2012年(主日B年) 4月22日 復活節第3主日
使 3:13〜19  Iヨハ 2:1〜5a  ルカ 24:35〜48

「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Iヨハ v.2)

その後に出てくる 「神の掟」(Iヨハ v.3) 「神を知っている」(Iヨハ v.4) 「神の言葉」(Iヨハ v.5)という用語を、いわゆる律法主義的に解釈するのは、聖書の浅薄で表面的な読み方に原因があるのであって、正しくありません。

「罪を償ういけにえ」 と訳されている “償う(ἱλάσκομαι)” は、文語訳の時代には “宥めの供物”、口語訳の時代には “あがないの供え物”、そしてフランシスコ会訳では “贖いの供え物” と訳されました。
このギリシア語は異教の世界でもともと “神の怒りを宥める” という意味で使われていました。
しかし聖書にとってはそのような思想は異質であって、神が、ただ神だけが “和解” を与えることが出来るのです(IIコリ 5:18-21)。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえ(ἱλασμός/名詞形)として、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(Iヨハ 4:10)

どうか 「神の掟を守る」(Iヨハ v.3) 「神の言葉を守る」(Iヨハ v.5) という表現を、神の怒りを宥める善行や功績のように考えないでいただきたい。
私たちが主日ごとに集まって共にミサをささげるとき、“聖霊の交わりの中で、会衆と共にいてくださる復活のイエス” が、その成し遂げられた永遠の贖いを私たちに理解させてくださいますように。
信者がミサ典礼をよく理解し、意識的に、敬虔に、また行動的にこれに参加するということと、聖書を通して神のことばに教えられるということ(聖書の学び)は、堅く結びついていて切り離せないのですから。

・・・・・ 以下、本文参照。
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