>>1を今朝読みました。まだ考え方がまとまっていませんが、とりあえず
感想をメモ形式で投稿します。今後更に考えてみようと思います。
 
(1)洗礼の秘蹟を軽く捉えすぎではないか。
 
(2)苦しむこと。悩むこと。をことさら悪いことのように考えられている。
「原理主義的カトリックによって」苦しむこと。悩むこと。と限定して
言われていますが怪しいですね。つまり、人間がイエス様の教えで
正しく苦しむこと、正しく悩むことまでも排除していくことになる危険性を感じます。
キチジローの苦しみ、悩みは、果たして、原理主義的カトリックの教条違反
によってだけもたらされたものでしょうか。裏切ったペトロと同じ種類の正しい
苦しみ、正しい悩み、というものが入っていたと思います。
 
(3)愛を語るときに、第一の掟、神への愛、が欠落、もしくは薄いように思いました。
人への愛99%神への愛1%。人への愛=神への愛です、という反論があり
そうですが、ではどうして、イエス様は第一と第二と掟を分けられたのか、ということですね。
ルカは第一第二とはなっていませんが、神への愛と、隣人愛は必ず分けて教えられる。
踏み絵を踏まないことは、神を愛しているということを人々に示すことでもあります。
(ルカ12:8-9)そうなると、殉「教」ではなく、殉「愛」となります。
踏み絵を踏まないことを、100%殉「教」であり、そのなかには殉「愛」の要素はない、
という見方は乱暴すぎると思います。
 
(4)晴佐久神父様が想定しているような原理主義的カトリック信徒がいるのだろうか。
イエス様の教えの厳しい部分を無視することのない正しい信徒を、教条主義者、原理主義者
と呼んで、悪者のように仕立ててはいないだろうか。