>>96

試(こころ)みに挙(こ)す看(み)よ
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本則:
僧、鏡清に問う、「学人ソッす。請う師、啄せよ」。
清云く、「還って活を得るや、也た無なや。」
 
僧云く、「もし活せずんば人に怪笑せられん」。
清云く、「也たこれ草裏の漢」。
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注:
鏡清:鏡清道フ(きょうしょうどうふ、868〜937)。雪峰義存の弟子で浙江省紹興府の鏡清寺に居住した。
法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 鏡清道フ
草裏の漢:妄想の草の中に埋まっているたわけ者。落ちこぼれ野郎。たわけ者。
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本則:
一人の僧が鏡清禅師の処にやって来て聞いた、「私は禅の修行を積んできたため、今や開悟の機が熟しています。 老師、どうか1つ悟りを覆う殻をつつき破って悟りを開かせて下さい」。
鏡清は言った、「そうか、つついてやってもいいが、お前さんの命は大丈夫かな。」
 
僧は言った、「もし私が悟りを開くことができなければ、老師がかえって世間の笑いものになりますよ」。
鏡清は言った、「このたわけ者め!」。


二か月で、さとらせるよ、とワインもってやって来い、一泊3500円だ、とうそぶいた老僧が、居たな。
説明とわかったふりのごっこである。

こういう事とは別に、開悟も人それぞれで、遅速がある。
その方向に歩んでいる、一歩踏み出している事こそが大切である。

冷たいのか、暖かいのか、冷暖自知である。
たとえに、馬を水辺までは連れていけるが、水を飲むか、呑まないかは、馬の主体性である。

さとらせる事が出来なきゃ、尾四家さん、あんたの責任問題になるぜ、と居直り強盗に変身しちまったようだな、この修行僧は。

わたしは、このスレでは、粘着野郎は あぼ〜ん、する。