不生そのものを顕しても、相手が察知するかどうかは相手の力量次第だから、まずポタ公には無理。
これは、いわゆる趙州和尚の田厙奴の無眼子雲水と同じレベル。

「不生とは一念生じざるところの消息」と話せば、大方の坐禅経験者は何となく「あぁ、あれの事だな」と察知する。
それでも訊いてくるのは、ワザとか、坐禅経験者でないからだろうね。

ポタ公はワザとだから。