X



トップページ心と宗教
222コメント126KB
ルーテル教会3 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0136老クリスチャン
垢版 |
2017/10/28(土) 12:02:00.32ID:gJszB28L
2014年(主日A年) 10月26日 年間第30主日
出 22:20〜26  Iテサ 1:5c〜10  マタ 22:34〜40

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタ v.36)

日本語の翻訳聖書が一貫して、旧約聖書のトーラーおよび新約聖書のνόμοςを “律法” と翻訳して、世間における各種の法律一般から区別しようとして来たことに注目しましょう。
と言うのは、残念なことに殆どのキリスト信者が旧約聖書における律法についても、新約聖書が述べている新しい掟(Ἐντολή)やキリストの律法(νόμος)についても、その独自の意味を知らないでいるからです。

しばしば誤解されて来たように、それは一般社会における正義や道徳の規範とは次元の異なるものであります。
ですからこれをそのまま世界に通用する法律のように考えたり、場合によってはこの世の法律に対抗するより高度な指針であると解釈するのは、聖書そのものの本来の主張ではないのです。

旧約聖書におけるトーラーとは、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出 20:2)、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」(申 7:6)という前提に立ってイスラエルの民に与えられたものでありました。
ですからこの前提を知らないで、あるいはこの前提から切り離して、いわゆる一般論として 「どの掟が最も重要でしょうか」 と尋ねるのは、見当外れなことなのです。
0137老クリスチャン
垢版 |
2017/10/28(土) 12:02:57.14ID:gJszB28L
(つづき)
同様に教会はキリストの血によって贖われ、罪を赦された者たちの共同体であって、そのような神の国の相続者である新しいイスラエルのために、「互いに愛し合いなさい」 という “新しい掟”(ヨハ 13:34)が与えられているのです。
ところがこの前提を無視して、聖書を一般教養書のように自らも読み、他人にも “良いことがたくさん書いてある本” として推薦している中に、いつの間にか現代の教会は “信仰” という骨格を失ったただの文化団体のようなものに形骸化してしまいました。

“神である主を愛し、隣人を愛する” ということが、私たちが主日毎にささげるミサの体験そのものでないとしたら、それは私たち一人一人がクリスチャンであるとは名ばかりで、“ただの人” “肉の人”(Iコリ 3:3)に過ぎないということです。
福音書というものの成立の背景が、初代教会のカテケージスであって、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(Iペト 2:5)という奨めのために編集されたということを理解しましょう。
主が私たち信者一人一人を憐れんで、“キリストの体を造り上げていく”(エフェ 4:12)情熱を、もう一度与えてくださいますように。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況