>>838 A ちゃん

> 無門関一九ふだんが道じゃ 

南泉に、趙州がたずねた、「どんなのが道ですか」。
すると南泉「ふだんの気持ちが道じゃ。」

 趙州、「そう仕向けるものでしょうか?」
 南泉、「仕向けると、はずれる」

 趙州、「仕向けねば、道が知れますまい?」  
南泉、「道は知る知らぬを、越えたものじゃよ。知るというのも迷い、知らぬも気のつかぬまで。仕向けないで、道に行きついたら、それこそ大空のようにカラリとして、よしあしはかまわんじゃないか?」
趙州はその言葉で悟った。 』

無門関 第19 平常心是道(びょうじょうしんこれどう) が、普段の道じゃ、と訳されていることについて、違和感を覚えたので、書き込んでみる。
平常心(びょうじょうしん)とは、普段の、という事ではない。

区別、差別、をしないという事である。

唯嫌揀択(ただけんじゃくをきらう) と同じ事を言っているのだ。

つまりは、好き嫌いをしない、のである。

一の如し、である。

真理さとり である。