日本もキリスト教を盛んにしようよ。 [無断転載禁止]©2ch.net
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2014年(主日A年) 11月16日 年間第33主日
箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと精算を始めた。」(マタ v.19)
五タラントンと二タラントンをもうけた僕たちに目が行きがちですが、むしろ預かったタラントンを地の中に隠しておいた僕こそがこの譬え話の中心人物であることを見落としてはなりません。
彼は “主人が帰って来る精算の時” という復活の日の救い(フィリ 2:12,16)を、恐らく本気で信じてはいない人でありました。
彼にとって大切なことは、ただ “死後、刑罰を受けることにならないように” 用心することだけのように思えたのです(マタ v.24-25)。
つまり彼は、使徒たちが宣教する福音を理解せず、その人生は “主人が帰って来る精算の時のことを思って、目を覚まして用意している”(Iテサ 5:6)というものではなかったということです。 (つづき)
「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。 そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう。」(マタ v.30)
神を、そしてキリストを、全く誤解している信者が、初代教会にもいたのだという事実を、現代の私たちはこのようなテキストから窺い知るのです(マタ 13:50,22:13,24:51 参照)。
すでに半世紀以上前から私たちは、教会の聖職者でありながら “神が信じられない” と公言するような人々の噂を聞くようになり、最近はさらにそのような人々の数が増えたように感じています。
しかし、それくらいのことに驚いていているのは、まだ無邪気なことであって、それよりももっとはるかに悲惨な信者が教会にはいるのです。
神を、そしてキリストを、全く誤解している信者がいる! 終わりの日に、神の裁きの座から退けられて、“神様、それはないよ ・・・、そんなはずではなかったのに ・・・ ” と、そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう信者が ・・・・・ 。
毎年典礼暦の最後の三主日が、“終わりの時” に心を向けるために用意されていることを、感謝しようではありませんか。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブ 4:7)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています