扇子を叩いたら音がする、それを如何様にもできないが、叩いたら音がする話を、する、その人自身の判断が働いているのは明らかである
しかし、それらも縁によってあるのであり、つまりは外側内側どちらも、ただあるようにしかないのである
しかし、なぜかは知らないが、この五感と自然との感応の中に悟りがあると主張する
その感応ですら、それがあれば、それしかない変幻無限のものであり、そこには、流れ去る主体なき幻があるのである
しかし、それを幻と断定すれば、それは刹那には確実に存在しうるのだから、それもまた間違えになるのだ
だから悟ったというものは、何かに執着していることになるかもしれない
この此処は、永遠の変化として確かにあるが、その変化の舞台はないのである
そのないのが自己であるからして、自己にとっては、この世は夢のように過ぎてしまう
と、のたまってみる趣味