>>486
頌の現代語訳
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木仏は火に触れると焼かれて燃えてしまう。
木仏が火で燃えてしまうのを考えると、常に破竈堕(はそうだ)和尚のことを思い出す。
破竈堕和尚は霊廟に入り主神であるカマドを杖で三べん打って打ち毀してしまった。
その一撃でカマド神の煩悩妄想を根こそぎ粉砕し、カマド神が長い間真の自己に背いていたことに気付かせることができた。
真の自己に背いているのは何もカマド神だけではない。
我々の多くも真の自己を見失って、真仏に背いているのではないだろうか。
我々もせっかく持って生まれた真仏を自覚して縦横無尽に使わないといけない。」
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「趙州録」の法語の最初の三句「金仏炉を渡らず、木仏火を渡らず、泥仏水を渡らず、」
は次の句「真仏内裏に坐す(真の仏は自分の中に在る)」の前置的な句で、否定的な意味で用いられている。
この法語で趙州は「金や木や泥で作られた仏は、真の仏ではない。自分の中に在る仏こそ真の仏なのだ。」と
その自己の真仏を坐禅修行によって究明せよと言っている
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「趙州録」の法語
「金仏炉を渡らず、木仏火を渡らず、泥仏水を渡らず、真仏内裏に坐す、菩提涅槃、真如仏性、 尽くこれ体に貼するの衣服、また煩悩と名付く。
実際理地、いずれのところにか着せん。
一心生ぜざれば、万物咎なし。汝ただ理を究め坐して看ること三二十年せよ。
もし会せずんば老僧の頭を截り取れ。」

⇒ わたしは このスレに数回書き込んだことが有るのだが、それは小五の事だった。
   その頃、死の恐怖に恐れおののいていた。
  怖くて、怖くて、たまらなかった。
  わたしは、夜 寝るときは、布団を深くかぶって頭を布団の中に突っ込んで震えていた。
  そういう日が、どれくらい続いたのだろうか。
  ある日、私は向こうの岸からこちらの岸へと歩いて橋を渡っていた時、小五のわたしの胸の中に金の立像(りゅうぞう)を観た。
  急に、死の恐怖感がなくなった。
  その日以後、30を過ぎるまで思い出すことも無く、忘れ去っていた。