>>735

→ わたしは、こんなへまをやらかしてしまうのは、日常茶飯事であって、改めて何か問う人も無く、何か言い訳をしなけれ奈良井状況になったためしがない。
なぜ、どうしちまったの!? と問い詰める必要性があったのだろうか。
いつもはこんなへまをやった事が無いんですけど、今日は調子が悪かったのでしょう、と自己弁護をしてしまった、ノハ、当然か。
炉の神様がいて、そのざまは、何だよ、遠いうちまでかけられてしまって。
しかも、諸師匠がたからは、避難囂々。
居ても立っても居られない。
わたしはいつもへまをやらかすから、他人事とは、思えない。
黙ってお茶を飲んでほしいものだよ。

禅のえらいさんが、お茶を失敗したからと言って寄ってたかった、仔馬でも攻め立てるものなのだろうか。

このどこに、真理さとり、があるというのか。

もうしわけありません、ただいま、お茶を入れ替えますので、お湯留守ください、とわびなきゃ、この茶席は収まりがつかいものなのか。

ただ、こぼしてしまったお茶の葉は、集められて捨てられてしまうのだったら、申し訳が立たない。
目の前の茶葉は、茶園で育てられ、春に摘み取られ、手もみでねじられて、茶葉となる。
太陽の熱が育て、雨水が育て上げたものが茶葉(ちゃば)である。
茶を喫するとは、太陽を飲み干す事である。
ここが、朗上座には、届いていない。