あれだね。
三位一体の教理てのは、神学上の解釈を経て導出された信仰箇条のひとつだよね。
福音書にも聖書にも直接に信仰対象としての三位一体が説かれていないのも事実だ。

ここでちょっと頭の中を整理する必要があるだろう。

信仰対象としての神話化された(=神格化された)イエスと史実上のイエス。
三位一体は前者のイエスに対する解釈なのだ。

福音書のイエス自体が、時代が下るにつれて、かなり神話化されていて、そのイエスが福音書に描かれているわけだが、
更に時代が下って二ケア公会議の時代に三位一体なる新しい神話としての教理が確認された。

まあ神話化のプロセスは付き物なわけで、イエスに留まらず聖母マリアのそれも例外ではないだろう。
つまり「無原罪の宿り」や「被昇天」の教理がそれにあたる。

人間には理性があり、また道理を正して考える能力がある。
グノーシス派としては、イエスが人間だったのは当たり前な解釈なのであって、
人間でありながら同時に(一神教の)神であったなんて馬鹿な話は、鼻っから退けられるね。
グノーシス派は心魂と霊にこそ光を当てて認識を得ようとする。

三位一体とか、馬鹿じゃねぇーの、と思うのよ。 ( グノーシス派としては、だけど。