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【東京】カトリック吉祥寺教会【吉祥寺】 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
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0001神も仏も名無しさん垢版2017/08/28(月) 17:58:16.48ID:j/6yxgLp
カトリック教会の中でも、大きな教会。スレッドがないことが不思議なぐらい。

未信者の方でもカトリックに興味のある方、大歓迎です。

四谷のイグナチオ教会ほどではないものの、交通の便が非常に良いことや、近隣の方も多いかと思います。吉祥寺教会について、いろいろ語り合いましょう。
0026老クリスチャン垢版2018/05/24(木) 10:45:12.29ID:QzIAM6dn
ローマ・ミサ典礼書の総則は第一章の冒頭で、「」ミサの祭儀は、キリストの行為であり、位階によって秩序づけられている神の民の行為であって ・ ・ ・」(暫定版 16)と述べています。
これは典礼憲章に 「典礼行為は個人的な行為ではなく、教会の祭儀である」(26)と書かれていることの説明です。
この理解を明確に理解して、多くの教会で使われているミサ式次第のサンパウロ版は 「キリストと我等のミサ」、オリエンス宗教研究所版は 「ともにささげるミサ」 と表題が書かれています。
カトリック教会のミサに参加する皆さんは、典礼憲章 48 の呼びかけに正しく応えることを期待されているのです。
「教会は、キリスト信者が、部外者あるいは無言の傍観者としてこの信仰の神秘に列席するのではなく、・ ・ ・ よく理解して、意識的に、敬虔に、行動的に聖なる行為に参加(することを期待している)。」

数年前に 2チャンネル時代に、わたしが一度書き込んだ 「典礼憲章に学ぶ」 を、今回再書込させていただきます。
0027老クリスチャン垢版2018/05/24(木) 10:46:14.27ID:QzIAM6dn
【典礼憲章に学ぶ @】
「神父さまが白と言えば白、黒と言えば黒。 信徒は自分で考えたり、意見を言ったりしない」 というのが、カトリックの信仰だと思っている人たち、特にそういう高齢の信者が多いことを、私も知っています。

皆さんよくご存じの 「聖書と典礼」 が発行されて、多くの教会で一般に利用されるようになったのは、1970年代の終わり頃からでありました。
「ローマ・ミサ典礼書の総則」 と 「典礼暦年に関する一般原則」 の二文書だけをまとめた別冊本が、一般向けに初めて出版されたのは1980年のことす。
私が本格的にカトリックのミサについて学び始めたのは、その頃からでありました。
やがてほぼ一年に亘って、毎週司祭館をお訪ねして神父さまのご指導をいただいた後、2000年1月から主日のミサに参加させていただくようになりました。
その頃の私の心には、カトリックの神学と信仰への深い尊敬と共に、カトリックの信者の皆さんへの大きな期待がありました。
そして、第二バチカン公会議の公文書集を真剣に学ぶようになったのです。

しかしその結果は、信徒だけではなくて司祭たちまでもが、事実上まるでほとんど典礼憲章と典礼刷新を理解していないという実態を、嫌というほど知らされたことでした。
私はそれ以来、「不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べ」(ロマ 10:21)ておられる主の愛に、ひたすら信頼して祈ることを学ぶようになりました。
私が15年間、私の WebSite に掲載し続けた 「聖書の学び」 は、このような状況の中で書かれたものだったのです。
0028老クリスチャン垢版2018/05/24(木) 10:47:16.59ID:QzIAM6dn
【典礼憲章に学ぶ A】
(22 典礼に関する聖職位階の管轄権) 「§1 聖なる典礼の規制は、教会の権威によってのみ行われる。 この権威は使徒座のもとにあり、かつ法の規定に従い司教のもとにある。」
「§3 したがって、他の何人も、たとえ司祭であっても、自己の考えで何かを加えたり、削除したり、変更したりしてはならない。」

カトリック教会ではたいてい、「キリストと我等のミサ」(サンパウロ)か、「ともにささげるミサ〔ミサ式次第 会衆用〕」(オリエンス宗教研究所)を使って、主日のミサを行っています。
誤解してならないのは、これはみんなが自分たち独自のミサを工夫したり作り出すための資料ではないということです。
決してミサに独自の解釈や工夫を加えてはなりません。
そうではなくてこれは、「ローマ・ミサ典礼書の総則」 に沿って実際にミサがささげられるための要約書、ないしガイドブックなのです。

意図的にせよ、無知によるにせよ、ミサが 「勝手気ままな」 仕方で行われている実状を嘆いて、ラッツィンガー枢機卿は2002年にその著書の中で次のように書きました。
「このことに関して、率直に言って典礼への養成は今日、司祭に対しても信徒に対しても、悲しくなるほどに欠けています。」(典礼の精神 p.189)
0029老クリスチャン垢版2018/05/24(木) 10:48:21.07ID:QzIAM6dn
【典礼憲章に学ぶ B】
(14 典礼教育と行動的参加の推進) 「母なる教会は、すべての信者が、十全に、意識的かつ行動的に典礼祭儀に参加するよう導かれることを切に望んでいる。」
(26 位階的・共同体的行為としての典礼固有の性格に基づく基準) 「典礼行為は個人的な行為ではなく、教会の祭儀である。」

この、もっとも基本的なミサ理解のために、我が国の司教協議会も 「ミサ典礼書の総則」 によって特に強調して指導して来ました。
しかし、ここ 2ch でも、「教会の祭儀」 よりも 「個人の信心」 を優先させるような主張が、繰り返し書き込まれています。

(ローマ・ミサ典礼書の総則 42) 「 ・ ・ ・ 会衆の動作と姿勢は、・ ・ ・ 個人の好みや自由裁量に対してよりも、・ ・ ・ 神の民の霊的共通善に寄与することに対して注意が向けられなければならない。
すべての参加者が共通の姿勢を守ることは、聖なる典礼のために集まったキリスト者共同体の成員の一致のしるしである。」
0030老クリスチャン垢版2018/05/24(木) 10:49:39.24ID:QzIAM6dn
【典礼憲章に学ぶ C】
(56 ミサは一つ) 「ミサをいわば構成している二つの部分、すなわちことばの典礼と感謝の典礼は、一つの礼拝行為となるように相互に固く結ばれている。」

かつてプロテスタントの連中に非難されたように、現在でもなおカトリックの信者自身が 「ことばの典礼」 を軽んじて、聖書の朗読と司祭の説教から神の言葉を聞くという熱意に欠けている傾向があります。

(7 典礼におけるキリストの現存) 「キリストはご自身のことばのうちに現存しておられる。 聖書が教会で読まれるとき、キリストご自身が語られるからである。」

次の主日ミサへの参加の備えとして、私の 「聖書の学びからの抜粋」 を活かして用いようとする人々だけではなくて、かえって目障りに感じる人がいるのも、「ことばの典礼」 への無理解と軽視によるものだと思われます。
0031老クリスチャン垢版2018/05/24(木) 10:51:08.89ID:QzIAM6dn
【典礼憲章に学ぶ D】
司祭の主要な任務は、「キリストの名によって人々のために過越の食事を整えて、救いのいけにえをささげ、
ことばと秘跡によって神の民を力づける」 ことであると言われています(聖木曜日の聖香油のミサの叙唱から)。
ですから、通常の主日のミサにおいては、「ことばの典礼」 の中で説教(Homily)をすることと、「感謝の典礼」 で 「神の民全員の名において、いのちに満ちた、とうといいけにえをささげる」 ことが司祭の任務です。

カトリック教会では、「必要な場合は信徒が教会で教話 (Predigt) をすることが認められる」 と定められています(新教会法典 766-767)が、これは Homily とは別のものと理解されています。

私は以上の事情をよく理解した上で、15年間に亘って 「聖書の学び」 を、毎週 WebSite に掲載して来ました。
しかもそれは、教会の活動の一部としてではなくて、(Web 上の)純粋に私的な活動として、区別して行って来たものです。
ですから 2ch で、ある人たちがこれを 「神父ごっこ」 と呼んで非難するのは、全く見当外れなことなのです。
0032老クリスチャン垢版2018/05/24(木) 17:57:43.74ID:QzIAM6dn
2003年(主日B年) 6月15日 三位一体の主日
申 4:32〜40  ロマ 8:14〜17  マタ 28:16〜20

初代教会以来今日に至るまで洗礼式は、受洗者と教会が信仰宣言を用いて共に信仰を告白する場であります。
人は洗礼によって 「神の霊に導かれる者」(ロマ v.14)たちの共同体に迎え入れられます。
ですから当初から、聖霊は洗礼を有効にし、受洗者を神の国の相続人とするものと理解されていました。
イエス・キリストの名による洗礼は父なる神の愛から発した秘跡であり(ロマ v.15)、聖霊の導きによって歩み始めることであるとの力強いメッセージを、私たちはこのテキストから聞かされています。

形式としての三位一体という表現は、聖書の時代よりも後になって出現したのですが、それはキリストの福音を総合的にまた正確に述べ、そのことによって今日に至るまでの福音の伝承の不変性を守ることとなった、古代教会の重要な神学的所産でありました。

私たちのミサの開祭は入祭の歌で始まり、それに続いて司祭と会衆があいさつを交わします。
   「父と子と聖霊のみ名によって。」  「アーメン。」
   「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。」  「また司祭とともに。」

主日の朝に神によって呼び集められた会衆は、三位一体の神との交わりの中で一つになり、共にミサをささげる民としてのあいさつを交わすのです。(土屋吉正著「ミサがわかる」 p.31 参照)
洗礼の秘跡がそうであるように、教会のその他のすべての働きも父と子と聖霊の名によって行われることによって、キリストの体は造り上げられて行きます。
実に私たちにとって今も 「主は生きておられる」 のです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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