「組織を発展させるための人事」を理解してもらえない悲しみ

 私も、三十年以上この仕事を続けていますが、最もつらかったのは、自分が愛した弟子たちが、何かの行き違いで離れていったときです。これには、何とも言えない悲しさがありました。

 例えば、初期のころ、当会を手伝ってくれた人は一生懸命だったと思います。
本当に私心なく手伝ってくれたように思うのですが、だんだん教団が大きくなってくると、うまく回らなくなってきて、またW新たな戦力”を入れなくてはいけなくなりました。あとから来たとしても、その人たちを使わないと教団が持たなくなってきたのです。

 しかし、あとから来た人たちを重要なところに据えたりすると、以前からいた人たちとしては、自分たちが否定されたような気持ちになるのでしょう。
要するに、「面白くない」ということで、何かと不満が出てきたり、止めていったりするような人もいたのです。

 もちろん、私は、その人たちを愛さなくなったわけではありません。一生懸命やってくれたことに対しては「ありがたい」と思って感謝していますし、私の気持ちが変わったわけでもないのです。

 ただ、教団としての組織が発展していくためには、そのときに与えられた必要な人材を配置しなかったら、自分にとっての「正しさ」というものが失われます。
そのため、あえてそうしなければいけなかったのですが、理解してもらえないことは数多くありました。

 そのように、人は「愛」といっても、「自分を認めてくれている間だけ愛する」というようなことに、どうしてもなりやすいのです。やはり、認められようが認められまいが愛を持ち続けるというのは、実に難しいことなのかもしれません。

 それは、「相手の考えていることが分かり切らない」と言えば、そのとおりでしょう。
おそらく、「『あなたを信頼する』とか『愛している』とかいうのなら、゛丸ごと”自分を愛してくれ。自分のやることについては、゛全部”任せてくれ」という気持ちがあるのだと思います。

 そのため、それを修正しようとか、否定しようとか、ほかのものに変えようと課されると、とたんに゛オコゼ”になるというか、急に立腹する人が多いわけです。私もこのあたりについては、過去、非常に悲しい思いを何度もしてきました。