碧巌録(へきがんろく)  第12則? 洞山(とうざん)麻三斤(ま さんぎん)  
?
垂示(すいじ)

殺人刀活人剣は、乃(すなわ)ち上古の風規にして、また今時の枢要なり。
もし殺を論ぜば一毫を傷つけず。 もし活を論ぜば、喪身失命せん。
ゆえにいう、「向上の一路、千聖も伝えず。学者形を労すること、猿の影を捉えんとするが如し」と。
しばらくいえ、既に伝えずんば、なんとしてか却って多くの葛藤公案かある。
具眼の者は、試みに説き看よ。
?
注:
殺人刀活人剣:師家が修行者を指導する時の活殺自在の手さばき。殺人刀は否定の働き、活人剣は肯定の働きを意味している。
向上の一路:仏の上へ踏み出る道。
猿の影を捉えんとする:実体の無いものを追う喩。
「向上の一路、千聖も伝えず。学者形を労すること、猿の影を捉えんとするが如し」:盤山宝積(ばんざんほうしゃく)(馬祖の法嗣)の上堂の言葉。
?
垂示の現代語訳
?
師家が修行者を指導する時の活殺自在の手さばきは、禅者の古来からの慣わし(上古の風規)であり、 また現在の禅者にとっても大切な問題(枢要)である。
ところで、否定の働きである「殺人刀」の働きを論じるならば、それは相手の妄想分別を根こそぎ掃蕩して少しも傷つけない。
 もし肯定の働きである「活人刀」の働きを論じるならば、それは我執の思いを否定し、無心になって対象の中に完全に没入し、死にきらなければならない。
そのような活殺自在の手さばきによって切り開かれた「向上の一路」は、 たとえ、釈迦や達磨のような聖人賢者が大勢出て来ても表現し伝えることができない。
たとえ学者が苦労してもあたかも猿が水に写る月影を捉えようとしているようなもので徒労に終るだろう。
それではなぜ「千聖も伝えられないもの」を伝えようとして、八万四千の法門や千七百余の公案があるのだろうか?
これは矛盾ではありませんか。
伝えられないからこそ、自分自身で肯くようになるためそのようなものがあるのだ。
眼の開いた者(具眼の者)ならば、それが分かるだろう。