逆の言い方をすれば、赦しを実現できていれば、そこに攻撃があっても攻撃は攻撃で無くなる。
相手に罪を見なくなるから。

イエスは十字架上で殺された。
普通に見れば、イエスの殺害は正義の攻撃と思わせるように仕向けられたもの。

イエスの罪状は,「ユダヤ人の王イエス」。
そして棘の冠を被せられた。
イエスという王を気取る者は罪人であり、その罪人を殺すのは正義だとしてローマ人はイエスを攻撃した。

でもイエスは、自分は攻撃されたと思っていない。
なぜなら、イエスは誰にも罪がないと知っていたから。
だからイエスは攻撃という行為がそもそもあり得ないことも知っていた。
そしてイエスはローマ人を赦した。

今回の座間の殺人やあらゆる殺戮は、奇跡の観点から見れば全て取り消されている。
赦しを完成したイエスの目から見れば、全ての攻撃に罪を見ないゆえに攻撃は存在せず、正義の攻撃と見なされた行為はは修正されている。

赦しを完成した視点からは、どんな悲惨な出来事や攻撃行為にも、罪が無いゆえに受け入れる。