分の意識が無くならないまま自身が作った「無の世界」で恐怖感に囚われ苦しんでいる。
と、私は考えています。
ー 今後クンロクを使います。他の人は使わないでください ー 【閑話休題(それはさておき)】
共産主義と唯物論は、セットで語られることが多いが、実際はまったくの別ものですよね?
キリスト教徒にも共産主義に賛同する人がいますが、彼らは原始キリスト教的共産主義者と呼ばれています。
また、他方、経済・政治体制は自由主義を支持するが、宗教を否定し唯物論を信奉する人たちもいますね。
私はマルクスさんの「資本論」のダイジェスト版(日本語)を学生の頃 読んで「ああ、やっぱり」と納得した部分と「えっ!」っと驚いたことがあります。
マルクスがキリスト教徒として「なぜ、キリスト死後千八百年も経過しているのに地上に『神の国』が実現されないのか?」「産業革命・資本主義の発達はどうコントロールすれば人々の幸福・社会の健全な発展に役立つか?」
という至極当然な問題意識をもって19世紀欧米諸国の資本主義経済を研究し、彼なりに「科学的社会主義」思想をエンゲルスと共にまとめ、「これで神の国が実現できる!」と考えるに至ったのです。
このとき彼は、「もうキリスト教は必要ない」と勘違いというか早とちりしてしまったようです。
【続く】 >>122
自分があるのですか?
はなから自分がないことを確かめれば一気に解決します。 (続き)
死後、意識があれば安心なのですか?
意識がある死後の世界はどのような世界でしょうか?
その死後の世界で永遠に在り続けることに平安があるのですか?
もし平安がないなら意識は無い方がいいですね。
生物として死を避けようとするのは当然の本能です。
ただあまり想像を膨らませすぎるのもどうかと。
何事もほどほどが良いです。
「過ぎたるは及ばざるが如し」 (続き)
想像すること。
信じること。
人はこれらによって癒され、
一方恐怖にさいなまれます。
恐怖無しに生きるにはどうすればいいか?
ということです。 (続き)
信じることは、継続的なエネルギーが必要ですね。
なかなか疲れます。
そもそも、信じていないから信じるわけで、
何かを信じるということは、信じていないことがベースになっています。
信じると信じないは表裏一体というわけです。
なので、信じる人は常に「万が一違ったら・・・」という恐怖を潜在せざるを得ません。
もちろん、強烈に信じることで 、
信じたものを体験することはあります。
たくさんの宗教があるように、人は信じたものを体験します。
見たいものを見るわけです。
ですが、自ら確かめたことは、信じる必要がありません。
目の前にリンゴがあるのに、リンゴがあることを信じる必要はないということです。
真に楽になるためには、何も信じず、分からないことは分からない、
という当たり前のことに落ち着くことです。
死を体験した人や厳密に検証した人はいません。
死んだらどうなるかは実際のところ誰にも分からないのです。
(脳が記憶していることを体験する人はいますが)
つまり、死は想像であり、信じることの範疇です。
脳は、分からないことに対して自分の定義をして安心しようとしますが、
その定義によってまた苦しみます。
分からないことを分からないままそのまんまを生きる、
つまり何も信じない、
目の前のことに集中する、
これがもっとも原始的でシンプルで純粋な生き方であり、
楽な生き方です。 【129の続き】
ダイジェスト版の「資本論」を読んで、「あー、やっぱり」と思ったのはマルクスは人間心理という計量しずらいものを思考から外してしまったために失敗したということです。
そして、「計画経済」という一見効率よさそうなシステムが実は経済発展に向かない面があることに気づけなかったことです。
私は、中学生の頃までは共産主義が正しいと思っていたので、ロシア革命やソビエト連邦に関する本などをよく読んでいたのですが、読んでいくうちに理想とはほど遠い史実に落胆するばかりでした。
マルクスはキリスト教徒ではありましたが、熱心な信仰者ではなく、「キリストの救世は失敗した」と考えていたようです。
現代の日本にも知識人の中にもよく「自分は仏教徒です」と言いながら「仏陀=釈尊の説かれた仏教思想は夢物語ではないか」と考えている人がいるのと同じです。
【続く】 >>70を読むと、
「自分達だけが唯一の正しい宗教」とする宗教は、
それゆえに正しくなく、問題とのことですね。
「本質的には、多くの宗教は正しいもの」、というのが正解のようですね。 >>133
(続き)
もし、明日死ぬとしたら、今日一日しかないとしたら、
今日一日をどのように過ごしますか? >>135
人はドラマを愛していますからね。
どの宗教も正しいです。
本人が癒されているかどうかがすべてです。 >>138(続き)
最も正しい教えは個々の癒しを尊重します。
ただ一方で、信じることの不完全さに満足できず色々変遷を経て、
どうにもならず、いきつく場所があるのも事実のようです。 >>138(続き)
信じるという範疇の中で落ち着く人もいます。
極端には、洗脳されて幸せということもあります。
(信仰も洗脳も自ら確かめないという意味では同じ)
本人さえ良ければOKです。
信じることの不安定さに気づく人や、
徹底的でなければ気が済まない人は、
信じることではなく確かめることに重きを置きます。 【>>133 に対する疑問】
>そもそも、信じていないから信じるわけで、
>何かを信じるということは、信じていないことがベースになっています。
私や友人たちは「知らない事物は『知っている人』の言葉を信じるしかない」と考える。
何かを信じるということは「自分では知りえないし経験できないが『経験した』という人を信じる 」ことだと思う。
例えば、私は戦後生まれなので第二次世界大戦を経験していないが、それがあったと信じている。
明治維新や江戸時代についても同様に信じている。
また、目の前にあるもの、例えば、パソコン・ボールペン・コーヒーカップの存在は疑いようがない。
あなたの文章は
>そもそも、知らないから信じるわけで、
>何かを信じるということは、知らないことがベースになっています。
に直した方が良いのではないかと思います。
そうして論理の正しい道筋を改めて歩んでみてくだされば、現在持っておられる結論とは違う答えにたどり着くでしょう。 >そもそも、知らないから信じるしかないわけで、
>何かを信じるということは、自分は知らない(経験してないし見たことはない)ことがベースになっています。
と書いてあれば私たちも理解しやすいのですが。 >>141
私は、第二次世界大戦があったかどうか知りません。
ただ多くの人があったと言っているので、
たぶんそうなんだろうと思います
信じる必要も疑う必要もないですよね。
第二次世界大戦があったものとして生きているだけです。
>>142
知らないと必ず信じるわけではないですよね。
知らなくて信じることもあれば、
知らなくても知らないままにしておくこともあります。
信じたいという欲求があるときにのみ信じます。
この欲求についての話です。
何故信じたいのでしょうか?
その根底に何があるのでしょう? 確信してないから信じるんじゃない?
友達が不慮の事故もなく待ち合わせにくる事は確信できないけどほぼほぼ来るから信じて待つわけで。
別に友達が来ることを根本的に信じてないわけではない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています