我々は旅旅困難に会うと段々近何に慣れて来て、盲細かい事は気にしなくなる。悪いとが有れば良い事もあるし損なのまあよいか
と大雑把いや大目に見ることが出来る様になる鴨。つまり大目に見れば雑という事でもある小さい事は盲ほつとけで。細かい眼
に会う人は大きな眼には会えないし、一方を見る説きは一方は暮らしでまあよいか?解らんでもなるように鳴っている空
無門関 三七   庭の柏の木  趙州は、坊ずに、「ダルマさまはどんなつもりではるばるきました?」ときかれ、いうには
、「庭のあの柏の木さ。」  柏の木の出てくる別の公案にこんなのが じょう州に一人の僧がたずねた。「柏の木には仏性が
ありましょうか、ないでしょうか」大師「ある」僧「では柏樹は何時成仏するのでしょうか」大師「虚空が地に落ちるまで待て」
僧「虚空は何時地に落ちるまで待て」大師「柏の樹が成仏するまで待て」?この公案に親切な答えがあるような?つまり「達磨が
中国に来たのは・・」とたずねた僧は悟りが頭に登りすぎて落ちがつかなかつたのだ。落ち着けで落ちなさいというネタかつまり
空ばかりでは何の役も立たない。空即是色で柏の樹になつた?道元はこう言っている?悟ってもすぐ元の木阿弥になる身である
空それでは一生懸命修行した成果我無いもしその成果があるなら柏の樹や境とつべこべ言うことは無い?いつの間にか私の妄想に
すり変わっているけど、悟っても可愛い我が身が用が無くなると、ついつい文句もでるのかわからんネタも落ちつかずだらだらと