日月神示 悟った人が説くスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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悟った人説けよ、の通り説きます。
仏=目覚めた人=悟った人です。念のため というても自分でどうこうつーのは今の所ないんで、そのうち書くかもしれんが
取り敢えず、日月神示の内容に関してのみ質問受付けます。 過疎っぷりが酷いのか、それとも日月神示が本物中の本物ということを皆、知らないのか。。。
本当の覚者なら、間違いなく仏教よりキリスト教より本物と太鼓判を押すシロモノなんだがな。。。
取り敢えず、一読あれ、
気長にまつか。。。 ふむ。証というのがあるが、奇跡というのは嘘っぱちじゃからの。
神示では態度が立派であるぞ、ぐらいが本当のように書かれている。
その通りとはいえるが、実際に証というものはある。
単にイエスが得たと書かれてるもんじゃよ。奇跡なんかじゃなく。
いずれにせよ、奇跡が嘘!と喝破でるというのは、本物の証拠よ。
本物の覚者のみが知る。 故にどういうことかというとですね、応用効かしますよ。
一聞いて十知る臣民じゃないと、話になりませんよ。
仏が言い切ります。
六神通なんか有り得ません。大嘘もいいとこです。
ただ漏尽通に関しては悟った当初は、そんな気がせんでもない、の自覚はあります。
これは作用によるものなので、当然と言えば当然。 故に、もう二度と母体に宿ることはないだろう、この教えというのは実際にあります。
これだけです。本当の所は。教えの通りで的確、ともいえます。 では何故、奇跡や有りもしない作り話ができたのか?
知らないから。これがもちろん、一点。
あとは、作り話を利用したい人がいたから、です。
その人達のことを、どうこうは今更いいません。
大事なのは、重要なのは、そこを見抜く力です。 人間は、流れのままに生きているのじゃ
考えているようじゃが、心の奥底では答えが
出ているのじゃ キリスト教では救済ともいいます。
さて、救済とは何でしょう。
救済されるとどんな気持ちになりますか?
ずばり、安堵です。将来が約束されたならば、安堵があります。
安堵を得るためが目的の大きな一つといえます。
さらに、日月では富士は晴れたり日本晴れ、嬉し、嬉しの仕組み、ともいいます。
目的に対しての行為は、晴らすことのみになります。
領域は無意識のみともいえますが、ここを取り違えると端から間違うことになります。
これが、日月を読む心構えといっていいでしょう。 読めば理解できると思いますが、極めて現実的です。
これが本物である大きな一つの理由。
そして、どちらかというと熱血スポ根なのも大きな特徴。
これも本物である大きな理由です。そういう面がないと、悟れません。
苦しんで、苦しんで、苦しみぬいて、やっとこさ。
これができない人間は、端からお呼びじゃありません。 残る者の身も一度は死ぬ事あるぞ
死んでからまた生き返るぞ
三分の一の臣民になるぞ
つまり、輪廻ありきです。悟った人は全然、肯定します。
ただし輪廻できるのは33%。日月の通りにすれば、この中に入れます。
椅子取りゲームともいえます。競争原理に支配されている。これは本当のことです。
たまたま悟れたのも、たまたま競争に勝ち抜いたに過ぎません。
本当のことです。故に、厳しいです。 何もかも捨てる臣民しんみん幸いぞ
捨てると掴つかめるぞ
例えば、こうすれば晴れますね。わかりますでしょうか?
もやもや抱えていれば、そりゃ晴れません。 つまりですよ、いいですか。
一聞いて十知る臣民じゃないと話になりません。
自分を救える者は、自分だけです。
と、教えるのが悟った人の役目です。
故に懐手の臣民、気の毒出るぞ。これは必然です。
誰かが救済してくれる。大きな間違いです。
小乗の行といって、馬鹿にするなよ。この面で正解ということです。
世間的に大きな勘違い、取り違えの所です。 故に本当に悟った人でないと、日月は説けません。
本物中の本物とも、判るはずがありません。
邪魔だては無用。読んで解らないなら、答えます。 >>12 バカモノ!!
キリスト教と仏教は別のものじゃ
出直して参れ!! 18.
バカ鬼和尚の登場である。
宗教の一部であってして同じである。 神の御用は
神のみこと命・実言のままでなくては成就せん
皆々釈迦ぞ、キリストぞ
もっと大き計画持って御座れ
読まんやつはくるな。
釈迦、キリスト、これを悟った人という。
目覚めた人、イエス。伝承には嘘も混じる。
所変れば、イエスのことを仏という。
1に上げた通りの言葉のルーツは同じ。
現象は同じ。教えは、そこへの至り方で共通。
あとの想像は所変れば違ってくる、というだけのもの。
本質が見抜けない者には、肉体に起こる現象の一致に
まるきり気がつくことはない。
あとの違いというものは、全く意味が無いといっていい。
どちらも妄想の範囲であり、どうでもいいことだ。 目覚めた人の共通点は聖者で共通。
さて、聖者とはどのような者を指すのか。
もっと大き計画持って御座れ 、
悟った人、目覚めた人、覚者になりたいのが計画、目標であるならば、
そんな、ちっぽけな計画、目標では聖者にはなれん。
競争には勝てんよ。 或いは十戒というものがある。アークに入れねばならんほどの人類の宝であり、
神託であり、悟った人になるための方法論の一つ、とは断言できる。
それが目標地点では無い、当たり前のことだ。 日月も目標の一つとして平和をあげる。
言い換えて、安堵、と言ってもいい。
仏教だの、キリスト教だのと、妄想でいい争って、
また、神に関して、どう、こうと争って、なんの平和、安堵があろうか。
本当に悟った者であるならば、平和に関してこういう。
また、世の中には神無き人もあろう。
それはそれでいいかもしれんが、あなたの体、意識含めて、
あなたのもので、あなたが自在に操れるものなんざ、何一つありゃせんよ。
ここは絶対動かんところだから、せいぜいそれを踏まえての、どう、こう、
言うがいい。それ自体に、意味自体、あるはずがないじゃろ。 即ち、仏教では、頭では無いという、日月では理屈では無いという。
或いは、日月では肚、肚という。胆力自体が一要素かもしれんが、
要は骨身にどれだけ叩き込むか、というだけのもんじゃ。
別に解らん事置いといての二義的、目に見える、手の届く範囲から
始めてということは当たり前のことであり、人間はそこでしか動けんもんだ。
これも当たり前。故に、例えば、の十戒がある。というだけのもんだ。
理屈じゃないと申しても、深い考察抜きに、こういう考え方に至れるはずがないじゃろ。
故に理屈じゃない、これからは考えねば生きてはいけんぞ、の日月の教えは両立する。
この時点で、仏教、キリスト教を超えている、ぐらい理解できなきゃ誠の臣民とは言えん。
長々いうたが、こういったことが理解できる、で無く、骨身に有る、というならば、
最初から、悟った人の教えは不要じゃ。あとは、好きにしたらええ。 身だけでなく、魂だけでもない。故に身魂という。日月の教えのままだ。
身魂磨き結構。終始これだけとも言える。
悟った人にとってもそうだ。
そして、それが神力自体に繋がるということを本質的に知っている。
これは悟った人特有だ。故に目覚めれば、悟れば道は間違わん、は単に事実。
ここへの書き込みは役目そのものでもあるが、身魂磨き途中の安息というだけのもんだ。
即ち、安息日、というのも一時的な休息に過ぎない。
身魂磨きに疲れたら、ここにきて休息とるがいい。意味はこの程度のもんだ。 或いは、読書自体が目標の人がいる。
なんのために読書するのか?
いろんな意見があろうが、極めて最も功利的に推察するならば、
見識を広めるため、見識を深めるため。
或る段階までは、そう言えるが、或る段階に達してからは
見識は広まらん、深まらん。
その或る段階とは、随分読んだが、面白くもないし、役に立つことも全くない。
それを知ってからだ。極めて早い段階と言っていい。
本の否定だが、記事、コラム、説明文に関しては、安息、休息、暇潰し程度の
意味で別に否定せんよ。聖書、仏典、日月神示自体も、これと同じ。
休息、息抜きが目的のはずがないじゃろ。
臣民、読書は一例だが、息入れるとこ自体が違うじゃろが、のお話。 読書が苦手なまことには、わからないんじゃないか?! 基本、オレは読書嫌いだからなあ
現実、読書をするやつは、読書好きだからだろ
野菜嫌いなオレは、毎日、野菜を喰べている
野菜と同様、読書がいいことだからだ まぁ読書つーのは、的外れだったかな。
そんなものの価値観はとっくに消滅。
本が売れない時代になってる。
役に立たないんだから、当たり前だ。 人間は経験の中でしか理解しえない、の法則がある。
経験浅い者が読んだとて、経験を超えることは有り得ない。
経験浅いに比例して内容は希薄の一途を辿る。
これは書き手にも同様のことが言える。
底が浅い者が書くものに比例して内容は希薄の一途を辿る。
ただし、日月程度も読めない文盲では話にならないから、
満たす程度の読書量、勉強量というのは最低限必要となる。
当たり前の話だ。 これを簡単に書く方が実は難しい。
つまり、簡単に言うと、経験浅く、なんも知らん人間の書くものなど読む価値自体が無い、
となる。読書量が経験量に置き換えられる、はずがない。
実感なしに、空虚のみが空回りすることになる。
まぁ本当の事を書くならば、こんな感じかな。
故に本に価値がない。読書に価値が無い、と必然的になる。 恒例の一聞いて十知る人間でないと、話にならんぞ。
応用するのであれば、内容希薄な権威主義に当て嵌められる。
小ばかにされる上司やら、どこぞの総理大臣、大統領が好例。
あとは、読書というのは画像にも置き換えられる。
画像に何の実感があるますか?或いは、感動を持たない音楽に何の意味がありますか?等。
一見、仏教の空虚論に見えるかもしれんが、その逆を説いているということ。
まずは、勘違い、見当違い、これを修正してもらわんと、話にも糞にもならん。 この神示肚に入れておれば何んな事が出て来ても
胴据(どうす)わるから心配無いぞ
あなない(融合・和合)元津神々人の世ひらき和し
悉(ことごと)くの神人満つ道
勇み出で
総てはひふみひふみとなり、和し勇む大道
見えた。これが幸福論なり。鍵は胴据わる、であった。
試行錯誤の末、やっと神の言いたいことがわかり申した。 物、自分のものと思うのは天の賊(ぞく)ぞ
皆てんし様の物だと
クドク(諄く)申してあるのにまだ分からんか
行(ぎょう)出来て口静かにして貰うと
何事もスラリと行くぞ
行(ぎょう)出来ていないと
何かの事が遅れるのだぞ
遅れるだけ苦しむのだぞ
イエスも説いているが、これも幸福論。同じようなことを説いている。 家内和合出来ん様では
この道の取り次ぎとは申されんぞ
和が元だと申してあろうがな
和合出来んのはトラ(虎)とシシ(獅子)ぞ
どちらにもメグリあるからぞ
昼も夜も無いのだぞ
坊主坊主臭くてはならんぞ
個人的には、こういうのが好きだな。
一家が円満でなくては、何事であってもうまくいかんもんだ。
一家は団体、市町村から国世界にまで、いえる。
その中の基礎中の基礎ができてなくて、講釈も糞もないぞ。 向こうの国いくら物あっても、人あっても
生神(いきがみ)が表に出て働くのだから
神無き国は、いずれは往生だぞ
この神の申す事よく肚に入れて
もうかなわんと申す所堪(こら)えて
またかなわんと申す所堪えて
愈々どうにもならんという所堪えて
頑張って下されよ
神には何もかもよく分かって
帳面に書きとめてあるから
どこまでも、死んでも頑張って下されよ
そこまで見届けねば、この方の役目果たせんのぞ
というか、人生とは正にこの通り。
神の国の臣民なら解るじゃろ。
即ち、この通りでええのよ。
それがあくまで、どこまでも正解。 まぁ読書つーのは、的外れだったかな。
そんなものの価値観はとっくに消滅。
本が売れない時代になってる。
役に立たないんだから、当たり前だ。 初対面時のまことの言葉
読書をしている俺は頭が良くて
読書をしないおまえはバカだ
こんなことを言ってたなあ 何だって!?
自分で頭がいい、と、言ってたのか!?
ピエロだな! だいたい、読書をするやつが、自分で頭がいい
なんて言わねえよ
このとき、読書家のオレは、まことが読書なんか
してないと確信したよ 意味理解できてないな。
書き手でいうと、書いたその人でなくても。媒介になってる、釈迦、イエス、
そして日月神示関連なら、そりゃ一読の価値自体がある。
しかし、それが理解できない時点で、読み手自体の価値が希薄ということだ。
修行が足らんよ、ということ。
まぁどこぞの馬の骨が書いた本、漫画、作ったゲーム自体が価値希薄でしょ。
唯一マトモといえる哲学書関連なんかでも、読まなくても書いてる人自体が
疑問符の雨あられ状態だと分かる。超えない限り、そこが人間の天井よ。 苦しいこと出来て来るのが御神徳ぞ
この方の許へ来て悪くなったと云う人民
遠慮いらん、帰って呉れよ
そんな軽い信心は信心では無いぞ
結構な苦しみが分からん臣民一人も要らんのぞ
まぁ、早い話、修行せん人間は、一切いらんということだ。
競争だからな。
しっかり日月神示の通り修行したもののみ生き残れる。
じゃないと肚にも当然入らん。上辺の読書なんかで、肚に入る訳がないだろ。
そんなもんは一瞬にして忘れるだけだ。
読書に関して価値あるものを見出し、そして覚えているか?
価値自体が無いと説き、故に覚えている はずがないと看破する。
誰もがグウの音もでんじゃろ。 つまり、読書が好き、嫌い、の問題でなく、覚えることができないくらいに内容がない、ということ。
野菜が好き、嫌いとは話が違う。
つか野菜は味付けするだけでメチャクチャ旨いだろ。
嫌い、というのは何かを勘違いしている。
当然、野菜の意味というのは有りまくる。性格自体変える力がある。 俺がここまで書く前に、そのような答えが頭にあった人も多かろう。
ご名答。いいセンスしている、と言える。
もちょい書くかもしれんが、これは書くべきかどうか判断難しい。一応頭にはある。
書くタイミングがちょっと違うかな。
まぁこの辺で理解しておくれ。読書だけでなく、いろんなもんに応用もできるはず。 読書をしている俺は頭がいい
読書をしないおまえはバカだ >>51
( ´,_ゝ`)y―-~~ フハハハ!! >>51
そう思い込んでいる奴は馬鹿だ。
の書き込みは別にしなくていいが、
そう書くことで、アホに実際見えるだろ? なんたって哲学書を出しているクラスがみんな馬鹿なぐらいだから、
世界一本を読みました。それじゃ、上辺だけで、身に全くついていない
馬鹿なのよ。
考える力があるだけ、哲学者の方が数万倍賢いとなる。 そのわけわからんレスしてるのは、複数IDで自演自作する
「まことの喜びジジイ」こと修症ジジイで
最近速読術に嵌まって安部穣二とかのどうでもいいチンピラ小説を
得意気に語る、頭が中二でニートの老害ですw
口癖は「まことくん、文面を読んでもらえない
つらいのう、つらいのう、w」
「淋しい、淋しい」など。 転じて、短期記憶、暗記、全部忘れたもの。
これも上辺だけで、身に全くついていない 無価値に等しいものとなる。
世界一覚えました。でも全部忘れました。
それは、考える小学生にも劣る。 故に自分が賢いと思い込んでいる者。必ず鼻をへし折られることになる。
そういう者ほど、ある考えに固執している故に融通が利かない、客観視できない、
目の前のことしか見えない、といった弊害を持つに至る。
結果的に誰からも嫌われる。故に淋しい、ということなる。
場合により、恨まれて死ぬ、まであるだろう。
これは必然のため、つまり自分が賢いの思い込みをする者は、自分はアホですと
自己紹介をしているだけなので、間違っても、そう思わないことが、
実質において賢いということなる。
ソクラテスの逸話的な所が実際においてある。
これを神示では、逆立ち、と説いている。
自分が賢い、偉い、は同等の勘違い。 かといって、実際、賢い人というのはいる。
結局の所、賢いとは何なのかと考えると、問題認識能力と問題解決能力ということになる。
問題解決能力というのは、問題認識能力が無いことにはあり得ない。
何故なら対策というものが、あてずっぽうになる可能性を多分に含んでいるからである。
故に、賢いとは、問題認識能力だけと言ってもいいだろう。
そもそもが、困っていることがあるから問題な訳で、そうでなければ、端から問題とは
言わない。どーでもいいことは、端から問題ではないのである。
故に、これの認識力があるということは、困る状況と、そうでない状況をよく知っている
ということになる。
故に、困る状況、苦労を知っている者は必然的に賢いとなる。
若い頃の苦労は買ってでもしろ、とか、苦労を知らない人間に何が判る、
というのは極めて妥当な意見といえる。
同様に、逆もいえて楽を知っている、楽を楽しむも同時進行で必要な要素となる。 実は悟った人というのは無明でない。つまり、知っているというだけで
賢くはない。知っているから、応用も効くだけだったりする。
タイプとしては、割とどーでもいいタイプなので賢くはないかもしれない。
悟った人から見て、賢い人というのは、問題認識応力、つまり、
目のつけどころがちゃうなぁ、と感心するぐらいである。 鍛えよ、鍛えよ、体も頭も心も精神力もなにもかも
千人力が善であるぞ
ある分野で非力な者が犯罪者となるのは言うまでもない。
正解は、単になんもかんも鍛えるだけともいえる。
そして日月神示は、その鍛え方を書いているともいえる。
この反論は、単に非力の証、悪の証となる。 即ち、悪では生きてはいけない。
悪では不幸の坩堝と化す。
必然的な単なる道理といえる。 釈迦は永遠を求めよ、と言った。
具体的にいうならば、なんもかんも鍛えまくるというだけのことよ。
結果は自然とついてくる。
勘違いしてる者が実に多いと解るだろ。
だから、誰も、に等しいほどに悟れないのよ。
釈迦やイエスの虚像があるから、尚更、悟れないのかもね。 だから、どのみち急に悟れっこなんかない。
話によれば、生き変わり、死に変り、修行させてある、この程度の
長い年月が必要ということだ。
単にだな、あなたが毎日1ミリづつ成長するなら、それでよい
という話なのよ。他は一切関係ない。これが誰に対しても言えることなのよ。
身内含む他人に期待するから、おかしげなことになる。
ただ、そうである者は必ず神が守る。
だから、そうである者は後は何にも心配せずに神に任せておけ。
話としては、こういうことなのよ。他の事実は一切無い、と言い切っていい。 ダンマパダにも「過去・現在・未来における全ての如来は精進論者、業論者、業果論者である」と記されている。
スレ主さんの主張もそうである。鍛えろと、精進せよとは同じこと。 >>64
さすが、神の国の住人はセンスがいい。精進せよ、とはその通り。
だから宗教云々関係なく、人間、或いは生物全般の宿命的なものとも捉えることができる。
2行で意気込みが伝わってきます。 頭の固い老人はヘッドホンしたオウムのように耳を塞ぐことしかできんようじゃな。
誰が非力という悪か分かってきただろ。 宗教云々関係なく、というのは神示でも説いている。世界の行じゃ、とね。
ここ理解できんのが、不思議なぐらいだ。 宗教なんか関係ない。これも実は本物の証明。
事実を知る人はおらんに等しいほどに限られている。
故に宗教でなく、単なる事実が言えてくるのよ。
事実を知る人にしか語れない。
故に誰が事実を知らないかは判明している。
事実を知らない者の世迷い事など実に、どうでもよく、あほらしい、だけ、といえる。
単に反論ね。 神が道つけて楽に行ける様に
嬉し嬉しでどんな戦も切り抜ける様にしてあるのに
(嬉し嬉しで切り抜ける)
臣民逃げて眼塞ふさいで
懐手ふところでしているから苦しむのぞ
我よしと云う悪魔と学が邪魔している事に
まだ気付かぬか
嬉し嬉しで暮らせるのだぞ
日本の臣民は何事も見え透く身魂授けてあるのだぞ
(日本人は)神の御子みこだぞ
掃除すれば何事もハッキリと映るのぞ
早く分からねば口惜くやしい事出来るぞ
言葉とこの神示と心と行と時の動きと
五つ揃ったら誠の神の御子ぞ
ポイントは逃げて逃げて耳塞いで懐手している。
そんなんだから、誠の神の子にはなれん。 正解は宗教というカテゴリーさえ、無い。
この板で、正解言っているのは、このスレのみ。
解らん人は日本人じゃない可能性が非常に高い。 ちなみに懐手とは、自分では何もせずタナボタを待っている。
そういう人は過去、現在、未来において苦しむ、悔しい事できまくると
予言されている。
悟った人は、こうじゃなかったから、悟った人になっただけともいえる。 ちょっと現実的に説いておこうか
例えば、春服と秋服の違いは一体なんなのか
いうなれば、これは宗教。んなもんどうでもええわ、なら問題ないが、
宗教に拘る人もいる。違いは色と若干の素材の厚みというだけのことだが、
効率的には春夏秋冬なるたけいつでも着れればいいということになる。
或いは食の宗教。
たまに食べるなら、白飯に梅干し乗せただけ。これが理屈抜きに旨い。
添え物にステーキだの、刺身だのあったなら、かえって飯がまずくなる。
言いたいことは、宗教という目に見えないバリアーに支配されていたら、金がなんぼあっても
足らん。もう少し早く気付くんだった。
まぁ清貧だの節約だのいうが、真実は心から要らん、というだけのこと。
贅沢とは無駄のことであり、無駄とはゼロにも等しいことであり、
つまりは贅沢とは、架空のことなのよ。これを金をドブに捨てる、という。
これに気づくなら、金の心配自体が希薄になる故、実質、この世は金じゃなくなる。
或いは、架空のためにヒーコラ働いて死ぬだけ。徒労にも程がある、ということを
知るならば、目的自体が金という愚かさから脱却できるだろう。
目的自体が金を、かき集めるというのも、立派な悪宗教といえ、現在、人類が
罠に堕ちている絶対的な統一教と言い切ることができるだろう。 拝火教というのがあるから、さしずめ拝金教だな。
まぁなんぼ稼いでも使わずに死ぬだけ、というのがオチなので、ほどほどに、とは言える。 まぁ金がいくらあったとて、物が全く無いなら、比例して、貧しいとなる。
かといって物であふれかえるぐらいのゴミ屋敷もいらんし、めんどうなだけの
大邸宅や豪華絢爛というのもいらん。人がいなけりゃ単なる廃墟だ。
農作物や果物、魚介類で溢れる国、結構。
これが決定的に、物がある国、豊かな国となる。この時点で、金の意味は希薄になる。
まぁ現状というのは、金は有るが、比較の上で廃墟といえるかもしれん。 タマ(魂)磨けば磨いただけ先が見え透すくぞ
先見える神徳与えるぞ、いくら偉い役人頑張っても
今までの事は何も役に立たんぞ 新しき光の世となるのぞ
やっぱり、そうだったのか。嫌に勘が当たるとは思っていたが、
これは巷にいう予言などではなく、大まかな流れの事。
まぁ予言自体が、そういう性質持っている。
そうでないのは、偽。
逆に小さいことは読めず、小さいことに 囚われると大きな流れが見えなくなる。
まぁ単なる道理だな。 まぁ将来的に悪くなる、は悪人のみ。
と、いうても悪人も役目の通り、実は操られているのよ。
利用されてる、と言っていい。
現に僅かながらでも良くなって、きているだろ。
まぁ善人だけかも、しれんがね。 悪人には、どんどん居場所がなくなる。住むところが無くなっていく。
存在は、どんどん希薄になっていき、最終的には消える。
将来的な予言ね。
善人は、この逆になる。将来は約束されている。
善人とは千人力のことね。悪人はこの逆ね。
故に神の子しか神の国に済めなくなるというのは、実は道理。 × 神の国に済めなくなる
〇 神の国に住めなくなる イエスが言ってるだろ、
あなたのためにどーたらこーたらいう奴に、お前なんか知らん、消え失せろ
宗教区分なんかのチンケなことに拘る者は、神の国には入れませんよ、
ということだ。理自体が、そうなってるため、なんびとも逆らえん、
理とは、目に見えない絶対法則のことだ。
即ち、仏とは目覚めた人、宗教が先に立つなら、宗教以前に目覚めた人は存在しないことになる。
そんな馬鹿でアホな話あると思う?
実は宗教とは、全く関係がないのよ。それが仏、聖者の本当の姿なのよね。あるのは理だけ。 読書をしている俺は頭がいい
読書をしないおまえはバカだ そう思い込んでいる奴は馬鹿だ。
の書き込みは別にしなくていいが、
そう書くことで、アホに実際見えるだろ? おい、まこと
「まこと」という表示を消し忘れているぞww 要点というか言いたい事をカチッとまとめて書けないとダメだよ
他人に理解してもらおうって意識で書くと中身のない長文になりやすい 勘のいい者は理解できる。中身があると理解できる。
勘が悪い者は何が言いたいか理解できない。
俺の書くこと全てにおいて重要。
これ、というとこは無い。 導かれし者、というのは本当。
導かれない者には関係ない。 ちょいと現実的に書いとこう。
仏教で世間批判というもんがあるが、世間の基調というもんは皆、手探りというのが
実際なだけなんだから、実はこれに合わす必要というのは無い。
が、実はだいたい合ってるとこもある。力の入れ具合が皆、間違っている、ともいえる。
故に世間の基調に対してはなるたけ、渋々、しょーがなしに従えばいい。
気に入らんとこ、力抜けるとこは抜いていい。
これが日月のいう、バカ正直ならん、ということ。
まぁこの辺は経験だけじゃけ、がんばりんさい、というしかない。
即ち、俺は長文は書いてなく、中身の有ることしか書いていない。
経験無い者には理解できん。 これで、理解できないのならば、要点は永遠レベルで続くとでも、思えばいい。
これが、あなたの質問、疑問、気持ちに対する答え。簡潔、明瞭の要点だろ。
果てしなく、簡単でない、が正解なのよ。 日月の言いたいことを一言で書くとするならば、
困難があるから、楽がある。故にどんどん楽になっていく、という仕組み。
困難受け入れよ、ということ。これが雨の神、風の神、荒れの神云々の意味。
もちろん実質、雨風に打たれよ、というのもある。実際にそれらの神が存在するならば、
意味は最低三通りある。
まず困難ありきということに対し、世界の民、全員が勘違いしている。
故に、楽を追うごとに困難が増す。
故に仏教の苦というのはここのことズバリ。
ただ、後が続いてないので皆、迷う。
苦は楽に変化する。 本物が出た以上、偽の悟り語る者は天下の犯罪者となる。
以降、止めた方が身のためだ。実質においてな。
魂ごと死にたいのであるなら、好きにすりゃいい。警告はした。
あとは自業自得となる。 あと、釈迦に説法ともいうが、止めた方がこれも身のため。実質においてな。 この件に関しては、イエスの教えにあるが、魔からくるということ。
これが実質において正解。 >>92
すみません、質問です。本物とはどんな人でしょうか? 要点というか言いたい事をカチッとまとめて書けないとダメだよ
他人に理解してもらおうって意識で書くと中身のない長文になりやすい おまえさんの文面は曖昧じゃぞ
何を言っているかわからないことが多いのじゃ 言えてる
まあ、オレもまことにあやかって、曖昧に
書いてることが多いけどね 最後の体を得た者をいう。
間違えようのない自覚がある。
ヒトラー予言にある突然変異が的を射ている。
本当にヒトラーの口から出たのか、別件での予言かは解らん。
これが悟り、で目覚めともいう。解脱ともいう。
目覚めた者を仏という。 これ以上、曖昧除いて書けんだろ。
本物のみが知る。
故に俺はもちろん、仏と呼ばれるものだ。
仏罰、逆のおかげがあることも、もちろん知っている。
謗る者はバチが当たるといい。それは、俺の知ったこっちゃない。
もちろん、おかげもな。
故に、おかげ取り放題と日月には書かれている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています